第35話

 女子の入浴は長い。


 自分の入浴を済ませた翔は、1階の浴場前にある二人掛けのソファーに腰かけて、姫奈が出てくるのを待っている。入浴を済ませた姫奈が「温泉に入った後は、やっぱりコーヒー牛乳よね!」と言うのを見越して、甚平のポケットには小銭をいくらか用意しているのだが、一向に出てくる気配がない。握った小銭は翔の体温を吸って、すっかり温かくなってしまった。


 かれこれ、翔が浴場から出てきてから20分は経っている。

 退屈な翔は、民宿の内装をぼんやりと眺めてみる。木造の床は、人の歩いた跡がはげている。ソファーの正面には小規模のプレイルームがあり、アナログテレビみたいな、見るからに年季が入ったテレビゲームが数台と、部屋の真ん中には卓球台が一つ。


 やはり無機物は見ていて落ち着く。レトロなものは尚更。ここに座っていると、祖母の家に来たときのような安心感を覚えて気持ちが緩んでくる。

 今日の疲れからか、なんだか少し瞼が重くなってきた。


「そら!」


 しかし翔の眠気は、その大声によって、さっぱり吹き飛ばされた。

 知らない男の声が、翔の知っている人の名前を呼んでいる。


「そら……⁉」


 まさかと思い、翔はその声が聞こえた方向に視線を向ける。

 廊下の方からこちらに向かって伸びてくる、青い影。影の色からして、女子かと思った。

 だが、翔の前に現れたのは、坊主頭の大柄な男子だった。日焼けした顔の頬にはニキビの群れ。濃いまつ毛が乗った、まん丸な目。それと張り合うように唇が分厚い。太い腕を見せつけるように腕まくりをし、手にはモップを持っている。

 目が合ってしまった。翔は思わず声をかけた。


「今、『そら』って──」

「イマ、ソラ……?」


 彼は首を傾げる。その不思議そうな顔を見て、翔は冷静になった。


「──あ、すみません。今のは忘れてください」


 聞き間違いだったのかもしれない。そら、という単語に敏感になってしまっているだけだ。

 翔は会釈をして前を向いた。しかし彼が立ち去る様子はない。むしろ彼の方から話題を振ってきた。


「どこから来たんすか?」

「え、……と、東京、です」

「マジすか!」


 興奮気味な反応をよこしながら、彼は翔に歩み寄る。


「あの、隣、いいすか?」

「どうぞ」


 彼がソファーに座った途端、ソファーが数センチ沈んだ気がした。男二人の重量に耐えるには、このソファーの推定年齢では少々心許ない気がする。

 だが、彼はそんなことを全く気にしていない様子だ。


「旅行っすか?」


 人懐こい顔をした彼は、翔の顔を覗き込む。彼の広い肩幅が、長身だが貧弱な翔の体をソファーの端へと押しやる。


「そんなところです」

「若そうに見えるっすけど、いくつっすか?」

「16歳です」

「お! おんなじっすね!」


 ただ自己紹介をしているだけなのだが、彼はニコニコと人懐こく笑う。


「あ、俺、曽良島宗隆そらじまむねたかっす。岡山に住んでて、高校生なんすけど、夏休みの間だけここでバイトしてるんすよ」


「オレは七瀬翔です。さっき『そら』って呼ばれてたのは……」


「ああ、俺のことっすね。それにしても、東京いいっすよね。どんなところっすか? 俺、岡山から出たことなくて。一回でいいから東京ドーム行ってみたいんすよねー。いいなー」


 そら、という名前が人違いだったと落ち込む暇もない。

 曽良島の話を聞いていると、翔の後ろから「おい曽良!」と誰かが呼んだ。最初に翔が耳にしたのと同じ声だ。


「曽良、お前まだ掃除中だろうが。おばさんに怒られるぞ」

 その声の主は廊下からこちらを睨みつけていた。


「あ、尚政!」


 なおまさ、と呼ばれた男子は、一重まぶたの鋭い目つきをしている。

 無駄な肉の無いシャープな顔をしており、苛立ちからか、噛み締めたコメカミの筋肉が隆起しているのが見える。日焼けした坊主なのは、曽良島とおそろいだ。

 曽良島と違うのは、影が赤いということ。


「ごめんごめん。でも、もうそろそろバイトの時間も終わりっしょ?」


 手を合わせた曽良島を一瞥しつつ、彼は自身の腕時計を確認する。


「ダメだろ、まだ定時まで五分余ってる。最後の最後までキッチリやらないと」

「厳しいなー。尚政も一緒にこのお客さんの話聞こうよ。俺たちと同い年で、東京から来たんだって」


 彼はソファーに座ったままの翔に視線を移し、礼儀正しく頭を下げた。


「うちの曽良島がすいません」

「大丈夫です」

「俺は曽良島の世話係として、夏の間だけここで働かせてもらってる柳葉尚政やなぎばなおまさっていいます。遠いところから、わざわざありがとうございます」


 くだけた言葉遣いの曽良島とは対照的に、柳葉は高校生にしてはずいぶん改まった口調で、大人びた印象だ。

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