8:その殺し屋は繰り返しの日々を終え、

 その男は目を覚ますたび、乱雑に描かれた壁の文字に目を奪われる。


『お前は殺し屋だ。本懐を忘れるな』


 疑問に思っていると、ベッドサイドの棚の上に放り出された便箋が目につく。そこには『お前は短期記憶障害者だ。これを読んでいるということはそういうことだ。お前は自分自身が用意したあらゆるものを忘れている。これから全てを説明する』


 男は便箋の指示に従いながら部屋中を移動し、自分が何者かを知る。

 殺し屋であること。依頼を受けたままであること。殺しのリストのメンバーを全て暗殺するまで、自由にはなれないこと。

 もし逃れようとしたら殺されるとまで書かれている。


 怪訝な顔で男は殺しのリストを開く。

 あろうことか、残り一人だった。


「これなら俺にもできるだろうか」


 部屋中に残された痕跡や〝今までの俺〟の日記には、この生活の苦しさが現れていた。負の牢獄に閉じ込められている。しかし、それも今日までだ。かつての俺が五十人以上を殺し、俺は残り一人を殺せば、〝俺という存在〟はこれで解放される。


「やってやろうじゃないか」


 痕跡のなかには、男を十分勇気付ける叱咤激励が散見された。『お前ならできる!』『逃げるな!』『果たせ!』『お前に記憶はないが、殺し屋としてのセンスは衰えていない』『自分を信じろ』『お前なら成せる!』

 これまで何十人もの〝俺〟が積み重ねてきた言葉だった。


 男は殺しのリスト最後の一人を暗殺するため、行動に移した。


 ☆


 狙いの男はある国の市長だった。『殺しのリストを埋めたらココに電話しろ』と記した紙はあったが、依頼者が何者でどういう目的で殺したがっているのかは知らない。

 こんな男に命を狙われる市長を不憫にも思うが、男はスナイパーライフルを担ぎながらターゲットの動向を追う。


 十分に調べ上げたところ――かつての俺がそうなるように仕組んで〝残した〟のだとも思うが――本日は暗殺の決行日に最適な一日だった。


 市では大掛かりな花火大会が予定され、そこでは市長の登壇がある。

 演説を終えて裏に引っ込んだターゲットを追い、花火の音に紛れるように引き金を引き、ターゲットを射殺。のち、人混みに紛れて移動。警察が事件に気付いて警戒網を敷いたところで、会場にいる全員の動向を追うことはできない。闇に紛れて帰宅し、俺は依頼者に電話一本を送って自由の身となる。

 男はそんなことを画策し――。



 パァン! そして、実行した。



 花火の音がそれら全てを掻き消し、男は死体を確認する。

 そして、男は無事に帰還する。


 ☆


「ああ、俺だ。最後の一人を殺した、これで殺しのリストは全て埋まった。もう用はないな」

[……ああ。ありがとう、ジェイムズくん。伝説の殺し屋を無理に引っ張り出した甲斐があった。これで貸し借りはチャラにしよう。君は晴れて自由の身だ。隠居生活を願う君に我々裏会の人間が関わることは今後一切ない]

「感謝する」


 依頼者はどうも男が記憶障害であることは知らないようだった。それもそうか、知られれば都合よく利用され、飼い殺される。かつての俺は何らかの理由で自身の記憶障害を悟り、こうして戦ってきたに違いない。


 今の俺にその自覚はないが、今の俺が在るのはかつての俺のおかげだ。


「ふぅー……」


 一仕事を終えた男は長く息を吐く。明日の俺のために、新しい痕跡を残しておかないといけない。

 男の記憶は就寝するまで保たれる。明日に今の俺はいないが、明日の俺が困らないようにはしてやりたかった。


 そこで、男は殺しのリストに目をつけた。

 総勢五十九人の殺しのリスト。罫線のあるメモ帳。被害者の名前が載ったページには一行の空欄が余されており、ニヤついた男は先ほど殺した男の名の上に打ち消し線を引いたそのペンで〝新しい目的〟を記入する。


「これでいいだろう」


 満足げに呟いた男は痕跡を元の位置に戻し、寝室に移動する。

 すると壁に大きく描かれた文字が目につき、自身がもう〝そうではないこと〟を表すように更に荒々しくバツ印を描いた。


「俺はもう殺し屋じゃない」


 男は一言そう呟き、未練がないことを確認すると、穏やかに就寝した。


 ☆


 ――その男は目を覚ますたび、乱雑に描かれた壁の文字に目を奪われる。


「どういう意味だ……?」


 その壁の文字を否定するようにバツ印があったので、首を傾げた。

 男はベッドサイドの棚の上に放り出された便箋に目をつけ、指示に従って部屋中を移動し、自分が何者であるかを知っていく。


 怪訝な顔で男は殺しのリストを開いた。


「―――なるほど……」


 全てを察した男はニヤつく。

 殺しのリスト、最後の一行は。


『美味いもん食って、好きにしろ』


 男は、自由だった。

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