第12話 観念的なレモン(断片/シュール)

 そのレモンは完全なレモンだった。

 どう完全かと言うと、非常に観念的であったのである。

 レモンの絵を描いてくれ、といわれると大抵の人間は両端の少しとんがった球体――つまりラグビーボールのような形で描くであろう。

 そのレモンはまさに、絵に描かれるようなレモンだったのである。

 さらに、レモンの色はどうであろうか。

 これまた、レモン色なのである。黄色よりも少しばかり重く、どこか厚ぼったい印象をもつそんな色。

 形状はどうか? 先程ラグビーボールのような形と形容したが、果物というのはよくみれば表面はゴツゴツしていて、見れば見るほどいびつに感じられるものである。

 表面を実際に手にとってさすってみればよくわかる。

 肌は窪みがびっしりとついていて、至る所に傷がある。虫にやられたものかもしれないし、出荷の時に傷が付いたものかもしれない。

 両端の盛り上がり部分も、まるで隆起した瘤がいくつも積み重なっているようなグロテスクなものであるし、ヘタのところも同様である。

 だが、そうあることがまさに果物が果物であることの証拠である。これらはみな生きているのだ。植物なのだ。観念的な形で作られる事などありえない。

 果物の表面を撫で回して、いささかの気色の悪さを感じたとしても、すぐに思い直して、これはこういうものなのだからしょうがないと諦める。

 これが果物に向き合う正しい態度である。

 だが、やはりこのレモンは完全なレモンなのである。

 表面の無数の窪みは碁盤の目を思わせるように均等に並んでいるし、でこぼこはなくつるりとしている。

 先端のでっぱりも歪みの無いキレイな山を描いている。まるで歪が歪を重ねた結果、正確無比な山を作り上げたかのようである。

 ここまで完全な形のレモンを私は見たことが無かった。

 カクテルを作るために買ったアメリカ産の三個パック――お値段二百九十八円也――に入っていたものの一つで特別の値打ちものというわけではない。無数のうちの一つである。

 しかし、私にはこれがまるで宝石のように思えてならなかった。

 理想型を描くレモン。こ」をお目にかかることはそうそうないだろう。

 包丁を入れて八つに切り崩してしまうことがもったいなく思えて、しばらく飾っておくことにした。

 チェストの上に置いたオーディオアンプの前。何故そこに置いたかと言うと、単純に目立つからである。

 はじめのうちは綺麗な形状をしたレモンを手にとったり眺めたりしていたが、いつの間にか気にすることを忘れていた。

 飾ってから一週間ほどたった日、仕事から帰ってふとレモンを見ると、表面に白カビがふいていることに気がついた。

 やや先端に近い位置のところに、白カビが円形を作って、まるで岩塩のように付着している。

 カビのまわりの部分は黒ずんでいて、吐き気を催した。

 よく見れば全体的に色が重くなっていて、着実に腐敗に向かっているように思われた。

 外見が完全であっても内面はそうとはいかないようだ。

 時間の流れには逆らえず、当たり前のように腐っていき、やがては土になる。

 それこそ宝石のように、半永久的に形状を保つことはまったく期待していなかったので、とくに悲しい気持ちにもかられなかったが。

 切るのに忍びなかったように思っていたが、今となってはふと食べることを思いついた。

 レモンやライムのように皮の厚い果物は寿命が長い。

 不必要な部分を切り捨ててしまえば、利用に足りることが多い。

 さっそくレモンを手にとってキッチン向かう。

 キッチン台の上にまな板を敷いて、レモンを置く。流し台の開き戸の側面から万能包丁を取り出した。包丁は峰と刃の間にいくつか丸い穴の開けられたタイプである。

 さっそく手にとって、患部から数ミリずれたところに刃を立てた。包丁の峰を押さえて力を込めると、ざっくりと身が開いた。

 あたりに鮮烈なレモンの臭いが広がる。さっぱりとしていてすっぱい、本体の味そのままの香り。

 断面を見る。中身はやや変色はしているが、食すには問題がなさそうだった。

 切りとった部分をシンクの三角コーナーに投げ捨てる。

 それにしても、綺麗に切れた。私はまったく料理をしない人間で、キッチンに立つと言えばこのように酒の準備をする時のみである。

 包丁さばきも当然下手くそで、まっすぐ切れることはまれである。

 今日は、何と綺麗に切れた。

 切り口は正確無比。まるで自分が居合い切りの達人でもなった気分だ。

 こうしてレモン全体を見ると、これが調和の取れている形のようにも思えた。

 肩口がバッサリと切られているが、まるでそれが最初からあるべき姿であるようだ。

 どうする? これも飾るか?

 いや、そんなことはしない。切れたレモンがオーディオの前に飾られているのを想像して、アホ臭くなった。

 私はレモンをちょうどういい形に、なるべく均等に切り分ける(案の定汚い切り口で切れた)。

 さて、切ったはいいが、使い道をいかにするかは頭になかった。

 まあいい、レモンと言うのは割と何にでも使えるものである。



ギャアアアアアアア‼︎

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