第7話

 そして何かを思い出したように慌てて時計を見た。


「あ、いけない! バイトの時間! すっかり忘れてたわ」


「バイトしてるのか」


「そう、女子高生は色々お金がかかるのよ」


 姫奈はベンチから跳ねるように立ち上がる。


「岡山の計画は、また明日にでも立てましょ!」


 振り回すようにカバンを背負ってから、なぜか翔に手を差し出した。そして犬に命令でもするみたいに「はい」と言う。


「……はい、って何?」


「私を駅まで送ってよ」


「なんで俺が」


 翔の家はすぐ近くだ。駅まで送るとなると、また往復しないといけない。とても面倒だ。

 姫奈は、どうして言う通りに動いてくれないの、とでも言いたげに頬を軽く膨らませ、細めた目で翔を見つめる。


「送ってくれなきゃ私、ずっとここにいるから」


「それならオレは家に帰るからな」


「それなら私は翔くんのお家に行っちゃうわよ」


 それはもっと面倒だ。不幸なことに、姫奈の行動力は本物だ。付きまといをするような人だから、きっと本当に家についてきてしまう。

 観念した翔はベンチから重い腰を上げ、東屋から出て日傘をさした。


「送る」


「わーい! 相合傘!」


 姫奈はステップを踏みながら翔の隣に来た。身長差のある凸凹な二人の体が、小さな傘の下に収まる。


「相合傘までするなんて言ってない」


「いいじゃん。減るものじゃないんだし」


「どんな理屈だよ」


 もし他の女子だったら、翔は傘を閉じて強制的に締め出していただろう。

 だが姫奈に対してはそう出来ない。翔の昔話を聞いても笑わなかったからだ。それどころか、素敵だと言ってくれた。だから、同じ傘の下で身を寄せ合うことが、不思議と苦に感じない。


 そのまま二人は駅まで歩いた。

 歩くにつれ、翔は自分の心を覆っている氷が解けていくような感覚に陥っていた。姫奈は強引で面倒くさい女子だ。だが、会話を重ねているうちに、それすらも彼女の良さなのではないかと思うようになってしまっていた。


「送ってくれてありがとう!」


 駅の前に着くと、姫奈は丁寧に頭を下げた。


「また明日ね!」


 手を振って帰るのかと思いきや、姫奈は翔の目を見つめたまま「あ」と口を開く。


「忘れてたけど、私のことはこれから『姫奈』って呼んでよ。『虹ヶ丘さん』って長いから言いにくいでしょ?」


「あ、ああ」


「じゃあ、はい。呼んでみて?」


 艶やかな髪を耳の後ろにかき上げ、姫奈は裸の左耳を翔に近付ける。


「……今? バイトの時間は大丈夫か?」


「もう! 焦らすなぁ」


「……っ、バイバイ、姫奈。また明日」


 姫奈は満足そうな顔で頷き、手を振りながら改札をくぐった。

 その後ろ姿を見つめながら、翔は日傘を肩に下ろした。気疲れのせいか緊張のせいか、心臓の動きが激しい気がする。


 翔だって年頃の男子だ。ましてや告白してくる女子を片っ端から振ってきたので、恋愛経験は無い。だから、女子を親しげに呼び捨てすることには慣れていない。

 姫奈、と呼んだ時、一気に自分の顔が赤くなるのを感じていた。


 翔は自分の足元に視線を落とした。誰も知らない、翔にしかできない恋の確かめ方。翔の影はいつも通り、何色でもなく、そこに影があるかどうかも分からない状態だった。

 赤くなってなくてよかった。もし色がついていようものなら、そらちゃんに顔向けできなくなるところだった。

 翔は独りでに、そっと胸を撫で下ろした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る