第8話 ここにいるか?

「い……嫌。私、帰りたくない」


 恐怖のあまり、思っていたことが口から漏れる。

 村長の家にすんでいる間、ここにはいたくない、逃げ出したいと思ったことは、一度や二度ではない。

 だが今回のは、今までの比ではない。またあの家に戻るなど、再びシャノンと会うなど、考えただけでどうにかなりそうだ。


「イズ、どうした!?」


 体を震わせポロポロと涙を流すのを見て、クライドもただ事ではないと悟ったのだろう。

 落ち着かせるように、両手でイズの肩を支える。


「す、すみません」

「謝らなくていい。それより、帰りたくないというのは本気か? ここは魔界。魔族の世界だぞ」

「それは……」


 勢いでバカなことを言ってしまったと思う。右も左もわからない、しかも人間なんていないこの場所で、生きていけるわけがないというのに。

 しかし、しかしそれでも、やはり元のところに帰るとは、怖くてとても言えなかった。


 クライドが、フッと息をつく。変なことを言って、呆れられてしまったのだろうか。

 そう思ったイズに、彼は言う。


「あいつらに襲われていたことといい、どうやら訳ありのようだな。よかったら、話してくれないか」

「えっ……」

「事情がわかれば、少しは力になれるかもしれないから」


 そうは言っても、こんなこと、話したところでどうにかできるとは思えない。

 だがイズ自身、誰かに聞いてほしかったのかもしれない。溜まった気持ちを、吐き出したかったのかもしれない。


「じ、実は……」


 そうして、少しずつ話し始める。


 村長である叔父の家で暮らしていたこと。なぜか突然高貴な方の婚約者となったこと。

 相手が天族であるなどの細かい部分は省いたが、大まかな流れは全て話した。


 全てを聞き終わった時、クライドは目を丸くしていた。


「それが、帰りたくない理由か。そんな理由で殺そうとしたなど、とんでもない話だな。」

「はい……」


 それは、イズも本当にそう思う。これまでシャノンのやることにはなに一つ逆らわずに従ってきたが、殺されそうになってまで擁護するのは無理だった。


「ひとつ、聞いていいか。婚約者になったという、相手の男。イズは、そいつと結婚したいのか?」

「それは……」


 正直なところ、結婚したいかどうかなど、あまり深く考えたことは無かった。

 おかしなことかもしれないが、イズにとってこの話は、村長たちが命じた、決して逆らえないもの。自分が結婚したいと思っていてもいなくても、何の関係もない。そう思っていた。

 だが、この婚約のことをどう思っているのか。本音を言うなら、これだ。


「私には身に余るお話ですし、断るなんてとんでもないことだと思っています。ですが、その……まともに話したこともない方と結婚するというのは、不安です」


 結婚したくない。そうハッキリ思うことはなかったが、不安だけは常に抱いていた。

 だが、言っても取り合ってくれないとわかっていたから、誰にも言うことはできなかった。


 クライドはそれを聞いて「そうか」と呟くと、なぜかホッとしたように息をつく。

 そして、言う。


「帰りたくないなら、ここにいるか?」

「────えっ?」


 いったい、何を言っているのだろう。

 彼の言葉があまりに予想外で、間の抜けた声をあげる。


「イズがよければの話だがな。だが、相手の男が村を訪ねて来るまでには、まだ時間があるのだろう。なら少なくとも、その時まではここにいればいい。元の家に戻るより、ずっと安全で、じっくり考えることができると思うぞ」


 本気で言っているのだろうか。

 だがそう話す彼の表情は、穏やかで、真剣だ。とても、ふざけたりからかったりしているようには見えなかった。


「それとも、魔族のところにいるというのは、やはり嫌か? 見た目が怖いのなら、このツノくらいなら消すことができるのだが」


 クライドはそう言うと、頭のツノをサッとひと撫でする。

 すると、あっという間にそのツノが消える。彼の姿が、人間と変わらないものとなる。


「えっ!?」

「初歩的な変身魔法だ。この方がいいなら、イズの前では、常にこの姿でいる」


 魔法。人間には決して使えず、魔族や天族にのみ使えるという奇跡の技だ。無論、イズは見たのなど初めてだ。


「もちろん、いくら姿を人間に寄せたとしても、怖いと思うなら無理にとは言わんが──」

「ま、待ってください! 怖いなんて、そんなことないです!」


 とっさに叫ぶが、それは嘘だ。いや、嘘だったと言うべきか。

 確かに、ツノといえば魔族の特徴であり、魔族は恐ろしいものと、ずっと信じていた。

 だがこうしてクライドと話をしていると、これまで抱いていた魔族への恐怖も、いつの間にか薄らいでいる。

 それよりも、気になることなら他にある。


「ここにいていいなんて、そんなことしたら、迷惑をかけてしまいます。いくらなんでも、そんな……」


 いきなり見ず知らずの者を、それも、人間の自分を家に置くなど、クライドにとって迷惑に違いない。

 だがクライドは、それを聞いて首を横に振る。


「迷惑など、そんなもの気にすることはない」

「そんなわけにはいきません!」


 村長やシャノンが、自分を家に置いて置くと決めた時、どれだけ嫌そうな顔をしたか。それから今までの間、何度役立たずの穀潰しと言われたことか。

 親戚である彼らですらそうだったのだ。例え短い間であっても、会ったばかりの相手に、そんなことさせられるはずがない。


「これは、詫びみたいなものなんだ。その……お前に狼藉を働いたことへのな」

「へっ……?」


 言いにくそうに言葉を詰まらせながら、告げるクライド。

 イズもイズで、ここで再びその話題が出てくるとは思わず、しかも内容が内容なのでどう反応すればいいのかわからない。


「これで許されようなどとは思ってはいはい。だが、できる限りのことはしたいんだ。だから、俺に迷惑をかけるって理由で遠慮するのはなしにしてほしいのだが、ダメか?」

「ええと……」


 迷惑をかけてしまう。まさにその一心で断っていたものなので、そんなことを言われたら、何も言えなくなる。

 そして、考える。彼の言葉に甘えていいのかを。自分が、どうしたいのかを。


「わ、私、本当に、ここにいていいんでしょうか?」

「さっきからそう言っているだろ」


 当たり前のように言うクライド。

 だが彼はわかっていない。村長の家でずっと不遇な扱いを受けてきた彼女にとって、自分をえけいれてくれるというのが、どれだけ嬉しいことなのかを。


「ほ、本当に本当に迷惑でないのなら、少しの間、ここにいさせてもらっていいですか?」

「ああ。もちろんだ」


 また、イズの目から涙が零れる。

 だがそれは、少し前に見せていたような、怯える涙ではない。

 感謝、喜び、安堵。そういう気持ちの詰まった涙だった。


「ところでイズ。腹は減ってないか?」

「えっ、お腹ですか?」


 そこまで言ったところで、まるでイズに変わって答えるかのように、イズのお腹がグーッと大きく鳴った。


「やっぱり減ってるか。長い間寝ていたから、そうじゃないかと思ったよ」

「す、すみません……」


 恥ずかしくてうつむくイズだが、クライドに気にする様子はなく、楽しそうにすら見えた。


 それから部屋の中にあった呼び鈴を鳴らすと、さっきも来ていたメイドが現れた。


「食事の用意、できているか?」

「はい。今すぐもってきますね」


 そうして、すぐに料理を乗せたトレイを運んできて、近くのテーブルの上に並べる。


「こっちの料理が口に合うかはわからないから、無理だと思ったら言ってくれ」

「えっ? でも、これ……」


 ためらうイズだが、慣れない料理に抵抗があったからではない。

 運ばれてきた料理が、あまりに豪華だったからだ。

 マナーの躾を受ける際に出された料理も、いつものイズの食生活からすると相当良いものであったが、それ以上かもしれない。


「こ、こんな良いもの、とてもいただけません」

「なにを言う。ここにいるとなった以上は客人だ。客人を持て成すのは当然だろう。どのみち、もう作ってしまったのだから、どうしようもあるまい」

「は、はい……」


 イズにしてみれば置いてもらうだけでも申し訳ないのに、こんな贅沢をしていいものかと思ってしまう。

 せめて失礼のないようにいただかなければ。そう思い、最近習ったばかりのテーブルマナーをしっかり守って食べようとするが、付け焼き刃で身につけたものなので、果たしてこれでいいのかわからない。

 そんなイズを見て、メイドの女性が笑いながら言う。


「そんなにかしこまらなくても大丈夫ですよ」

「でも……」

「美味しいと思って食べてもらう。口に合わなければ無理はしない。そうして自由に食べてもらえるのが一番です」

「で、では……」


 改めて、料理を口に運ぶ。

 何かのスープのようだが、人間の世界とは食文化が違うのか、初めて見るものだ。

 一口食べたところで、温かさととろけるような味わいが、口の中いっぱいに広がった。


「────美味しい」

「よかった。ようやく、笑ってくれたな」


 クライドに言われて、自分が今笑ったのだと、初めて気づく。


 突然、まともに話もしなかった天族の婚約者となり、誘拐され、殺されかけた。そして今は、魔界で魔族と一緒にいる。


 そんな状況で笑うなどなんだか不思議な感じがするが、久しぶりに、無理に作った笑顔でなく、本当に笑うことができた気がした。

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