第13話 初恋クレイジー(小説/恋愛)

 あの夏ぼくは熱にうかされていた。

 氷嚢ひょうのうをひたいにのせれば一瞬で蒸気に変えてしまいそうなほどに。

 鍋を置けばちょっとした鍋パーティが開けそうなほどに。

 こんなふうに断言してしまいたいぐらい、僕の心は燃えていたのだ。


 同じクラスの佐川みさとさん。小学5年生になった時、とつぜん彼女のことが気になりはじめた。

 佐川みさとさんは東京からやってきた転校生だった。

 当時僕が住んでいた盛岡のほかの子どもたちとは違って、どこか洗練されたイメージを持っており、クラスメイトから一目置かれていた。

 身長は高い方で、男子平均をやや上回り、この僕よりも人差し指の長さほど高かった。

 背の高さというのはあの頃の小学生にとってはけっこう重要で、低すぎても高すぎても馬鹿にされるという性質を持っていた。佐川みさとさんはそのせいでノッポ呼ばわりされ、男子からからかわれていた。

 僕もそんな男子の一部に混じって彼女をからかったことがある。


 ある日の放課後だった、バレーボール部だった彼女が部活仲間でクラスメイトの章子と一緒に体育館の更衣室の方から玄関まで歩いてきた。帰宅部だった僕は悪ガキ仲間数人となにかやんちゃをしていた後で、真面目に部活をしているオリコウサンたちを見かけると、からかってやりたい気持ちに強く駆り立て足られた。


「おい、ノッポ!」僕は声をかけた。

「ノッポサーン、何でそんなに背が高いのー?」悪友のひとりも悪口をいった。

 みさとさんと一緒に歩いていた章子は顔を真っ赤にして、「先生にいってやるから!」と叫んだ。こうなるとしめたものだ。僕らはこうして女の子が悔しがる顔を見るのが大好きだったのだから。


 さて、みさとさんはどんな顔をしているかな? その顔を覗き込んだ。

 そして、僕は拍子抜けした。

 彼女は済ました顔で、何事も無かったかのように、下駄箱から外履きを取り出していた。章子がぐずってるのをみて、「どうしたの? 早く帰りましょ」と声をかけた。


 それはちょっとした衝撃だった。

 中学時代に覚えた言葉を用いれば、晴天の霹靂というやつだ。

 同学年の女の子なんてからかえば、すぐにぴーぴー泣くというのに、みさとさんはまったく動じていない。

 それはおろか、僕たちのことが最初から見えていないかのようにガン無視しているのだ。

 お馬鹿な男子にも意地というものがある。

 悔しかった僕たちは、恥を上塗りするかのように、僕達男子は罵倒を再開させた。「ブス!」「馬鹿!」「生理女!」「エロ女!」とよく知らない言葉を並べながら、何とか泣かせようとしてやった。


 焼け石に水だった。

 章子は必死になった僕たちの態度にすっかり怯えたようで、半べそで「先生にいいつけにいこうよぉ」と友達に泣きついていたが、対照的にみさとさんは相変わらず余裕の表情だった。


「まだ幼いのね、あなたたち」

 みさとさんはポツリつぶやいて笑った。


 それは嘲笑だった。

 圧倒的に格下のモノに浴びせかける、女王だけができる笑いだった。

 自分のしっぽを追いかけまわす犬でも見たかのような、自分の影に怯える子どもをからかうかのような、そんな笑い。


 そんな彼女に僕は胸を射抜かれた。

 一発の銃弾。

 黒いカラーリングのシルバーな矢尻を持った太い矢が、僕の心臓に深々と突き刺さった。

 僕の身体は撃たれた衝撃で時速五十メートルほどのスピード投げ出され、校舎の壁を突き破った挙句、花壇のひまわり畑をなぎ倒し、土俵の赤柱をポッキリと折り、そのままプールの中に飛び落ちた。


 ――こうして、僕は恋に落ちた。


 あの笑い顔。

 相手の侮辱になるはずのあの嘲笑の顔がすっかりと心に焼きついてしまった。

 クラスメイトと一緒に下校するみさとさんを遠くから見つめていた。


 あのスラリと長い手足、大人びたどこかエキゾチックな表情。

 瞳の色は濃く、肩まである長い髪もさらさらだった。

 何故か欠点のように思えていたみさとさんの外見的特徴が、一転してすべて魅力であるかのように思われてきた。

 大人になった今でも、彼女は当時ジュニアモデルとしても活躍できていたに違いないと確信をもって言える。


 みさとさんの着ている物、話の内容、彼女を取り巻く全てが素晴らしいもののように思われた。

 胸に生まれた熱をエネルギーに僕は精力的に行動した。

 みさとさんに気に入られるように、馬鹿な悪口をいうことはやめたし、ちゃんと授業をうけるようになった。彼女がよくしているように本も読むようになった。そして間もなく努力かなって彼女と友達のように接することができた。


 仲間だった男子からは反感ものだったけど、両親をはじめ教師からも最近の行動をほめられるようになったし、初恋を機に僕も成長を迎えたのだった。

 あの頃の僕の最終目標はみさとさんを自分のガールフレンドにすることだったけれど、この目標はとうとう達成されることがなかった。

 六年生になったばかりの頃、彼女は突然の引越しをしてしまったのである。親の都合で急に関西の方へ転勤になったのだ。

 何とかして自分の気持ちを伝えなきゃと使命感にかられたものの、それは実現しなかった。

 町を去るみさとさんの車を走って追いかけるような、青春ドラマのような出来事は僕には無かったのである。

 かくして僕を覆っていた熱は急激に冷え、打っていた鉄は中途半端のままに固まってしまったのである。

 僕に残されたのは彼女に貸してもらったままになっていた一冊の文庫本だけであった。


 ハインラインの「夏への扉」。小学生にしてはずいぶん難しいであったので、この本は今にいたるまで最後まで読まれることはなかった。高校の時に思い出したように手にとっては見たけれど、中途半端なところでそのままになっている。けれど、これはいつか必ず最後まで読まなければ、と思っている。


 みさとさんに再会したのは、僕たちが二十歳の大学生の時、成年式でだった。

 大勢がひしめくパーティ会場で、シャンパングラス片手に当時の悪友たちと話し込んだ後、あたりをうろついていた。

 その時に、後ろから彼女が声をかけてくれたのである。

 人目で彼女で分かった。

 みさとさんは当時とその時とで、全くその印象を変えていなかった。


 彼女は相変わらず同年代よりも大人っぽくて、落ち着いていて、そしてどこか格上を思わせる品性を持ち続けていたのだ。

 あの頃の暑すぎる心へと再燃するようだった。

 僕はすっかり舞い上がって、ロングドレス姿の彼女と会話した。

 その場にはあの泣き虫だったクラスメイトの章子もいて、みさとさんのことをあれこれと話し始めた。みさとさんのことを少しでも知りたくて仕方のない僕は、得意がる章子にややイラついたものの、そのままにさせておいた。

 章子は語った。

 みさとさんが現在東京に家族と暮らしていること、東大へ進学したこと、それからその年の春に婚約を済ませたこと。


「それ、本当なの?」僕は訊ねた

「ええ。そうよ」

 みさとさんははにかむと、薬指に輝くプラチナリングをそっと見せてくれた。

 僕はその時もう一度彼女に撃たれたのかもしれない。失意の弾丸を。

 そして、心のビッグバンは冷えて固まってしまった。完全に。


 結局あこがれはあこがれのままだったのである。

 だけど、今となってはみさとさんに対して感謝の念が止まらない。

 僕を成長させてくれた。

 あの時も、この時も。

 彼女は今どうしているのだろう?


 僕は割と幸せに暮らしている。

 結婚もして、家庭も持った。子どもも一人いる。

 相手はなんとあの章子である。

 切っ掛けはあの成人式のあと二人で飲んだことにあるのだけれど、その話はどうでもいいか。


「ねえ、お父さん。あれはなあに?」息子が窓の外を見つめながら言った。「UFO?」

 僕はその時自分の部屋にいて、リモートワーク中であったため、相手をしている暇がなかった。

「悪いけど、ママに聞きなさい」

「ママはお出かけしているよ」

 そうだった。章子は友人・みさとさんと久しぶりにリゾートホテルでランチをしているのだった。


「いったどうしたんだ?」

 リモートワーク用のアプリの音声をオフにして、僕は息子に向き合った。部屋を出ようとした時、足がなにかにぶつかった。何か小さなものが絨毯の上を転がっていった。

 視線を向けるとそこにあったのは、黄色いレモンだった。

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