19:死体になった男

 男が死体になって、もうどれくらいが経っただろう。

 年月を数えることはとっくにやめてしまったし、いつから、どうして死体になったのかも忘れてしまった。

 自分の名前すらも、もう思い出せない。


 ただ確実に、脈は無いし心臓も動いていない。肉体は物理的に死んでいる。それでも動いている理由など、男が知りたかった。

 知っている者がみな、寿命を迎えてまっとうな死体になっていく中で、男だけが見た目も変わらず動いている。


 当世風に言えば、ゾンビだのリビングデッドだのということになるのだろう。だが男は別に、人を食べたいなどとは微塵も考えたことはなかった。


「いつまで、こうなんだろうなァ」


 手を変え品を変え、名前や住む地域までも変えながら、細々と金を得て暮らしている。定住できる体と身分を持っていない。男は死体なのだ。それでも、騒ぎにならないように密かに、慎ましく暮らしていくだけでも金はかかるものだ。


 男は、慎ましくいられればそれでよかった。


 ◆


 どこかの海辺で、沈む夕日を眺めている。背後の山からはヒグラシの寂寞とした声が鳴る。

 浜のそばには、連れ立って歩く家族。スマートフォンで、機嫌よく歩く子の写真を撮っている。小さな子が、浴衣姿で親と一緒にはしゃぎ歩いているのを見ると、動いていない心臓のその奥のところがどうにもくしゃりと歪む。理由など分かりようもないが、ひどく泣きたくなる。血の通わぬ身で涙がこぼれるはずもないが。

 漏れ聞いたところ、今日は近くの神社で納涼の祭りがあるらしい。


 空欄、空白だらけの記憶の中にぽつりと、提灯で飾られた夜店を眺めながら誰かと手をつないで歩いた画が浮かんで、消えた。それはとても大切なものに違いなかった。

 もっとよく思い出そうと固く目を閉じる。死んだ脳細胞はそれ以上何も、瞼の裏に映さなかった。

 

 諦め悪く目を閉じているうちに、とうに日は暮れて辺りは暗く。虫の音、辺り一面低く。

 唐突に、ドン、ドドンと花火が上がる。ぱちりと目を開けた男は、納涼の花火かと得心し、夜空の花が浜に落とした自分の影を見つめた。


 ――あァ、あれは、まるで――


 どぉん、と一際大きく鳴った音に心臓を揺らされ、男の口から言葉が漏れる。


「焼夷弾のようじゃァ……」


 刹那。

 死した体に塵積していた記憶が花火の音に押し出されるように脳裏に零れ落ちる。


   『手ぇ、つないでもろても良ぇがか?』

                    『婚姻、謹んで御受けします』

 『見ぃ、産まれたで。あんたに似て凛々しか面じゃ』  


        『なんも。慎ましやかに暮らせればそれでええ』

    『お祭り、いつか家族3人で行こうがや』


『お国のためじゃ言うても……』


                 『この子はまだ一人で歩けもせんに』

       『待っとる』


 『この子と二人で』   『あんたを待っとる』


           『待っとるよ。清一せいいちさん』



 男は――、清一は思い出した。

 戦火の中で。剣林弾雨の中で。日本から遠く離れた異郷の土の上で、死ねないと念じていたことを。たとえ死んでも必ず帰ると心に刻んでいたことを。


「帰らんといけん……」


 まだ鳴りやまぬ花火の音を背に走り出す。

 戦地、爆風の中を抜けたときと同じように。


 三日三晩、昼夜を通して走り続けた。

 男は思い出したのだ。帰るべき場所を。


 走って、走って、ただ走って。


 電車や飛行機を使うことは微塵も考えつかなかった。彼の、清一の思考時間は戦時のあの時に戻っていたのだから。

 肺が破れ、靴が擦り切れても走った。


 やがて、出征の際に妻と幼い我が子と別れた村に着いた時にはもう夜中だった。どこかでぶつけて落としたのか片腕がもげてなくなっている。骨が飛び出ているが、痛みは無い。


「夜中でよかった。こんな姿ァ見られたら騒ぎになってまう」


 村の姿は記憶とあまり変わっておらず、それでも充分な時間の流れは感じられた。妻や子に会えるとは、思っていなかった。ただ、清一は帰りたかったのだ。


 村の菩提寺に自然と足が向く。ふと足元を見るとむき出しになった足の、その指もいくらか無くなっていた。


「深夜の墓に似つかわしい格好じゃなァ」


 自嘲気味に笑い、墓に彫られている名前を端から確認していく。妻の名がきっとあるはずだが、友の懐かしい名が並んでいるのに、ついつい目を止めてしまう。


 そして。


「ずいぶんと待たせたなァ。和江」


 墓に、残っている方の手をしっかりと手を添える。

 妻はいつ没したのだろうか。幸せに暮らしていてくれただろうか。どのような生を送ったか知る由もない。


 側面には、妻の名と、没年数。

 そして名の横には空欄がぽつりとあった。


 男の名を刻むためにと、不自然に用意された空欄。


 妻は、帰りを信じていた。

 どれほど時間が経っても、必ず帰ってくると疑いもせず、夫の名を刻む余地を空けたのだ。


 清一は膝をついて墓にすがり、慟哭と共にむき出しの骨で己の名を刻んだ。

 ひっかき傷のようではあったが、確かにそこに男は名を刻んだ。


 ◆


 朝陽が射し、体は灰になり崩れ落ち、昇る灰は焼香の煙のようで。


 男は、正しく死体になった。

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