【引き返して】
釈明の手紙を送ったが、返事は無かった。
当たり前である。幾ら弟が勝手にやったことだと言っても、それを信じる者は戦国の世にいない。いたとしても今いるのは土の中だろう。そう分かってはいるが、元親は一縷の望みをかけて送らざるを得なかった。
「はぁ……。やるしかないのか……」
始まってしまったものは仕様が無い。元親は阿波への軍事行動を諦めて、一条家攻略に取り掛かることにした。幸いにも、三好氏とはまだ境を接しておらず、表立って敵対しているわけでもない。西に戦力を集中させることは可能だった。
そうと決めると、元親は件の当事者を呼んだ。本格的な行動に移る前に、これ以上勝手な行動をとらないよう釘を刺しておきたかったのと、一言言ってやりたかったからである。
その当事者吉良親貞は、翌日、蓮池城から来た。
「いやぁ!すまん!不審な動きが見えたき、つい、な」
部屋に入るなりそう言った親貞の態度に、反省したそぶりは見えなかった。大股で元親の前まで歩くと豪快に座る。その後ろに、見覚えのある男が静かに座った。
でっぷりとした貴族風の男。名は依岡左京進。一条家より送られた使者として元親と何度もあっていた。
「……色々言いたいことがあるんだけど……その前に……。その人は?」
「その人も何も、ここには一人でしか――」
後ろを振り返った親貞が、驚き、飛びのく。言われるまで気づいていなかったようだった。
「依岡殿!?何なに故ゆえここに!?」
その親貞の反応を見る限り、敵というわけではなさそうだった。現に、親貞の手は柄に伸びていない。
左京進は、貴族風の見た目にたがわない優美な所作で静かに笑うと、こう言った。
「いやはや。新たなる主君にお目通りを、と思いまして」
どうやら、蓮池城を簡単に奪取せしめられたのは、彼の寝返りがあったからのようだった。
元親は、新たなる配下から、一条家の内部事情を事細かに知れた。これには、元一条家家臣だから知りえた情報だけでなく、明らかに内偵をしていなければ知りえないだろう情報も含まれていた。
この情報と、さっきの親貞に気づかれずに入室してきた身のこなしから判断するに、左京進は忍びの者である可能性が高かった。もし、彼の見た目が元親の持つ忍者のイメージに近ければ、それは確定していたであろう。
「――まだ、お聞きあそばすことはありますか?」
「いや。もう十分わかったよ」
左京進の情報網は一条家のみでなく、それに服属している津野家やその他の家にまで及んでいた。その情報が確かであるならば、案外、この戦いは早く終わるかもしれない。一つの問題を除けば。
一条氏とその服属している勢力を合わせた一条方とも呼べる勢力は、吾川、高岡、幡多と七郡ある土佐の約半数を占めている。その内、幡多郡を一条氏が、高岡郡の大半を津野氏というかつて土佐七雄に数えられた豪族が領有しており、残りは地侍や小豪族が割拠して、その空白地帯を埋めていた。
元親はほぼ四郡を手にしているとはいえ、今現在も東部の平定に兵を割いている状況である。もし、彼らと全力を出し合って戦うとなると、五分以下の条件で戦うことを強いられ、苦戦を強いられるだろう。
だが、そのような事にはならなかった。
左京進の情報通り、一条氏に服属している者たちはもはや今の主君に見切りをつけているようで、その殆どは、元親が兵を起こすや否や、人質を送り、服従を示し、その領地の安堵を願ってきた。
そんな中でも降らなかった、想像力か時勢を見る能力が欠如した、或いは昔堅気の気骨ある者たちも、その半分は命を持って忠義を全うし、もう半分は、一戦交えてすぐ、大多数の者たちと同じように人質を差し出して降参してきた。
彼らの中で、一際大きな勢力を持つ津野氏も、この例に漏れなかった。もとより、津野氏は長曾我部家と姻戚関係があるため、他の者たちよりかはその行動に正当性はあると言えた。
こうして、殆ど血を流さず、元親は二郡を手に入れることができた。元親個人の欲を言えば、彼らの本領をそのまま安堵するのでは長曾我部家の領地は増えないため、せめて勢力の大きな津野氏ぐらいは攻め滅ぼしたくもあったが……。
元親は、とんとん拍子で高岡郡と幡多郡の境近くまで馬を進めた。目の前にある片坂と呼ばれる高い山、その向こう側が一条氏の領地であった。
「さて……どうするか……」
今の軍勢は、長曾我部の兵だけでなく、服属したての者たちも含まれており、その数はかなり多い。このまま押せば、容易く幡多を手に入れられるであろう。
だが、元親には一つ懸念事項があった。それを確認するために、軍議を開く。その軍議には、長曾我部の者だけでなく、新参衆ともいえる吾川・高岡の者も参加させた。
「さて……どうしようか……」
「どうするも何も、ここまで来たなら一挙に攻め入るべし!」
この戦の火蓋を切った張本人、親貞から、彼らしい血気盛んな意見が出た。それに同調する声が続く。しかし、それに同調する声は、長曾我部家の者の口からしか出ていない。しかも、それらは家中でも少数派な意見のようだった。新参衆は勿論、長曾我部家の大多数も口をつぐみ、俯いて下の方を見ている。
元親の憂慮した通り、土佐人にとって、一条氏という存在は神聖不可侵なもののようだった。
今まで敬い続けてきた存在を、若しくは、自身がそうでなくても身内が敬い続けてきた存在を侵すというのは誰しも避けたいものである。たとえ、神の存在を信じない現代人であっても、神社や寺を壊したり傷つけたりするのは、他の建物よりも心理的抵抗が強い。ましてや、全体的に信仰心というものが厚いこの時代の人間であるならば、それは尚更であった。
一条氏に弓引けば、罰が当たる。本気でそう思っている者はかなりの数になるだろう。
元親は迷った。進むか、退くか。ではなく、どう、うまく言い訳して退くか。兵の大多数が反対する軍事作戦が成功した例は、無い。かつて、欧州からインドまでを、手中に収めた英雄も兵の反発にあって、その偉大な覇業を夢半ばにして諦めた。世界史に名を遺す英雄ですらそうなのである。元親がこの状況で戦いを続けることは不可能と言い切って良かった。だが、攻撃の続行を主張した家臣たちの手前、自分から『退く』とは言い辛かった。
誰かそう言ってくれ。
そんな事を胸中で思っていると、その思いが通じたのか、一人、立ち上がった。位置的には、末席ではあるが家中の者である。
「ここは退きましょう」
冷ややかな声でそう言ったのは、前に宴会で介抱してもらった久武親直であった。
「何を言うがな!?好機をみすみす逃すがか!?」
当然反対の声が上がる。親直は、その声の方に目線だけを動かすと、先程と変わらない声色で淡々と論じ始めた。
「私には今のこの状況が、好機どころか敗北の危機に思えます。まず、我が方の数は多いですが、その大半はここ一月で御味方になった方々です。加えて、攻め入る土地は不慣れな者が多い幡多郡です。古来より『天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず』?と言います。我々は吾川・高岡両郡を一気に攻め落とし、まさに天の時を得ていますが、対して一条方は地元の幡多で戦えるという地の利、そして気心の知れた慣れた譜代の家臣団で戦えるという人の和、この二つを有しております。もし今のままで戦えば敗北は必至でしょう」
味方の大多数に戦意が無いことには触れず、古代中国の言葉を引用して話した親直。彼の発言に対して反論の声は無かった。強行派の中には、親直の言葉に反論するできるほど弁の立つ者がいなかったようだった。
「私も退くという意見には賛成です」
賛同する声が上がった。その躊躇のない言い方からして、同じ考えであったが、新参者故最初に声を上げるのを憚っていたのだろう。その者の名は、元親の記憶が正しければ波川はかわ清宗きよむねといった名前だった。なぜ彼の名を覚えているかといえば、元親が兵を起こした時、一番初めに人質を送り、服属を申し出てきた男だったからだった。そのことといい、この賛同の仕方と言い目端の利く男ではあるようだった。
二人が撤退を主張すると、堰を切ったように続く者が出てきた。こうなれば強行派もその主張を捻じ曲げるしかなかった。
各陣が撤退の準備を粛々と進めている中、親直が元親の所にやってきた。
「やあ。親直。さっきの軍議では見事だったね……」
けれども、ああいった場で、若輩者が堂々と相手の考えを否定してしまえば、人に良くない感情を植え付けるよ。という言葉が、浮かんできたが、それは口に出さなかった。恐らく分かった上での行動なのだろうと思ったからである。
「お褒め頂き恐縮です。……ところで一条家のことなのですが……」
撤退を真っ先に主張したとはいえ、それでも、捨て置く気は無いようだった。それは心の中で撤退したがっていた元親も同じであった。一条家に、もはやこちらを攻撃する力はない。だが、先程の軍議でもわかったように、その家名にはまだ魔力があった。もし、彼らが積極的に攻勢に出て、反長曾我部を掲げ周囲の者たちを糾合すれば、吾川や高岡だけでなく土佐各地、はたまた伊予からも兵が集まり、かなりの脅威となるだろう。
そうさせないよう、阿波に攻める前に『一条』の名を無力化しておく必要があった。
「ああ。うん。それについてはこちらにも考えがあるよ」
左京進から得た情報では、元親が兵を起こす以前から、向こうの家中はぐらついている。そんな状態での二郡の喪失。もう蜂の巣をつついたような騒ぎだろう。元親が手を触れるべくもなく倒れる。
そして、それを倒れないようにする方法は限られている。
「……そうですか。そうすると、幡多と京間を行き来する船の数が、近頃かなり増しているという情報も不必要そうですね」
どうやら、親直も独自の情報網を用いているらしい。そして、そこで得た情報から導き出した答えは元親と同じだった。
同じ考えを有している者がいることをうれしく思ったのか、親直の口の端が僅かに上がっていた。それは、好意的な感情を抱いていなければ嘲笑しているようにも見える、微妙な笑顔だった。
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