第二章 ヒトを見る目

 梅雨が明けた週末。小雨の音に包まれる〈キネマレヴリ〉にけたたましい機械音が響いた。まだ、〈キネマレヴリ〉が営業していた頃に祖父が使っていた、けれど、営業を終了した今では使っていない古びた壁掛けの電話のその音が糸雨の集中を妨害する。

 この電話にかけてくるということは、自宅に糸雨がいないとわかっていて、且つ糸雨に出てほしい電話の場合だ。学校で慕われていない糸雨に電話をかけてくる相手は大方学校の担任だ。

 糸雨と霖は、今春高校二年生に進級した。二人の担任は学校内で有名な熱血漢で不登校の生徒がいるなら電話をかけ、それでも来ない場合は勤務時間外に家庭訪問をする。糸雨にとっては心底面倒な相手だ。

 電話がかかってきて数分、一度切れた電話は、三〇秒もしないうちにまたかかってきた。

 聞こえないふりをする糸雨も段々と疲れてくる。機械音は止まない。

 数一〇分の攻防の末、糸雨は舌打ちをすると、渋々電話に出た。

「……はい」

『おお‼ やっと出たかァ‼』

 およそ聞いている相手の耳を気遣っているとは思えない声量で、その熱血漢は喜びをあらわにする。

『いつから学校に来るんだ? 糸雨!』

 まるで学校に来ることが当たり前かのようなその言葉に虫唾が走った。それに、

「馴れ馴れしいですね。名字で呼んで下さい、せんせ」

 刺々しく吐き捨てる。

『すまん‼ 名字で呼ぶと距離が遠くなった気がして苦手なんだ‼』

 元々近くもないが。会ったのなんて数回程度だろうに。

「そうですか。では、切りますね」

『待ってくれ‼ なぜ学校に来ないんだ⁉』

 しつこいな。けれど、電話を切ってまたかかってくるほうが迷惑だ。

 糸雨は、受話器を置こうとした手を耳元へ戻した。

「別に。行きたくないからですよ。学校にはおれが欲しいものがない」

『学校は勉強をしに行くところだろう‼ わがままで行かない選択ができるところではない‼』

 まるで自分の言っていることに疑問を持っていない。正しいことだと信じて疑わないその言葉に苛立ちが増していく。大体、勉強ならうに終えている。

「レポートは提出しているし、テストも受けているんですからいいじゃないですか。去年だって同じようにしてましたし。ちゃんと進級できたんですよ」

『オレはレポート提出なんてサボりは認めていない。そんなことでは授業内容を確実に履修できたとは言えない‼ いいか、学校というのは同じ年代の仲間たちと切磋琢磨をしてだな――』

「そういうの、間に合ってるんですよね」

 同じ年だからって何かを共有したり、協力して何かを成し遂げたりするなんてめんだ。なぜ、と言われても興味がないのだから仕方がない。もう構わないでほしい。何かを共にするなんて霖がいればいい。つまらないと思っていたことを霖とするだけで糸雨の日々は鮮やかになる。

『出席日数が足りなくなってもいいのか? 霖が悲しむぞ』

 なぜここで霖の話が出てくるんだ。

「霖は関係ないでしょう」

『いいや、霖は糸雨と一緒に学校に通いたいはずだぞ。お前がわがままだから霖はわがままを言えずに我慢しているのだろう』

 わかったようなこと言いやがって。たった数か月見ただけで霖を知った気になるな。

『社交性を身につけないとあらゆることから霖を守ることができなくなるぞ。いや、それよりひどいかもしれない。もしかしたら霖に振られるかもな。頼りない、わがままばかり言う男だ、と』

 電話の向こうでにやにやとする気配を感じる。

 そんな戯言に引っかかるとでも思っているのか。

「別に、付き合っていませんし。振る、振られるなんてありませんよ」

『お、必死の弁解か?』

 うるさいな。

 これは、担任に対しての苛立ちなのか、それとも担任の言葉に引っかかってしまっている自分に対しての苛立ちなのか。わからずとも不快感は増していく。その不快感を振り払うようについ口にしてしまった。

「いいですよ、通っても」

『本当か‼ 来週から待っているからな‼ 絶対来るんだぞ。来なかったら家庭訪問だからな‼』

「……」

 もう話は終わっただろう、と電話の向こうの担任の、見えないはずの口を押さえつけるように受話器を置いた。

 そして、舌打ちの後に大きな溜め息を一つ。

 面倒なことになった。これだからこの男は苦手なんだ。わずかな時間でどっと疲れた身体を椅子にもたれかけて目を瞑る。通学を承諾した理由の一つに、間違いなくこの前の霖の言葉が影響していることを糸雨はわかっていた。

 ――貴方、わたしがいなかったらどうするの。

 今でも考えたくない。

 ――糸雨とわたしがもし離れてしまったらって話をしているの。

 なら、離れなければいい。

 ――わたしを置いて行かないで!

 当たり前だ。置いて行くもんか。

 落ち着いた鈴の音の声が乱れた様子は久々で、あの夜感じた動揺は日が経っても心に刻まれたまま、むしろ濁って増して消えない。

 ただ、糸雨が真っ先に覚えた感情は、霖が動揺してくれるのは糸雨だけ、という優越感だった。それが、より罪悪感を助長させた。

 一緒に学校へ行けば霖は糸雨を見ていてくれる。糸雨も霖を見ていられる。

 学校へ行くと言ったら霖は喜んでくれるだろうか、と淡い期待を抱いて、短く息を吐く。

 担任に言われたから、と言われかねない状況に苛立つが、全ては霖のために。


 週明け、霖が〈キネマレヴリ〉を訪ねてきた。

 叔母の家から完全に出たって良いだろうに、霖は、律義に家事をしに家へ戻る。ほんの数日〈キネマレヴリ〉に泊まっては、顔を引きつらせて鳥籠を出ていく。

 霖が帰る場所は〈キネマレヴリ〉だ。しかし、皮肉にも安全な鳥籠を自ら開けて、檻へ入っていく。同じ鉄でも装飾が施されているかそうでないかは見なくとも明らかだ。

「糸雨?」

 作業部屋に顔と出した霖は、珍しく髪と服が乱れていた。

「おはよう、霖。寝坊でもしたのか?」

 時計を見てみるが、焦るような時間でもない。寝坊はしたが間に合うように家を出たか、それとも。

「うん。ちょっと、ね」

 目を逸らされた。

 ああ、この反応は寝坊なんかじゃない。上手く取り繕うとも糸雨の目は誤魔化せない。

「腕、見せて」

 意図せず糸雨の声に冷ややかさが増す。甘さの消えた声を霖に聞かれてしまった。驚かせただろうか、と咳払いを一つ。幸い、霖は糸雨に知られてしまったあることに気を取られてこちらの焦りには気づいていない様子だった。

 霖が庇っていた腕を見ると、制服に隠れる部分だけに花模様の痣がつけられていた。それも、古いものの上に新しいものが重なるような、およそ人の所業だと思えない執拗さで。

 最近は落ち着いていたんだけどな、と痣を撫でる。あのババア、という言葉は霖のためにも決して口にはしない。

「今朝?」

 痣を付けられた時期を問うと、霖は気まずそうに頷いた。

「おいで、薬塗ってあげる」

 すっかり、〈キネマレヴリ〉に常備されるようになった救急箱を開けて、糸雨は霖の腕に軟膏を塗る。

「何があった?」

 冷たくならないように、トーンの高い声を出し、促す。

「わたしが段々と身綺麗になってきて叔母さまを苛立たせてしまったみたい。四か月ぶりにぶたれたから痛みを感じてしまったの」

「前のが消えかけていたからってまたつけるなんて」

 高校生の年頃になると顔も体つきも年々大人になっていく。糸雨も霖もそれは例外なく訪れ、幼い頃から可憐だった霖は、年々母親に似てきた。雨の町一番の美しい容姿を持っていた姉に劣等感を抱いていた妹は、過去を思い出させる姪がさらに妬ましく、憎らしいのだろう。

 美しくならないように、と服や生活用品を与えていなかったのに、糸雨が支援するようになって計画が崩れた。その怒りの矛先を霖ではなく自分に向けてくれたらいいのに、と糸雨は思った。

 霖が美しくなっているのは糸雨が贈っているものが上等な品だからだ。ただでさえ顔が整っている霖に上等な品を贈れば並の人間では対抗できない。糸雨は霖を着飾ることが楽しみの一つだった。最高のモデルに痣をつけた代償は大きい。

「霖、まだ家を出る気はないのか?」

「ええ、もちろん。夏休みは毎日ここにいるから大丈夫よ。心配しないで」

 心配しないで。そのお願いは聞けそうにない。

 薬を塗り終えて、霖は〈キネマレヴリ〉のロビーへ向かう。

「糸雨、学校行かない?」

 いつもの言葉。ただ、いつもと違うのは糸雨の返答だった。

「行く」

 一瞬、驚いた表情をした霖は、瞬きをした次には淡く微笑んだ。

 糸雨は制服に着替えると、霖におまたせ、と言った。しかし、

「貴方、それで行くつもり?」

 髪はぼさぼさ。洗ってはいるが誤魔化せない顔は、目の充血と隈で正直言って酷いものだ。

〈キネマレヴリ〉を出る時間を遅らせて霖に磨かれた糸雨は、久々の通学路を歩いた。

 道中、霖はずっと微笑んでいて、糸雨はそれに安心した。


 雨雲が暗雲と雨の町を包み込む。開校してしばらく経った学校は小中高と横並びに建てられている。それぞれ雨の町唯一の学校で特に離れて建てる理由もなければ場所もあったため、雨の町の北端が学校の敷地になってから長い。

 校門を潜って校舎に入ると、視線は一気に霖へ集まった。この光景も久々だな、と糸雨は霖を小突く。

「霖、手でも振ってやれば?」

「いやよ。媚びていると思われちゃう」

 嘘だね。本当の理由は手を振るという行為をするのは糸雨、ただ一人の特権だからだ。わかっていてなお、続ける。

「いや、むしろ――」

 遠巻きに頬を染めている男子連中にはご褒美ではないだろうか。

「むしろ?」

「……なんでもない」

 やはり、自分の首を絞めるのはやめておこう。

 糸雨は、男子連中から霖を隠すように歩いた。

 教室の扉を開くと、教室内がどよめいた。

 中学生から数える程度でしか見たことのない糸雨の顔の珍しさに。今日登校してきたことの新鮮さに。そして何より、不気味な〈キネマレヴリ〉に入り浸る亡霊館長が昼間に外へ出たことに。

 無関心、唖然、そして嫌悪。さまざまな感情を向けるクラスメイトに糸雨は何も感じない。霖は糸雨の分まで苦しさを感じて苦笑した。けれど、クラスメイトは気づかない。

 意図的に隣の席にされている糸雨と霖は、自分の席に着くと、クラスメイトの発言を耳に入れないように会話をする。

「霖、大丈夫か」

 霖は頷いた。

「糸雨は何も悪いことしていないのに」

 霖が感じる必要のない痛みを糸雨の代わりに感じて、抱えてくれる。それが心苦しいと思ううちは、糸雨は霖の心を守る義務がある。しかし、糸雨自身はそれを義務だとは思わない。それは、霖を守ると決めた糸雨の意思であって、霖を守ることに義務感を感じてはいないから。だからこそ、

「おれは大丈夫だから、霖は気にしなくていいんだよ」

 霖の益にならないものを排除するのは糸雨の役目だ。

 鐘がなって、担任が教室へ入ってくる。

「おお‼ 糸雨、よく来てくれたなァ‼」

 電話越しの声よりも何倍も大きな、明瞭で不快な声。教室内のどよめきもその声にかき消され、生徒の声は担任を迎える明るい声に変わる。

 学校とはこんなにも騒がしいところだっただろうか。もう何か月前かもわからない前回の登校を振り返るが、思い出せなかった。

「今日から毎日来てもらうからな‼ 糸雨のことよろしく頼むぞ、霖‼」

 決して思いたくはないが、歓迎されている、のだろうな。

 雨の町に似合わぬ太陽の、夏の日差しの照りつける暑苦しさで、担任は笑う。

 ふと、担任は霖の頭を撫でようとした。

 頭上から迫ってくる大きな手に、霖がヒュッ、と息をつめ、顔を強張らせる。

 糸雨は見逃さなかった。

「霖に触らないで下さい」

 その手が霖に触れる前に払いのけて、さらに痩せた細い腕から出される力とは思えない力強さでその腕を握りしめる。ギリギリと軋む音がすれば、担任は顔を歪めた。

「すまない、糸雨‼ 怒らないでくれ! オレはお前らと仲良くなりたいんだよ‼」

 知ったことか。霖に触ろうとした。それが問題だ。

「霖に謝って下さい。おれに謝る必要はありません。それと、おれとあんたが仲良くなる日なんて、一生来ることはないでしょう」

 糸雨は霖を連れて教室から出て行った。


 その日は、すぐに〈キネマレヴリ〉に帰宅した。担任に頭を撫でられそうになったときから震えていた霖は、〈キネマレヴリ〉に着く頃には落ち着いた。

 教師として生徒との距離は取るべきではあるが、さらに霖は、自分より高いところから与えられる衝撃にトラウマを持っている。それは、かつて叔母とその婚約者が行った非道の一つで、幼い霖が床に額を擦り付けて懇願しながらも行われた、遥か頭上からの暴力によるものだった。髪を引きちぎられたり背中を殴られたりするそれは、現在も続いている花模様の痣よりも霖の心をえぐっていた。

 だからこそ、糸雨は決して霖の頭上に手を伸ばしたことはない。それなのに、あの担任は、取り返しのつかないことをしようとした。

「霖、やっぱり学校行くのやめよう」

「どうして?」

「あの人は霖を傷つけるじゃないか」

「わたしは、別に」

 言い淀む霖の言葉に説得力はない。しかし、なんだかその言葉が初めてではない気がした。

「もしかして、おれが行っていないときに頭を撫でられたことがあったのか?」

 あくまで、推測だった。けれど、

「……一度、あったわ」

「……明日も行く気なのか?」

「ええ。できれば糸雨も一緒に」

 手を握られる。お互いに冷えて、骨が浮いた硬い手が乾燥した肌を撫でた。

 霖の決めたことなら、それは糸雨にだって止める権利はない。

「……わかったよ。もし、危険な目に遭いそうになったらおれを呼んで」

「もちろんよ」


 翌日、教室へ入ると、すでに登校していた生徒たちが糸雨と霖のほうを凝視した。糸雨はすぐに自分の席へ着いたが、糸雨が離れた途端に、霖は友達らしい少女たちに囲まれる。

「霖! おはよ!」

「おはよう」

「ねぇ、なんで昨日すぐ帰っちゃったの?」

「ちょっと体調が悪くなっちゃったの」

「そうなの⁉」

 キラキラとした、いかにも高校生らしい会話だ。少女たちは控えめな霖にさらに追及する。

「ねぇそれって糸雨が原因じゃないの?」

「ああ、わかる。糸雨ってなんだか怖いじゃない」

「呪われるってやつ? 霖もいつか呪われるんじゃない?」

「あたしたち霖が心配なのよ」

 結局はこれか。心配という言葉を使ってはいるが、結局少女たちが気にしているのは己の心配だ。

 呪いの館の〈キネマレヴリ〉に入り浸る糸雨は呪われていて、その糸雨と関われば自分も呪われる。そして、糸雨と一番関わりのある霖はすでに呪いを受けていて、霖と友達である自分もいつか被害に遭う、と。

 霖は一瞬顔を曇らせるが、瞬きをすればすぐに作った笑顔へと変わった。少女たちが気づかぬところで霖の怒りはふつふつと沸き上がっている。

 家でくつろぐことが許されない霖が学校なら安心できるのではないかという期待は、あっけなく崩れた。所詮、学校も霖の居場所ではなかった。

「霖」

 糸雨が囲まれる霖を呼ぶと、霖はすぐに応じる。

 その様子を見ていた少女たちは霖をいぶかしんだ。

 糸雨の下へ来た霖は、柔らかい微笑みを糸雨へ向ける。それを盗み見ていた男子が頬を染めるのを横目に、糸雨は霖と授業が始まるまでの短いひと時を過ごす。

 糸雨だけに向ける朗らかな笑顔が他の男子に向けられることはない。それに苛立つような小声が糸雨の耳に届き、糸雨は妖しいどこか色香の帯びた微笑みを浮かべる。

 その妖しさにクラスメイトが背筋を凍り付かせると、糸雨の纏う雰囲気は一気に教室を支配した。その雰囲気にてられてから、クラスメイトは糸雨と霖に話しかけることはなくなり、二人の高校生活は平穏になるかと思った。

 しかし、担任にはそれが効かず、苛立ちを隠そうともしない糸雨に毎日構った。

 退屈で怒りのこみ上げる学校生活の中でも唯一、霖を眺めることが癒しだった。一緒に登校をして下校する。授業も隣の霖を眺めているとあっという間に鐘が鳴る。それだけで心が満たされた。

 そして、夏休み前にテストが行われた。糸雨は適当に受けると、いつも通り学年一位を獲得した。まともに授業を聞いてもいないくせに。何か月も学校に来ていなかったくせに。そんな陰口も聞こえたが、糸雨と霖は気にも留めなかった。だって、それは負け犬の遠吠えだから。

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