第17話 首とアツミ(小説/青春)

 人は誰しも条理の折の中に生きており、もし条理に外れるものが現れたとしたら、それは完全に存在しないものとして扱う。

 それが故に、条理を超える宇宙的な存在がいることについて誰しも気付くはずもなく、安穏と生きている。いや、生かされているといっていい。我々がこうして生きているのは必然の結果などではなく――衣食住が揃い、安全が確保されているにしろいないにしろ――偶然の結果であることは、以上の理由で誰も知ることがない。そう、だれも。


 アツミは高校1年生の女子。スポーツを好み、勉強はそこそこ。美貌には必ずしも恵まれているとは断言できないが、大きな眼はふしぎと求心力があり、人を引きつけた。怒鳴りつけるような大声では話さず、ややか細さを感じさせるものではあったが、歯に着せぬ物言いをすることがあり、それは欠点とは機能せず、人間関係における潤滑油として機能し、多くの友人のをもたらす結果になった。


 ある朝のことだった、アツミは登校時、正門からではなく裏口から校内に入った。理由らしい理由などはなかった。なんとなく、そんな感じだ。裏口はちょうど学校裏手の雑木林を抜け、テニスコート前のフェンスに取り付けられた扉だ。アツミとしては家からの距離はこちらのほうが近く、通学コースの通り道でもあったから、できることならこちら側から登校したいと通り掛かる度にそう考えていた。「だってこっちが近いんだもん」アツミはそう考えていた。


 その日は、フェンスの扉が開いていた。何故開いていたのかは分からない。大方、テニス部の厚山顧問が昨夜掛け忘れていったのだろう。天気予報によると、今朝は大雨が降ったらしいから朝練している人たちが掛け忘れたとも思えない。っていうか、鍵を持っているはずの厚山先生は不真面目教師だから、朝練に顔を出すなんて殊勝なことは一切しないだろうから、そもそも昨日以外に開ける時間など無いのだ。

 とにかく、アツミはフェンスの扉を抜け、テニスコートに降り立った。アツミは初めてコートに立ち入った。テニス部員でもなければ、体育の選択授業ではバスケットボールを選んだ彼女だから、今までに来ることはなかった。コートは今朝の雨のせいで所々水溜りができており、全体がぬかるんでいた。歩くと靴の表面が濡れた土にねっとりと吸い寄せられた。靴の側面からはみ出すように泥が黒い革靴の表面にねっとりと張り付いた。


 失敗した。

 アツミは思った。雨の振った日にこんなどろどろのテニスコートに立ち入るんじゃなかった。靴は汚れるし、コートにはあしあとをしっかりと残してしまうではないか。こんなこと、考えればすぐ分かることなのに、私は何をやっているんだろう。赤面しながら、アツミが引き返そうとしたその時だった。

「待ちなさい」

 背後から聞こえた声に、アツミは背筋が凍る思いをした。マズい。見られてた。初めて聞く声だ。アツミの学年の先生の声ではない。2、3年生の先生だろうか。そう思うと同時に、アツミの心のなかに何か強い違和感が生まれた。その違和感の正体がなんなのか具体的に説明することは出来ない。だが、確実に、アツミの中に思い過ごしとは思えないくらいしっかりした形で存在していた。


「待ちなさい」

 再び聞こえた。ぼんやりと漂っていたものがぎゅっと凝縮されたようだった。心の奥底でもう一人のアツミが「ダメ、振り向いちゃダメ」と呟いた気がした。どうして? 引き止められたら振り向くのが当然というものではない? 「ダメ、とにかくダメなの」どうして? 理由は? 「――とにかく」とにかくに合理的な理由なんて無いわ。

 寒い風が頬をすり抜けていった。アツミは心の声を無視すると、踵を返して、背後の声に向き直った。


「……スミマセン、今に出ます」

 そう、口にするつもりだった。

 だが、空振りに終わった。なぜなら、すぐ後にはアツミを呼び止めた人間の姿がなかったからだ。 えっ? どういうこと? 確かに今聞こえたはずよ?

 背後には背の高いスギが並ぶ汚らしい林が虚しくあるだけ。振り向けば虚空があるだけだった。


「待ちなさい」

 再び声が聞こえた。直ぐ目の前から。まるで目の前にいる透明人間の喉から発せられた声のようだ。確かな実体から生まれた声のハズなのに、存在していない。何かを見落としているのだろうか? 「ダメよ、探しちゃダメよ」また心の声が聞こえた。「今ならまだ間に合う。テニスコートの方に突っ切って逃げて!」ささくれ立ったような悲痛な叫びを感じた。だけど、その声は私のオゾン層に阻まれ、深部まで到達しない。私の目は、底にあるはずの何かを探しつづけた。


 そして、そいつと目があった。

 眼の前には首があった。人間の頭部が。

 ちょうどアツミの目の高さにあり、それ以外は存在しなかった。浮かんでいるという感じではない。首から下は透明――そう断言するとしっくりくるようだった。

 その頭部はおそらく女性のものと思われたが、髪以外にその特徴を説明するのは至難の業だった。髪の長さは30センチほどで黒かった。だが、目鼻立ち、輪郭に至るまで、描写をしようとしてもとらえどころがなかった。標準、そのような単語を持ちださざるを得なかった。宝石を塗り箸でつかむかのように、捉えたと思えば抜け落ちてしまうように、生首の目は大き過ぎもせず、小さ過ぎもしない、鼻も高すぎず低すぎない、唇だって、厚くもないし薄くもない。

 首の目は果てしなく遠くを見るようでありながら、確実にアツミを捉えていた。


「待ちなさい」

 また、あの声。唇がなめらかに動く。携帯電話の音声のように抑揚がなくて、性格な発音。「待ちなさい」生首はその言葉を繰り返した。

 アツミの驚愕がやがて恐怖へと変わった。

 ――そうだ、私はこの存在にすでに気がついていたんじゃないか。せっかく知らないフリをしていたのに、それに気づいたような振りをして、コレを探してしまったんだろう。

 もはや否定のしようもない。首の目はまっすぐにアツミを捉えていた。


 テニスコートを、突っ切って、逃れなきゃ。

 コイツから、逃れ、なきゃ。

 恐怖にすくみきった心で前向きな方策を立ててはみるものの、ムダだと分かっていた。コレに会ってしまった以上は逃れようがないのだった。はるか原始の時代に私たちの先祖が立てた決まりが瞬時に蘇ってきた。

 きっと私は自殺する気だったのではないだろうか?

 アツミはそう思った。

 でなければ、コレを見よう、触れよう、なんて気は一切起こらなかったはずである。

 今、こうして対峙していることが揺るぎようのない証左である。

 ああ、始まるんだ。


「アツミ」

 首が私の名前を呼んだ。

「はい」

「アツミ、こちら側へ来なさい」

「はい、参ります」

 私は自分の声が、首そっくりの機械音であることに気が付いた。そこで全てが終わったのだ。

「さあ、混沌のこちら側へ」

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