第一章 固くて脆い拠り所

 戦前まで栄えていたその町は、戦後の経済成長に後れを取り、すっかりひとがなくなった。晴れることがないという町の特徴と、人気がなくなり寂れてしまったという皮肉からつけられた名は、雨の町。

 春、天気は曇り。雨の町の大通りは今日も殺風景。

 寂れた映画館〈キネマレヴリ〉で一人暮らしをする少年、は、眠い目を擦りながらあくびをする。くすんで灰色に見えるぼさぼさの銀髪の頭を掻きながら早朝の静けさに身を委ねていると、館内へ入ってくる人の気配を感じた。

 閉館してしばらく経った〈キネマレヴリ〉に近寄る人は糸雨が知る限り一人しかいない。糸雨の幼馴染、りんだ。彼女は、一向に学校へ行きたがらない糸雨を登校させるために毎朝迎えに来る。

「しーうー?」

 糸雨を探す、高いけど落ち着きのある鈴の音の声が聞こえて、気の無い返事をする。

「ああ」

 糸雨が改装した〈キネマレヴリ〉の一室の作業部屋に、白く透き通った長い銀髪と真紅の瞳の少女、霖が顔を出した。

「おはよう、糸雨。学校行かない?」

「おはよう。ねぇ、霖。それ、いつまで続けるつもりなの。おれが行かないことくらいとっくにわかっているでしょ」

「さぁ、それはどうかな。気が向いたら貴方だって行くでしょ?」

「そうかもしれないけどさ。行く気にならないんだよ」

「わたしと学校行くの、いや?」

「ずるいよ、その言い方」

 ふふん、と霖が鼻を鳴らす。軽口を叩けるのは霖の心身が安定している証拠だ。溜め息を吐きつつ、霖が今日も健やかに過ごせていることに安心して、糸雨は〈キネマレヴリ〉の入り口まで霖をエスコートする。

「いってらっしゃい、霖」

「いってきます。作業頑張ってね、糸雨」

 霖が言った作業とは映像と写真の作品作りのことだ。糸雨は、〈キネマレヴリ〉の元館長の祖父と写真家の父の影響で、幼い頃から映像と写真に関わり興味を持っていた。その興味は、〈キネマレヴリ〉の持ち主が自分になり、自由に創作に時間をさけるようになってからより深まり、その世界に没頭していった。

 雨の町に建つひときわ大きな映画館〈キネマレヴリ〉はかつて、雨の町の代表的なデートスポットだった。しかし、徐々に訪れる人が減り、経営不振に陥り閉館した。それからは肝試しスポットとして再び脚光を浴びたが、祖父と糸雨には不満でしかなかった。さらに寂れて肝試しスポットとしても使われなくなると、糸雨は〈キネマレヴリ〉をアトリエにして日々映像や写真を撮るようになった。ただ、糸雨がアトリエにしていることを知っている者はごく僅かで、度々怪奇現象だなんだと噂されるようになり、ついには〈キネマレヴリ〉は呪われているのだという迷信までもが広まった。しかし、そのおかげで〈キネマレヴリ〉に近寄る者がいなくなり、糸雨にとっては静かで過ごしやすい環境になった。

「さぁ、今日もやるか」

 首筋まで伸びた灰色の銀髪を適当に結って眼鏡をかける。恐らく充血しているだろう漆黒の瞳が若干痛かったが、糸雨にとってはどうでもよかった。

 今日は昨日撮った写真の確認作業をする。一日に何百、何千枚と撮る糸雨はその確認だけで時間が過ぎる。

 糸雨は、ただ夢中で手を動かした。

 糸雨が作品作りに没頭する理由は、周りの評価を得るためではない。自分が良いと思う作品を作りたい。そして、霖に喜んでもらいたい。ただそれだけ。

〈キネマレヴリ〉の客は霖ただ一人。

 空腹であることも睡眠不足で限界を迎えていることにも気づかず、糸雨は傍から見れば同じ映りの写真を瞬きを忘れて眺めていた。


 祖父がまだ生きていた頃、糸雨の世界は鮮やかだった。隙を見て〈キネマレヴリ〉に忍び込んでは操作室のあらゆるボタンを押して遊んだ。祖父にはすぐに見つかって怒られたが、糸雨はりずに何度も忍び込んだ。

 とある日、祖父が糸雨を操作室の入室を許可してくれた。霖も誘って操作室に入ると、祖父直々に映写機の説明やネガフィルムの保管方法、映画の歴史について教えてくれた。夢中になって覚えると、祖父はめいっぱい褒めてくれた。

「糸雨は筋が良いなぁ、えらいえらい」

 そう言って頭を撫でてくれる祖父が、糸雨は大好きだった。

 しかし、少し背が伸びた小学校高学年のとき、祖父が体調を崩した。糸雨の両親は仲が悪く、一家の大黒柱である祖父がいることでやっと均衡を保っている状況だった。その均衡が危うくなるにつれて両親のけんは頻度が増えた。

 父は自由に写真を撮れる環境と時間が欲しかった。母は父からの愛情が欲しかった。父が写真に執心するほど、母の癇癪は酷くなる。父は写真を撮るために海外に拠点を移したかったが、母はそれを止めていた。半年に一度帰るか帰らないかの夫を海の向こうへ送りたくなかったのだ。折衷案として家族みんなで海外へ引っ越すという意見も出たが、それは父の求める環境ではなかったし、糸雨も海外へ行くことには反対だった。

 一向に話は進まないし母の怒りは増して、家中に怒鳴り声が響き渡った。糸雨は母の声が苦手だった。怒りの矛先である父だけでなく、その場の全員を責め立てるようなあの怒声が。自分は悪くない、と本気で思っているあの喚きが。日常の優しく語り掛ける声でさえ、糸雨は耳を塞ぎたかった。

 家に帰るのが億劫おっくうになった糸雨は、霖に慰めてもらい、日々の癒しを得てなんとか過ごしていた。だが、ある日糸雨の心にヒビが入った。

「うるっせぇんだよ‼」

 その日、家には母だけでなく父の怒声も響いた。いつも冷たく、母の言葉には眉一つ動かさない父が初めて声を荒らげた。部屋で眠っていた糸雨は父の声に起こされ、その日から眠れなくなった。

 どうにかして喧嘩を止めたい、と両親がいる部屋の前まで来てはみたが、中に入る勇気はない。立ち尽くしている僅かな時間でも両親の怒声は止まない。そんなとき、ふらふらとした足取りで、祖父が様子を見に来た。

 怯え、震え、必死に両手で口を押さえ、涙を止めようとする糸雨を見た祖父は、いよいよ我慢ができなくなり、両親を怒鳴りつけた。

「いい加減にせんか‼」

 一言で家は静寂に包まれた。

「糸雨がいることに気づかないとは親失格だ‼ 夜中にいつまでも大きな声を出しおって。くだらないことで騒ぐでない‼」

 均衡は保たれたかに見えた。


 糸雨が中学校に進学した夏、祖父が他界した。葬儀中にもかかわらず喧嘩をする両親の不謹慎なその姿に糸雨は呆れ、寝不足の頭に響く怒声に耳を塞いだ。

 均衡が崩壊する。

 葬儀の翌日、両親の離婚が成立した。母は雨の町から出ていき、父に身も心も似てしまった糸雨を置いていった。父はかねてより望んでいた海外へ行き、それから一度も帰ってこない。それでも、生活費は余るほど送られてくるから糸雨に不満はなかった。

 むしろ、あの地獄のような日々から抜け出せた糸雨は、一人暮らしという自由を得た。


 ◇◇◇


 学校から帰宅した霖は、糸雨からのお小遣いで買った袋いっぱいの食材を持って〈キネマレヴリ〉の中へ入る。

「ただいまー」

 おかえり、が聞こえない。出かけているのだろうか。いや、外に出たがらない糸雨が一人で外出などするはずがない。それなら眠っているのか。それも怪しい。夕方は糸雨が一番好む時間だ。創作に心血を注ぐ糸雨がその時間を無駄にするわけがない。ならば、作業部屋にいるはずだろう、と覗き込んでみると、部屋中に写真が散乱していて、糸雨は床に倒れ込んでいた。

「糸雨⁉」

 慌てて駆け寄る。

「……すぅー…………すぅー……」

 正常な呼吸。しかし、以前にも増して濃くなった隈。穏やかな寝息に合わぬしかめっ面。ああ、また寝られなかったのか、と霖は察した。上がった心拍数を抑えながらやるせない気持ちになっていると、ぐぅ、と気を緩ませる音が耳に届く。

 霖はこめかみを押さえる。

「糸雨……ご飯食べてないのね」

 呆れた。冷蔵庫に幾つか食べ物を置いているのに。面倒くさがる糸雨のために、作業をしながら食べられるように工夫して作ったのに。

 糸雨は、霖以外が作った食べ物を口にしようとしない。霖が放っておいたら、糸雨はきっと餓死してしまう。生活力のない糸雨を管理する霖の心労はいつだって絶えない。

 溜め込んだ感情を身体から出すように息を吐いた霖は、気絶している糸雨を床に転がしブランケットを投げつけると、食事の用意をしに台所へ向かった。


 夕飯の準備が整い、糸雨を起こそうと作業部屋に向かうと、糸雨はまだ眠っていた。

「糸雨、ご飯食べよ?」

 霖が呼びかけると、糸雨は唸りながら目を開き、瞼を擦る。

「ハンバーグの匂い……」

 普段のピンと張り詰めた繊細な糸の声ではなく、若干かすれた緩められた糸の声。

 寝起きの声を聞いて、霖は、糸雨が目覚めてくれたことに安堵する。

「正解」

 好物の香りを察知して、糸雨はすぐに起き上がった。

 作業部屋から移動しながら、霖は学校であったことを糸雨に話す。

「今日ね、糸雨を学校に連れてきてくれないか、って先生に頼まれたんだよね。どうする?」

「どうするって。そういうことって本人に言わないものなんじゃないの」

 糸雨が困惑した顔をするが、霖は至って当たり前のことのように答える。

「隠し事したくないもの。それに、言ったところで何が変わるわけでもないし」

「確かに、どっちにしろ行かない。言われるほど行きたくなくなるけど」

 霖が糸雨の顔を覗き込んで、

天邪鬼あまのじゃくね」

「今更だ」

 糸雨は肩をすくめる。

 リビングに改装した休憩室には、霖が作った夕食がテーブルいっぱいに並べられていた。

「「いただきます」」

 同時に言うと、糸雨は一気にハンバーグを食べ、白米を掻き込んだ。

「胃に悪いよ」

 霖が小言を言うと、糸雨は口いっぱいに含んだ食べ物を飲み込む。

「お腹が空いてんだから仕方ないだろ」

 うん、知ってる。だから、喜んでほしくて好物を作った。

 ふと、倒れた糸雨の姿を思い出す。

「市販の総菜もこうして美味しそうに食べてくれたらいいのに」

 それは、ほんの冗談のつもりで言った言葉だった。それでも、頭の中にはあって、つとめて明るく喋ったそれは、確かに糸雨への不満だった。

「売っているものなんて信用できない。おれには霖がいるんだから良いじゃないか」

 やっぱり。糸雨の言葉は霖が予想していた答えだった。作った料理を美味しそうに食べてくれることは喜ぶべきことだ。実際、霖も嬉しいと感じた。なのに。

「貴方、わたしがいなかったらどうするの」

 軽口のように言いたかった。しかし、その響きは糸雨を咎めるものだった。

 曇りだった天気が徐々に悪くなり、雨の音が〈キネマレヴリ〉に響く。

「耐えるよ。霖がいない時間なんて、学校に行っているほんの僅かな時間なんだから」

 一日の三分の一がほんの僅かだと思っているのか。些細な言葉が気になった。今までは気にならなかったのに。いや、気にしないようにしていたのに。

 想うほどに、心が曇っていくのを感じる。

 言いたくなかったことを思わず言ってしまうほどに、糸雨の想いが知りたくなる。

「そういうことを言っているわけじゃないのよ。糸雨とわたしがもし離れてしまったらって話をしているの」

 雨脚は強くなる。霖の言葉に糸雨が顔をしかめた。

「そんなことは考えたくない」

 知っている。唯一信頼している人が自分の前からいなくなることなんて、極度の人間不信の糸雨には耐え難い。それは霖も同じ。

「糸雨。いくら同い年だからって同じ年、同じ日に死ぬなんて無理なのよ」

「じゃあ、霖はおれを置いていくのか? おれより早く死ぬのか?」

 縋るようだった。霖だって縋りたかった。

「わたしだって、糸雨に置いて行かれるのは嫌。今日だって、気絶したの何回目?」

 声が震える。堪えていたのに、

「いちいち数えてないよ」

 素っ気なく返されたその言葉が胸に刺さって決壊した。

「わたしは、糸雨がいつか身体を壊してしまうんじゃないかって、いなくなっちゃうんじゃないかって、怖いの! 最近はわたしより痩せて。お願いだから、わたしを置いて行かないで!」

 糸雨が倒れているところを見て、どれほど動揺したことか。呆れもしたが、それでも慣れることは一生ない。

「ごめん、霖」

 そこで霖の想いに気づいたらしい糸雨は、すぐさま霖を抱き寄せると、ぎこちなく抱きしめた。まるで、少し力を入れただけで壊れてしまうのではないかと本気で思っているようなそれは優しかった。

「何に謝っているのよ」

 抱きしめ返せなかった。けれど、身を委ねる。涙は出ないのに、もしもの想像がついてしまう恐怖で肩が震えた。

「……ごめん」

 雨に消えそうなか細い声で。

 痩せた身体の抱き心地はお世辞にもいいとは言えない。顔が見えないことも相まって、糸雨の考えていることがわからなかった。

 糸雨は、幼い頃から霖のことを大事にしてくれる。いつも甘くて、いつもかっこよくて。それでも当人は、たまに何かを抑えるように手元を見つめていたけれど。

 糸雨の想いは純粋な甘さの清流。霖の想いは混ざりものの苦さの濁流。糸雨がどう考えているかはわからないが、あくまで霖はそう思っている。だからこそ、霖は想いをぶつけることに不安を感じていた。

 枯渇することのない甘さに溺れるには勇気がいるから。

 一度溺れたら、戻れる気がしなかった。


 糸雨が〈キネマレヴリ〉の操作室に入る許可をもらい、霖も誘われた日、両親が交通事故で亡くなった。家に帰ってもおかえり、が聞こえなかった。恐らく、霖はそのとき一生分の涙を流した。あの日から霖は泣くことができない。親戚たちが揉めている葬儀場で糸雨のぬくもりだけが心の支えだった。

 引き取ってくれた叔母は、霖のことが憎かったのかもしれない。声を出せばうるさい、と言われ、わからないことを聞けば知らない、と言われた。愛する人と暮らしていた理想郷に小娘が侵入したのだから当然とも言える。

 檻のような叔母の家で暮らし始めてから、霖の持ち物は目に見えて減っていった。嗜好品はもちろんのこと、服や食事も与えられず、いつしか叔母とその婚約者の食事の用意は霖の仕事になった。姉に劣等感を抱いていた妹が、姉の娘を愛すはずなかった。

 霖の身体には、叔母と婚約者が火傷と打撲でつけた花模様の痣が、その白い肌を赤黒く染めていた。

 糸雨に隠し事はできない。傷はすぐに気づかれた。糸雨は叔母に向かって殴りかかろうとしたが、霖は糸雨を止めた。糸雨の怒りは収まっていなかったが、理由は簡単だった。反抗すればお仕置きが待っているから。満足するまで息を殺して待っていればすぐに終わるから。

 霖は今でも覚えている。糸雨の憎悪に満ちた顔を。

「おれが、りんをまもるよ」

 忘れもしない、決意の言葉を。

 糸雨の宣言通り、中学校に進学したときに霖は解放された。糸雨の一人暮らしが始まったのだ。糸雨が、霖を〈キネマレヴリ〉に招いてくれたおかげで、霖は自由を得た。


   ◇◇◇


 雨脚はさらに強まる。雨の町では梅雨でもないのに大雨が降る。霖を大雨の中で帰宅させるなんて、糸雨にはできなかった。それに、糸雨は霖が隣にいないと眠れない。

「泊まっていって、霖」

 霖はただ、俯いたままこくりと頷いた。

 壁の薄い〈キネマレヴリ〉に響く雨の轟音。互いを閉じ込めるその空間が、糸雨には特別で愛おしい。

 糸雨は霖の手を取ると、ベッドが置いてある作業部屋の隣の部屋へ連れて行った。帰りたくない自宅の、祖父の死から時間が止まった糸雨の部屋から持ってきたシングルベッド。

 布団に潜っても、霖は顔を上げてくれなかった。

「霖」

 名前を呼ぶと、霖から手を握ってくれた。隙間を埋めるような恋人繋ぎで強く。

「糸雨、」

 名前を呼ばれた。

「いなくならないで」

 縋るように。

「いなくならないよ」

 受け入れると、霖が糸雨の胸に耳を当てて目をつぶった。

「糸雨の鼓動は速いのね」

「君のせいだよ」

 穏やかに。霖が目を開き、耳を離すと、糸雨も霖の胸に耳を当てた。

「霖の鼓動も速い」

「貴方のせいね」

 笑みを含んだ響きだった。糸雨は霖の胸から耳を離し、両手を霖の頬に添える。額に額を重ねると、霖も糸雨の頬に手を添えてくれた。

「わたしは貴方のものよ」

「ああ、もちろん。おれも君のものだ」

「ええ、そうね」

 だから、置いていくのは赦されない。

 互いを目に焼き付けて、ただ一つの居場所に縋る。

 雨の町の他にも住みやすい場所はあるだろう。それでも、雨の町を捨てられないのは、ここに大切な〈キネマレヴリ〉があるから。

 その一室で。

「おれたちは、二人で一つ」

「先に消えたら、赦さない」

 二人だけにわかる愛の言葉を。

「「おやすみ」」

 告白も、逢瀬も全て。二人だけにわかる世界で。

 目をつぶり、互いに身を委ねる。そうすれば二人同じ夢を見るから。

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