第20話 僕のギター(断片/ロック)

 そいつは年老いた寡黙な男性のような佇まいで本棚の側面に寄りかかっていた。


 今日一日のハードワークから身体はすっかりと重くなってしまい、一時の休息を欲しがっているのだろう。

 枯れたような茶色のネックに、ペイントの薄くなってきた青のボディは、いかにも一服のためにシガレットを熱望している壮年の男性のようにも見えた。


 僕は彼を手にとると、ベッドサイドに脚を組んで座り、身体に寄せ付けすべての弦を鳴らした。

 ジャラン。

 不協和音。

 六弦のE音と四弦のD音がいくらかズレている。一弦から三弦までは相変わらずの安定ぶりをみせ、頑としてズレていない。

 ペグ(糸巻き)を操作して、チューニングを始める。他の弦の音と照らし合わせて、微妙な差異を調整する。弾いては調整し、弾いては調整しを繰り返していたら、すべての音が正しい位置へと収まった。


 もう一度ジャラン。

 六つの音の響きが複雑に絡み合い、手数以上のフィーリングを奏でる。

 僕は佇まいを正すと、弦の列に指を滑らせた。

 音色は彼の身体にぽっかり空いたホールへと落っこちて複雑な音に変わってみせる。いい感じだ。


 さて何を弾こう。

 チューニングをしてみたはいいが、特に弾きたい曲があって手に取ったわけではない。チューニングそのものが目的のようでもあったし、どうしてそれをしたかといえば、明確な答えが浮かんでこない。爪切りや歯磨きをするように、習慣的に行なっただけの話で、それをしなければいけないような衝動にかられたから、としか言えない。


 とりあえずCのコードを奏でる。

 ギターの中でももっとも初歩的なこのコードは極めて美しい性質を持っている。

 自動車教習所の訓練で、まず初動時の動作確認を叩き込まれるように、ギター弾きはCのポジショニングを初めに叩き込まれる。

 ポジションをすこし変えてSUS4やadd9thのコードにしてみたり遊んでみても、いささか飽きてきた。


 せっかくチューニングをし終えたというのに、ただCコードで遊んだだけでは甲斐がないというもので、僕は無理にでも何か曲を弾こうと試みる。

 たくさん楽曲を覚えたハズなのに、いざ弾こうとすると全く浮かんでこないのだからおかしな話だ。何とか淀みの池沼へと釣り針を投げ込んで、記憶の音楽を探る。


 そのうちに両手は勝手に音楽を奏ではじめた。

 コードEm7。

 基本形は一箇所のみ押さえてあとは開放弦という極めて楽なポジショニングをもつこのコードであるが、僕の左手が組んだのは一弦と二弦のフレット3を押さえるやり方である。こうすると開放弦にしておくよりもやや高い音になり、違った味わいを得ることが出来る。


 このコードから導かれるのはオアシスの96年のヒット曲、ワンダーウォール。

 一時期メランコリーと形容された彼らの曲は、バンドの力強い演奏にも関わらず、どこか悲しげというか晴れやかではない。それらは英国の曇り空を思わせる鬱蒼としたものである。英国は夏でも気温が低く、冬は極端に寒くなる厳しい気候条件の国である。オアシスの楽曲にはまるで英国の空模様がにじみ出ているかのようである。マイナーコードから導かれるのは抜け出し用のない悲しみをたたえた音世界だ。


 コード進行を間違えないようにキープしながら、僕は英国の町をあるく。それはロンドンかもしれないし、リヴァプールかもしれないし、グラスコーかも知れない。オアシスの出身地であるマンチェスターである可能性が高い。

 いずれにせよ、僕は英国に脚を踏み入れたことはないので、それぞれの違いなど知識の上でしか理解していないこともあり、僕の中ではすべての都市が渾然一体となっていた。


 ロンドンブリッジがあり、ストーンヘンジがあり、ビートルズで有名な横断歩道があり、黒い帽子の兵隊がいる不思議の町で、僕は白い息を吐きながら、灰色の虚しい空をながめながらフィッシュ&チップスを口に運ぶ。

 潮の匂いが風に乗って鼻先をかすめて行った。物言わぬ人たちと挨拶もせずにすれ違う。まるでモーニング・グローリーのジャケット写真の様に。異国まで来てしまった。僕の言葉は通じない。寂しくなり逃げたくなった。それでもレンガ敷きの地面を踏みしめながら当て所なく不思議の町をあるいた。


 わずか五分にも満たない旅行のあとで、僕はギターを元の位置に戻した。壁に立てかけられた老人は母親に寝かしつけられた幼児のような表情で深い眠りについた。


 そのあとで僕は久しぶりにタバコを吸った。友達が忘れて行ったセブンスターのボックスから一本取り出し、優しく火を灯した。苦味を含んだ紫煙がちりちりと喉に痛い。

 僕は壁の老人をみる。このタバコの味を彼と分け合うように。

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