9:ヘラクレス オオカブト

昔から一仕事を終わらせると一服する癖があった。


だから私は口に煙草を咥え、火を付けようとしたのだが……ライターがない。


胸ポケットにはなく、ズボンのポケットにもない。


「あぁ、そうか。テーブルの上か。失敗したなぁ」


急な連絡で飛び出して来たものだから、すっかり忘れてしまった。


苛立ちのままに咥えていた煙草を折って、そのまま地面に投げ捨てる。


そして、大きな木に寄りかかりながら空を仰いで息を吐いた。


本当ならば、ここで肺を焼く感覚を味わえていたというのに非常に残念である。


「まぁ、しょうがないか」


私は地面に落ちていた携帯電話を手に取って、四桁のパスワードを入れる。


「なんだ。まだ私の誕生日なんだ」


感じたままに言葉を零したが、特に感情は動かなかった。


ただ、未送信だった私へのメールを見て、手が止まる。


題名には、『ごめん』の一言。


そして本文には何も無し。


答えの分からない空欄が広がるばかりだ。


「チッ。これじゃ何も分かんないじゃん。聞いてからにするんだったな。失敗した」


私は吐き捨てる様に隣で寝ている男を見るが、当然ながら私の言葉に返答はない。


無言だ。


無論、これは私を無視している訳じゃない。


ただ言葉を返す事がもう出来ないだけだ。


当然だろう。達也の背にはその命を終わらせる為の包丁が刺さっているのだから。


「ねぇ、達也。なんで私と別れよう。なんて言ったの?」


「私の何が不満だったのさ」


いくら言葉を投げかけても、達也は何も返さず沈黙を守ったままだ。


実に不快である。


不快過ぎて涙が溢れてきた。


「はぁー。しんど」


私は目から溢れる涙を乱暴に拭って、胸ポケットから煙草を取り出して、一本口に咥えた。


が、火が無かった事を思い出し大きく息を吐きながら天を仰いだ。


目を手で覆って、世界から気持ちを切り離す。


このまま座っていても、ただネガティブな気持ちが溢れてゆくばかりだ。


だから、私は達也の背から包丁を何とか抜いて、自分の首に当てた。


「次の世界じゃ、一緒になろうね。達也」


そして、勢いよく振り下ろした。


瞬間、熱が生まれて世界が赤に染まる。


暗い夜空が、赤に染まってゆく。


それを見ながら、私は懐かしいことを思い出していた。




『この先の山にさ、人の来ない穴場があるんだよ!』


『えー。面倒だよ』


『そんな事言わずにさ! 一生に一度の事なんだから!』


『花火なんかいつでも見れるでしょうが』


『いや、それはそうなんだけどさ。でも、今日の花火は特別だから!』




私は、動かしにくい手を動かして、倒れている達也の体に触れる。


が、達也は私に背を向けるばかりで何も語り掛けてはくれない。




『好きだ。好きなんだ。付き合ってください』


『え?』


『何その反応。どういう反応?』


『いや、急な事でビックリしちゃって』


『ビックリしたのなら、もっとそれらしい反応があるでしょ! そんな、何言ってんだコイツ。みたいな顔はしないでしょ!』


『まぁ、確かに。あぁ、付き合うのだっけ。良いよ』


『えぇー。アッサリ』


『何? 何か不満なの?』


『そうじゃないけどさ。もっと、こう……ドラマチックな展開を期待していたというか』


『ハッ。あほくさ』


『ハァー。何だかなぁ』




ねぇ。達也。私の何がダメだったのかな。


私、何を間違えたのかな。




『まぁ、とにかく。これで恋人同士って事で!』


『あー。まぁー。そうね。一応恋人ね』


『なに!? その一応って!!』


『いや、一応は一応だけど。ほら、明日には別に好きじゃなくなるかもしれないし』


『えぇー!? 困るんだけど!!』


『困られても困る』


『そんなぁ』


『だから、フラれたくないなら、精々頑張ってよ。達也』




私は震える手で達也に再び触れようとして……出来ずに落ちる。


だが、その瞬間に目の前を横切った赤が、かつて達也と共に見た花火を思い出させるのだった。


しかし、あの時に感じた幸せな感情も、無限にあった未来もここには無い。




ここに残されたのは……。


空欄のまま届かなかった達也の想いと。


花火に似た赤く染まった手と。


天国と地獄へ逝く二つの死体だけだ。

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