第66話
放課後。今日はラブラビの定休日だ。
特にやるべき事のない翔は教室に残り、明日から本格的に始まる文化祭の準備期間のために、女装カフェのアイデアをノートに書き出していた。
あの後、翔の女装カフェ案に少しだけ修正が足され、女子も立候補すれば男装をしていいことになった。だが、女子で立候補する人がいなかったため、結局は女装カフェのままだ。
しかし店名が「女装カフェ」ではあまりに特徴がないので、翔は今、店名を考えるところから始めている。
「何かコンセプトがあるといいかもしれないわね」
後ろから明るい声が聞こえた。翔が振り向くと、姫奈が立っていた。そして当然のように、空席になっている隣の席に座った。
「ただ女装するだけだと、お客さんもどうやって楽しんだらいいか分からないじゃない。だから、何かテーマを決めるのよ」
「なるほど。例えば……?」
「例えば、そうね、うさぎさんカフェとか?」
姫奈は両手を頭の上で立て、うさぎの耳を表しながら「ぴょんぴょん」と言った。割とノリノリな様子で。
──可愛すぎる。
翔がじっと見ていると、姫奈は反応に困ったからか、しばらくそれを続けてくれた。だが、やがてふくれっ面になり、「ちょっと!」と翔をたしなめた。
「今のはあくまで一例だから。忘れなさいよ」
「いや、そう言われても」
あまりにも可愛かったので、ラブラビでもやってくれないだろうか、と翔は内心思った。
だが、冷静になって考えると、今のは姫奈が可愛いから成り立つのであって、女装した男子がやったらと考えると、正直かなり無理がある。
姫奈は切り替えるようにアイディアを出していく。
「他には、メイドとか、アイドルとか?」
なるほど、と相槌を打ちながら翔は、期待を込めた眼差しで姫奈を見つめたが「やらないわよ」と一蹴されてしまった。
「姫奈はいろんなことに詳しいな」
「そんなことはないわ。ただちょっと、そういう仕事に憧れみたいなものがあるだけよ」
「そうなのか?」
それは初めて聞いたことだった。だが、理由を聞いたらすぐに納得した。
「だって接客って、目の前の人を幸せにする仕事でしょ? それってすごく素敵じゃん!」
改めて思い出す。姫奈は人一倍、幸せに対する願望が強いのだ。
「お客さんが幸せになってくれて、それを見て自分も笑顔になる。素晴らしいことじゃない」
そして彼女には、自分の幸せを周りの人にまで分け与える優しさがある。
「もしかして、ラブラビでバイトしてるのも、それが理由?」
翔が尋ねると、姫奈は少し考えてから頷いた。
「まあ、うさぎが可愛いからっていうのもあるけどね。でも、私の本能的な部分で選んだ結果が、そうだったのかもしれないわ。それに、ラブラビで働くようになって恭子さんの働きぶりを近くで見てたら、もっと接客の仕事に興味がわくようになったの。お客さんの動きを先読みすることとか、お店のレイアウトの細かいところとか、恭子さんと一緒にいると勉強になることが多いから」
続けざまに、姫奈は翔に尋ねる。
「知ってる? 恭子さんってね、常連さんの好きなコーヒーを全部把握してるのよ。しかも、その日の常連さんのテンションとかによって、あえて違う種類のコーヒーを勧めたりもするの」
そこまで細かいことは、翔は知りもしなかった。だが、恭子さんの接客スキルの高さは、翔も常日頃、身に染みて感じている。
あの人は常に気配りを忘れない。バイトに対してもお客さんに対しても。翔たち学生の面倒を見るのと同時にお客さんの様子を見て、的確な指示を出す。学生たちがシフトに入れないときも、頭数が減るのにサービスの質は落とさない。図ってか図らずか分からないが、たまに冗談を言いったりして、話しかけやすい雰囲気までつくってくれる。
「たしかに、あの人って凄いな」
だが翔は、それと同じくらい、姫奈のことも凄いと思った。
翔から見たバイト中の姫奈は、まるで母親に甘える娘のようだった。基本的にタメ口だし、遊び感覚でバイトをしているように見える場面も多々あった。だけど今の話を聞いて、想像以上に姫奈が恭子さんを尊敬し、細かいところまで観察していることが分かったのだ。
姫奈の抜け目のなさと、幸せに対する執念のようなものを感じた。
だからこそ翔は、あることに引っ掛かった。
さっき、文化祭の案をクラスで決めたときにも気になったことだ。
「だとしたら姫奈は、どうして女装カフェの案に手を挙げなかったんだ?」
「あー……、っと」
姫奈の目が泳いだ。いつもは真っ直ぐ翔のことを見つめてくるのに。余計にその答えが気になってしまい、翔は身を乗り出した。
「……だって、嫌だから」
翔は胸がきゅっと縮むような感覚になった。姫奈のためと思っての提案だったのだが、当の本人が乗り気じゃないなんて。これではただの自分勝手だ。
「ごめん、オレがそんな提案しなきゃ」
だが姫奈は慌てた様子で「違うのよ!」と首を振る。
「翔くんが悪いんじゃないの。私が、嫉妬しちゃったから」
「嫉妬?」
姫奈は唇を尖らせながら、「うん」と頷く。
「だって、翔くんが本気で女装したら、その……、私より可愛くなっちゃうかもしれないじゃん!」
「えー!」
まさかそんなことが理由だなんて。内心少し気まずかった翔だが、一気に気持ちが楽になった。そして口まで緩んでしまい、思わず本音がこぼれてしまう。
「姫奈の可愛さには勝てないし、大丈夫」
言い切ってしまってから、あ、と思った。翔の頬はみるみる紅に染まっていく。
姫奈は姫奈で、両手で自分の顔を覆い、そのまま太腿に顔を埋めるように丸まった。
「ばか。翔くんって、ほんとばか」
くぐもった甘い声が太腿の間から漏れ出している。
そんな様子を見て、ますます翔は姫奈のことが可愛いと思った。嫉妬してしまうところも、こうして照れてしまうことも、何もかもが可愛らしい。
姫奈と一緒にいると自分の中の何かが溶けるような感覚になり、本当に自分が馬鹿になってしまったのかと錯覚してしまう。
「──あの、お取込み中に悪いのですが」
横から声を掛けられ、翔は夢から覚めた気分でそちらを向いた。姫奈も慌てて身構えた。
声の主は、翔たちがよく知っている人物だ。
「──て、哲太氏、どうしたんですか?」
いつの間にか哲太が、ちょうど三角形を成すような位置で二人を見守っていたのだ。
「文化祭のアイデアを思い付いたので、ぜひ翔氏にお話ししたいと思って図書館から教室に戻ってきたのです。そうしたら教室に二人の姿が見えたので、姫奈さんにも共有させていただこうかと……。ですが、すみません。水を差す結果になってしまいました」
とぼとぼと帰ろうとする哲太の腕を翔が掴む。
「邪魔されたとか思ってないですから」
「そうよ! 私、哲太くんのお話聞きたい」
どれだけ姫奈との関係が進展したとしても、翔は哲太のことは蔑ろにしたくないと思っていた。友情を犠牲にして成り立つ恋愛なんて、翔は嫌いだ。みみちゃんも含め、四人の友情は何があっても崩したくない。
哲太は爽やかな表情で振り向いて「ありがとうございます」と丁寧にお礼を言った。
「今のは小生なりの冗談です。小生も少し、あまりにも楽しそうな二人の様子を見て、嫉妬してしまったのかもしれませんね」
姫奈の顔が徐々に曇りだす。
「……哲太くん、いつから私たちの会話を聞いてたのよ?」
「姫奈さんが『私が、嫉妬しちゃったから』と言ったところからです」
「いや割とがっつり聞いてるじゃん!」
姫奈と翔は同時に天を仰いだ。恋は盲目とは、よく言ったものだ。
しかし翔は、哲太が恋路の邪魔をしようとして割り込むような男ではないことを、よく知っている。彼はいつも真面目で正直で、翔をよく助けてくれる。
だから今回も、どうしても伝えたいことがあって翔のところに来たものの、状況が状況だけに話そうか迷ってしまい、結果として姫奈と翔の会話を聞く羽目になったのだろう。
「哲太氏の案、聞いてもいいですか?」
翔が言うと、哲太は目を輝かせながら、自信ありげな様子で言った。
「はい。小生が考えたのは、『働くお姉さんカフェ』です!」
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