第21話 蜘蛛女(小説/ホラー)

 蜘蛛女の伝説を知っているだろうか?

 この街にむかしむかしから伝わる伝説を。

 どのくらい昔かって言うと、江戸時代いや、室町時代……鎌倉時代くらいかな。とにかくそれぐらい昔なんだ。

 伝説とはこんな話さ。


 ――その昔、百姓がいた。

 親思いの心の優しい男で名前を吉次郎と言った。ある日の夜半、吉次郎はわらぶきの小屋に薪を取りに行った。


 小屋は母屋からやや離れた場所にあった。季節は冬。外は歩行が困難になるくらいの風雪が吹き荒れていた。蓑や傘を被った吉次郎は風に耐えながら、雪に足を取られながら道を進んだ。夕暮れに歩いた道はもはや無くなり、すっかり新雪に覆われている。いつにもましてヒドい天気だった。


 やっとの思いで小屋についた。木塀の扉に手をかけた時、吉次郎の心の中には言い知れない不安のようなものがよぎった。それは動物的な勘というべきか、警鐘を鳴らすものだった。この扉を開けてはいけない――まるでそんな声がどこかから聞こえてくるようだった。

 とはいうものの、底冷えする夜に薪も持たずに手ぶらで戻るなんてことはありえない。吹きつける雪風も強まってきており、じっと突っ立ているのも限度を超えて苦痛を感じさせている。扉の向こうにある未知の物に言い知れぬ不安を覚えながら、吉次郎はいよいよ戸を引いた。


 夜だから当たり前の話だが――それに時代が時代だしな――小屋の中は暗闇そのものだった。そして静かだった。外の豪風から隔離された穏やかな空間がそこにはあり、杉材の薪から漂ってくる香ばしい匂いが吉次郎を安堵させた。

 おれは何に怯えていたのだろう。

 先程まで頭をよぎった考えがまるで夢であったかのように消えさっている。気恥ずかしさを覚えながら、吉次郎は後ろ手に戸を閉めた。女の泣き声を思わせる風の音がグッと低くなり、小屋の中には本当の闇が広がった。吉次郎は闇の中をまさぐった。燭台のありかなら、見て取るまでもなく分かっている。慣れた場所だ。

 吉次郎の指先に触れたのは、木片を重ねて作った燭台の感触ではなく、繊毛を帯びたなめらかな甲羅の感触だった。それは表面に油が塗りたくられているかのようにぬるりとしていた。硬い毛は吉次郎の皮膚表面に食い込むように突き刺さってくる。

 喉の奥から悲鳴を上げ、吉次郎は逃れようと前のめりに崩れ落ちた。狭い小屋の中、目と鼻の先にあった薪を積み上げた束の中に転げ落ち、頭の上には薪がいくつも転がってきた。


 次から次へと振りかかる鈍痛。

 視界が暗転していく。

 吉次郎はいつか意識を失っていた。

 どれくらい眠っていたのか分からない。

 気がつくと、吉次郎は布団の中に横たわっていた。ぼんやりと霞む視界が、正しさを取り戻すにつれ、そこが母屋の中であることが分かり、そして、屋内に炎が灯り、木片がパチッと鳴らす音が響いいているのに気が付いた。


「起きたか、吉次郎」

「……おふくろ」

 傍らには年老いた母親の姿があった。心配そうに吉次郎の顔を覗き込み、しわしわの両手で吉次郎の右手を包み込み、拝むようにこすり合わせた。

 吉次郎は現状認識に努めた。

 おれは薪を取りに行こうと小屋に行った。そこで得体の知れないものに触ってしまい、取り乱して転んだ。運悪く薪の塔にぶつかり、そして気を失った。


 だが、いつの間にかこの部屋にいて、部屋のカマドにはパチパチと幸福な音を立てて燃えている薪がある。

 一体誰が?

 母親に視線を合わせる。

 全身しわがれ、棒のように細くなってしまった母親が、この吹雪の中、小屋まで歩いて倒れた大の男を担いでこれようものか?


 吉次郎の疑問に応えるかのように、

「ご無事でしたか?」

 母親とは正反対の方向から、声がかかった。女の声だ。妙齢と思しき声。

 慌てて振り向くと、髪のながい女が吉次郎の顔を覗きこんでいた。


 ――美人だ。

 肌は雪のように白く、小さな唇は紅を引いたように赤い。両眼は憂いを帯びたような細目で、何ともいえない色気があった。

 吉次郎の無遠慮な凝視を受け止めるかのように、女はフッと表情を緩めた。まるで菩薩のようだ。吉次郎はこの女に惚れたことを自覚した。

「身体に障りが内容でご安心しました。倒れてしまわれた時はどうしようかと思いましたの」

 女の声はすずがなるように繊細で、童女のような趣もあった。


「この方が、お前を助けてくれたんだよ」

 人の良い笑みを浮かべて、母親が言った。

「この人が……?」

 吉次郎は改めて女を見た。

 髪が長く、どこか妖艶さを帯びた美人。来ている着物は簡素であったが、十二単でも着せたならば、宮中にある高貴な身分の者に見えたことだろう。

「私、旅の者でございまして、名を月と申します」女はそう言った。「吹雪の中、さまよい歩いておりましたら、小屋を見つけましたので、無遠慮かと思いましたが、雪よけに使わせてもらいましたの。そしたら、あなたが入ってこられたではアリませんか。咎められると思い、息を殺しておりましたら、あなたが急に悲鳴を上げて、倒れてしまって……」

 月は倒れた吉次郎を何とか助けだした。暗くて怪我をしているのか分からない。吉次郎が戻ってきた方向を検めれば、そこに明かりの灯った家があることに気が付き、何とか吉次郎を担いで運び出した。看病した後、薪がなくなっていることを知り、また往復して取ってきたということだった。


「そうであったのか……かたじけない」

 礼を言おうと身体を起こそうとした所、背中に激痛が走った。

「痛い!」

「安静になさって!」

 月は悲鳴にも似た声を発して、起きようとする吉次郎を押しとどめた。

「まだ身体は平穏では無いのです」

「……うむ、うむ」

 まるで刀で切りつけられたかの様な痛みだった。いくつもの薪が背中を叩きつけたが、このような痛みを生み出すというのが意外だった。痛みの感覚はビリビリと全身を駆け巡り、突風のように吹き止んでいく。じんわりと汗が滲んでいた。


「さあ、安静に」

「……うむ」

 と、吉次郎は月の身体がぐっと接近していることに気が付いた。

 その帷子の隙間から、壮絶なまでの白い肌が見え隠れする。

 幼少に父を亡くした吉次郎は、仕事に専念するばかりで、女というものと接点を持つことはついぞなかった。だから、間近に感じるその柔らかな感触に、今までに無いくらいの衝撃を覚えた。

 月はそれを知ってか知らずか、吉次郎をまた寝床に寝かしつける。


「今夜はどうぞお眠りくださいな」と微笑みかけ、吉次郎の母親にも「貴方様もご病気なのでしょう。どうぞお休みになってください」

「そうかい、悪いね、お月ちゃん」

 稚児に甘えかけるような声を出しながら、母親は素直に床に向かった。

 こんな声をする母親なんて久々に聞いたものだ。最近は病気の苦痛を訴えるような、気の滅入るような怨念しか聞かれることがなかったからだ。お月ちゃんだと?

 月は甲斐甲斐しくも、母親に付き添って、体を支えるようにしてやった。

 今だ背中の痛みは残るものの、胸の中から安息の煙が湧き出してきて、吉次郎の意識を飲み込み、やがて眠りへと誘った。


 寝入る直前、吉次郎は見た。そこに人間大の蜘蛛がいたことを。だが、それは吉次郎が人生の最後で見たものでもあった。蜘蛛の毒で彼の体は蝕まれていたのだ。

 

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