第30話

 姫奈は、まるで浴槽の栓を抜いたみたいに言葉を一気に吐き出した。


「そんなはずないって思うわよね、だから今まで誰にも話さずに生きてきたんだけど、翔くんになら話してもいいかなって思って。別に信じなくてもいいけど、幸せの色が見えるのよ、私。だいたい女の子は青、男の子は赤で、恋したりして幸せになるほど、色が濃く見えるようになるみたい。……でも、想像できないわよね、ごめん。やっぱ、そんな真剣に聞かなくてもいいや、今の話」


 翔は思わず姫奈と向かい合う形で立ちふさがり、華奢な彼女の両肩を掴んでいた。

 姫奈が困惑した顔で翔の顔を見上げる。


「え、翔くん——?」


「オレも」

 握る手に力がこもる。

「オレも、見えるんだ、影の色が!」


 姫奈は目を見開き、尋ねる。

「ほんと……?」


「うん。姫奈と同じ見え方をしてるんだと思う。でも幸せの色じゃなくて、オレは恋の色なんだと思ってた。ほとんどの女子の影が青く見えるのは、男子のことが好きだからで、好きになるとその色が濃くなるって」


 つまり翔と姫奈は、解釈こそ違えど同じような景色を見ている可能性が高い。


「どっちの見方が正しいのかしらね?」


 翔には、そんなことは分からない。第一、自分以外に影の色を見られる人がいるとは思ってもいなかったから、そんな解釈の違いが生じるのは想定外のことだ。


 姫奈は「ごめん」と言った。

「そんなこと聞かれたって、分からないわよね」


「いや、オレの方こそ、なんか興奮しちゃってごめん」


 ふいに冷静になる。

 すれ違う人々は、駅前通りの歩行者通路の真ん中で向き合っている二人を不審な目で見ながら、遠巻きに通り過ぎていく。その視線が急に気になり始め、翔は手を離した。

 だが、姫奈は歩き出そうとしない。今度は逆に姫奈の方から翔の手を握り、翔の目を真っすぐに見つめた。


「私の色を、教えて」

「それは……」


 姫奈には影が無い。翔が今まで出会った人のなかで、姫奈とそらちゃんだけが、特別に。理由は分からないけど。


 翔は、そのことを姫奈に伝えるべきか悩んだ。影の色が幸せを表すと思っている彼女にそれを伝えるのは、彼女が幸せでないと言っているみたいで申し訳ない。

 だが、目の前の姫奈に、誤魔化しは通用しそうにない。つぶらな瞳は翔の本当の答えを待っているし、握られた手も、まるで脈拍を測られているみたいだ。


「影は、無いよ。見えない」


 その答えは、ある程度予測されたものだったのだろうか。姫奈は落ち着いて「やっぱり、そうなのね」とつぶやいた。


「姫奈は、自分の影の色は見れないのか?」


「見えてたら、こんなふうに翔くんに尋ねたりはしないわよ。まあ、影が無いんだったら、見えてるか見えてないかなんて分からないだけどね」


 口端から息をもらすように、姫奈は笑った。


「だからオレも、分からないのか」


 翔のつぶやきに姫奈はすかさず反応した。


「翔くんも、影が無いよ。見えない」

 さっきの翔の口調を真似ていた。そして、ニカッと笑ってみせる。

「だから、うちらは同類! 仲間! いぇい!」


 元気いっぱい、翔の正面に現れた姫奈の両手。

 翔は戸惑いながらもハイタッチに応じる。


「い、いいぇい」 


 さっきからシリアスになったり、おちゃらけたり、姫奈の行動が読めない。

 影の有無を知って、彼女は何をしたいのか。姫奈の考えていることは、たまによく分からないことがある。


 でも、今日姫奈が使っている日焼け止めは、アクアスキンではない。ハイタッチや手を握った時、それが分かった。つまり姫奈は無理をしているわけではない。それはいいのだが、むしろ通常時でこの予測不能具合だから、厄介にも程がある。

 姫奈と一緒にいると、翔は平常時より多くのカロリーを消費するような感覚に陥る。


「少し、歩かない?」


 再び落ち着いた雰囲気に戻っていた姫奈は、静かに言った。


 このまま真っすぐ進めば駅だったが、姫奈は左に曲がって進路を変えた。

 翔もその後に続く。


 東京といえども、九女川市は割と田舎だ。駅前通りから一本外れるだけで、たちまち建物の数が減り、街灯の数も少なくなる。女子が一人で歩くには危険な道だ。

 離れないように、翔は姫奈の隣に並ぶ。薄暗闇で視界が悪いからか、何度か翔と姫奈の肩が触れ合った。


 その度、姫奈は「ごめん」と言った。まるで、何か言いたいことを言うリズムを掴もうとしているようだった。


「ゆっくり歩こう」


 隣同士でもバラバラだった足音が、翔の一言によって一つに重なる。

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