第19話 世界を売った男(小説/狂気)

 ビルの薄暗い階段を私はあの男と二人で歩いていた。

 建設されてからから数十年の年月を思わせる建物は、鉄筋コンクリート造りであった。


 まるで面白みに欠ける建物であった。

 鉄筋は丸見えで、コンクリートのカベもすっぱり正確に切り出された面白みのない平面で、コブやまた局面を描く遊びは一切みあたらない。

 住居として有意味な物を作ろうという意志は全く感じられず、ただ図面を再現しただけのような何かを感じ、私はわずかに倦怠感を覚えていた。


 この建物は既に古びている。

 ところどころに消えない黒いシミがこびり付いていて、割れ目を思わせるようなうっすらとした亀裂があちこちに目立っている。

 階段は一段一段が高く歩きづらかった。

 天井は異様に高く、隣の部屋の大男が歩いても頭をぶつける心配はないだろう。


 それにしても暗かった。

 この階段には灯りと呼べるものは一切なく、階ごとの踊り場に長方形に切り抜かれた磨りガラスの窓からの光だけがわずかに照らしていた。

 ただ、窓から見える空は濃厚な灰色で土砂降りの予感を秘めており、陽光をこの場所まで運ぶような寛容さは見受けられなかった。


 窓のガラスにヤモリが張り付いている。

 遥か下に街の通りを移す風景を背後に、ヤモリは私に腹と五本の指からなる吸盤の裏を見せてただただうずくまっている。

 生きて呼吸をしているような感じは見えず、死んでいるようであったが、それはあくまでそう見えるだけであって、それは確かに生きていた。


 私はそのヤモリを見ながら、何かに似ていると思い至っった。

 その外見ではなく、そうしている様子が何かに。

 赤褐色の背中に、白くやわらかな触感を感じさせる腹部。

 右側にねじれ円を描く様にして、ヤモリはガラス窓に張り付いてた。


「どうしたかね」

 男の喉から重厚な低音が響く。

 あたかも厚い壁を抜け外までじんわりと染み渡るような低音。


 男は窓の元で立ち止まる私を振り返っている。

 彫りの深い顔立ちに高い身長を誇るその男は、踊り場から、十段ほど上の位置から私を見下ろしていた。

 瞳の奥はがらんどうの様で、感情などまるでない。その双眸は確かに私を捉えており、そしてそれは私に威圧を感じさせるものだった。


 私は首を振ると、再び歩き出した。

 横に並ぶ私を見て、彼は何事もなかったかのようにまた歩き始めた。

「友よ」

 男は言った。

「君には一つの判断が委ねられている」

「判断……?」

「先程も言ったように、この世界が滅びるか否かの決断だよ」


 男の口調は相変わらず平坦な口調であった。

「世界とはどの範囲を差しているのか」

「ふむ、少し考えさせてくれ」

 わずかに黙り込んだ。


「そうだな、全人類とその生存のための環境、と理解してくれ」

 私は眉をひそめて男に振り返った。

 彼は相変わらずの真顔で私を見つめ返している。

 口元にふざけた笑みを湛えていることも、馬鹿にしたような目つきもしてない。


「君は狂っているのか」

 思わず率直な意見をぶつけた。

「私は狂ってはいない。正気を失ったことはない」

 男は断言した。

「例えそうだとしよう。だが、何故あなたは私にその選択を迫ろうとするのだ」


「君は選ばれたのだ」

「意味が分からない」

「わからなくていい、君が選ばれた理由に意味などないのだから。ランダムなんだ。くじ引きのようなものだと思って欲しい」


 話になりそうにない。

 私は立ち止まり、横にいる男に身体を向けた。

「世界を滅ぼすと言ったな。じゃあ、どうやって滅ぼすつもりだ。そのレスラー並みの体格と顔の器量さでは世界は滅びないことは承知なんだろうな」

 意味不明な説明に苛立を覚えた私は、挑発するつもりで言ったことは認めざるをえない。


 男は無言で、私の耳元に口を寄せる。

 言葉がその口から吐き出された。

 氷のように冷たいと息と共に耳にかかる。

「……」

 私は絶句して男に目を向けるしか無かった。

「馬鹿なことを……そんなわけがない」

 男は自らの名を名乗った。

 その名が私を驚愕に陥らせた。

「その人物はとっくに死んでいるし、もし生きてるとしたら200歳を超えている……」


 私は改めて男を見た。

 理想的な長身に、彫りの深い顔立ち。ダークグレーの瞳、黒髪を整髪料でなでつけ、オールバックにしている。顎の先は鋭く頬はこけていたが美貌を感じさせる相貌をしていた。

 すっぽり足元まで隠れるコートを着ていて、その裾からは藍色のズボンの裾が見え、足には臙脂色の革靴を履いていた。

 私は男の姿を見ながら、彼の言ったことの正しさに確信を持ち始めていた。


 その物腰、話し方、そしてルックスは、男がその人物であると思わせるのに十分なまでの説得力を持っていた。

 インターネットの動画サイトでその男の映像を見たことがある。

 その映像の記憶と、視界の中にあるものは一致していた。

 危うく階段から足を外しそうになる。

 気が遠くなるようなめまいを感じた。


 私は男と握手を交わし、その場を離れた。

 世界を滅ぼす決断を迫られてもそれに対する解答など初め、から決まっている。

 私は早足で階段を降りた。

 窓から見える空は雲の影こそ薄くなっているものの、太陽は今だに姿を見せず、階段は薄暗いままだった。


 外に写る風景は日常そのものだ。

 石畳の道をコート姿の人達が忙しげに行き交っている。

 片側一車線の道路は車が絶えず行き交っている。

 外套にはわずかに灯りが付き始めている。

 この窓の四角に切り取られた小さな日常が、まるで幻想のようだ。

 いつもはこの四角の中で息苦しい毎日を送っているというのに、今はそこが恋しい。

 あの男がなおも生きている。

 その事実だけで、背筋が凍るほど恐ろしかった。

 早く階段を下り、外に出なければならない。

 もしかして、私は狂っているのだろうか。


「君は狂っているのか」

 私はそうあの男に言った。

 だが、私は自らにそう問う事になった。

 それを聞いてあの男は狂ってなどいないと断言した。

「だが、君が狂っていないことを証明する手段は一つもない」と付け加えた。

 急がなくては。

 急いで外に出なくては。

 狂っていようがいまいが、ココからは出なくてはならない。



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