第9話 胸騒ぎ


 目を覚ますと、懐かしい天井が見えた。

 私は大きく伸びをすると、天蓋のない寝台から下りる。

 使い慣れた卓子や調度品が、周囲に並んでいる。すべて私が幼いころから愛用しているものだ。


美鳳メイフォン姉さん、おはよう!」


 扉がいきなり開き、弟が駆け込んできた。


「おはよう。もう、顔は洗ったの?」


「まだ!」


「じゃあ、一緒に洗いに行こうか?」


「うん!」


 部屋を出て、使用人たちと朝の挨拶を交わす。

 私は離宮を出て、実家に戻っていた。


 

 ◇



「おまえは実家に帰れ」


 数日前の朝餉のときに、殿下から突然告げられた。


「えっ?」


「聞こえなかったのか? おまえは、実家に帰れ」


「それって……わ、私は、もう『お役御免』ってことですか?」


 思わず声が震える。

 たしかに『実家に帰れ』と聞こえたけど、空耳の可能性がある。

 私の聞き間違いかもしれない。

 一度、深呼吸をする。

 落ち着け!落ち着け!と自分に何度も言い聞かせながら、殿下の答えを待った。


「おまえなあ……そんな嬉しそうな顔をするのは、やめろ! お役御免じゃない。一時的なものだ」


「なんだ……ぬか喜びさせないでくださいよ!」


 ついに解放してもらえるのかと、心の底から喜んだのに、がっかりだ。


「俺は、公務でしばらく地方へ出向くことになる。その間だけでも、親孝行をしてこい。皇太子妃になったら、里帰りはできなくなるからな」


「皇太子妃にはなりませんけど、せっかくですからお言葉には甘えさせていただきます。それで、殿下のお戻りはいつ頃になりそうですか?」


「すぐに片が付けば良いが……今はわからん」


「そうですか」


 殿下付きの官女となってから、実家には一度も帰っていない。

 書簡でのやり取りはしていたが、きっと家族は心配しているだろう。

 早く顔を見せて、安心させてあげたい。


 私は、今日からいとまをいただけるとのこと。

 部屋でいそいそと荷造りをしていたら、殿下が入ってきた。

 じっと私の様子を眺めているなと思っていたら、後ろからギュッと抱きしめられる。


「当分会えなくなるからな、今のうちにおまえを補給しておく」


「あれ? 私って、水か何かでしたっけ?」


「水よりも大事だな。おまえは、俺が生きていく上で必要不可欠な存在だ」


 冗談を言ったつもりなのに、真面目に返されてしまった。

 しかも、結構重めな言葉で。

 殿下は私の肩に顎を載せたまま、指先で私の髪を弄んでいる。

 肩は重たいし、荷造りもしづらい。

 でも、里帰りを許してくれたから、今日は黙認してあげることにした。


「もし……」


「うん? なんですか?」


「……もし、俺に何かあったとしても、それは俺自身が選択したことだからな」


「どういう意味ですか?」


「簡単に言えば、おまえが気に病む必要はないってことだ」


 ポンポンと私の頭を優しく撫でると、殿下は部屋を出ていった。

 結局、彼の言葉の意図は何もわからないまま。

 

 いつもと様子の違う殿下が、少し気になった。



 ◇



 実家に戻った私は、久しぶりに佩佩プイプイの家に遊びに来ていた。


「───それでね、美鳳が離宮を出て実家に帰ったことで、宮廷内ではいろんな噂が飛び交っているの。『殿下は平民官女に飽きた』とか『殿下に捨てられた』だって! 失礼な話よね!!」


 佩佩は、頬を膨らませている。


「なるほど。だからおじさまとおばさまが、私を見てあんな顔をされていたのね……」


 佩佩の両親には、小さいころからよく可愛がってもらった。

 そんな二人が、私をとても気遣うような、心配するような表情をしていたのだ。


「ホント、噂なんて当てにならない! 私が明日、『美鳳は、飽きられていません!』って広めてあげるわ」


「訂正はしなくていいわよ。そう思われていたほうが、私にとっても都合が良いから」


 要らぬ妬みや嫉妬と関わらずに済むのであれば、こちらのほうが有り難い。

 どんな噂を流されようと、気にしなければいいのだから。


「美鳳がそれでいいのなら……そうだ! 噂といえば、こんな話も聞いたわ。先日、大勢の武官や見習いたちが広間に集められたそうよ」


「もしかして、模擬戦でもしたのかしら?」


 私はその前に実家に帰ってしまったから、参加ができなかったのだろう。

 残念だ。


「それがね、台座に置かれた剣を持ち上げられるか、一人ずつ試したんだって」


「……剣を持ち上げられるか?」


「結局、誰も持ち上げることはできなかったらしいけど、そんなに重い剣なんてある?」


「…………」


 これもいい加減な噂話よね、と佩佩は笑っているが、私は聞き流すことができなかった。

 台座に置かれた剣とは、おそらく『退魔の剣』のことだ。

 誰一人持ち上がらなかったことからも、間違いないだろう。

 問題なのは、なぜそんなことをおこなったのか。

 

 まるで、剣の使い手を探しているような───



『俺は、公務でしばらく地方へ出向くことになる』



「まさか……」


 非常に嫌な予感がする。

 胸騒ぎで、居ても立っても居られなかった。


「ごめん! 急用ができたから帰るね!!」


 挨拶もそこそこに、部屋を飛び出す。

 急いで家に帰ると、父が商売仲間の知人と話をしていた。

 私は構わず、間に割って入る。


「父さんに、訊きたいことがあるの! 最近、地方で変わったことは起きていない?」


 商売柄、父は国内外の情報に通じている。

 だから、彼に尋ねるのが一番確実だ。


「こら! お客様の前だぞ」


「お願い! 大事なことなの!!」


 必死に懇願する。

 とにかく、どんな些細な情報でもいいから知りたい。


「私は、特に何も聞いていないが」


「そうなんだ……」


 どうやら、私の勘違いだったらしい。

 でも、何もないのなら、それに越したことはない。

 お邪魔しました!と退室しようとした時、後ろから声がかかった。


「……地方ではなく隣国の話だが、魔の者が出たと聞いたよ。白い髪をした、妖術使いだと」


「!?」


「そんな話、初めて聞いたぞ!」


「私も、昨日聞いたばかりなんだ。国境を越えて、こちら側に来なければいいけどね」



 『すぐに片が付けば良いが……』

 『もし、俺に何かあったとしても───』


 殿下の言葉が次々と思い出される。

 おそらく魔物が国境を越えたのだろう。だから、殿下が討伐に向かったのだ。


「貴重な情報を、ありがとうございました! 父さん、私は宮殿へ行ってきます!」


「帰ってきたばかりなのに、もう戻るのか?」


「大事な用事があるの! ごめんなさい!!」


 焦る気持ちを落ち着かせつつ、私は宮殿へと急いだ。



 ◇



 官服ではない平服姿の私を皆がじろじろと咎めるような顔で見ているが、気にしない。

 殿下の執務室へ向かうと、今は休憩時間なのか志賢ジーシェン様だけがいた。


「美鳳さん、どうしました? 今は、実家に帰られているはずでは?」


「突然、申し訳ございません。至急確認したいことがありまして、戻ってきました」


 志賢様は怪訝な顔をしているが、今は時間がない。

 どんどん話を進める。


「単刀直入にお尋ねします。耀明ヤオミン殿下の行き先を、教えてください」


「……なぜですか?」


「殿下の身に危険が迫っています! 早くしないと、取り返しのつかないことになります!!」


「殿下からは、あなたに尋ねられても絶対に居所は教えるなと言われております」


「やっぱり……」


 殿下は、わざと内緒にしていたのだ。そして、私を実家に帰した。

 こんな大事なことを隠しているなんて、どうかしている。

 でも、今は腹を立てている場合ではない。


「時間が惜しいので、はっきり申し上げます。妖魔の妖術に対抗できるのは、退魔の剣だけです。普通の剣では、到底太刀打ちできませんよ?」


「どうして……あなたがそれをご存じなのですか?」


 目を見張る志賢様へ、私はにこりと笑みを深める。

 ここで躊躇して、後悔だけはしたくない。


「私は、前世で一度だけ戦ったことがあるからですよ───退魔の剣で」


 志賢様が息を呑む音が聞こえた。


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