第9話 『鬼教官』
6月28日 水曜日
「こ、殺されるかと思った」
参加者全員に容赦のない古矢さんの戦闘訓練。
今日が初めての訓練になるみんなは驚きを隠せない様子。
しかし俺は昨日夕方まで一対一で殴り合いフルボッコにされまくったので少しだけ体が慣れている。
早速地面に倒された美濃は体に力が入らないのかそのまま立ちあがろうとしない。
「大丈夫かよ」
「あの鬼教官相手にして大丈夫なんて言えないでしょ」
「それはそうだな」
俺は深く同意する。
あの教官と殴り合いを始めたが最後、一瞬で地面に叩きつけられ酷いときは気を失う。
今も必死に能力を駆使して立ち向かう景がカウンターの顔面パンチを喰らって気を失っている。
それをやった張本人は必死に「ごめんなさい」と景に謝っている。
謝るのであればもう少し手加減をして欲しいのだが、彼女にそれを求めるのはもう諦めた。
「はい次信くん!来て!」
「呼ばれてるよ」
「わかってるよ」
一瞬逃げようと踵を返そうとした瞬間に美濃が逃げないように声をかけてきた。
こうなったら行くしかない。
「もうどうとでもなれ!」
俺は分身を出して先陣を切らせる。
しかし恐ろしいことに腹を貫かれた分身は一瞬で消失。
そのまま俺の方に向かってきた古矢さんは俺の顔面を殴ろうと拳を、と思ったがそれは囮であったらしく、俺の顔が蹴り飛ばされる。
しかしここで諦めるような真似は、と思い立ちあがろうとすると顔を鷲掴みされ地面に叩きつけられた。
「ちょっ、ちょっま、ギブギブギブギブ!!!」
頼むから手加減をと思いながら声を上げる俺を見て古矢さんは手を離した。
危うく頭蓋を砕かれるところであった。
「はい、じゃあ次は真辺くんと戦ってきて」
休む暇もなし。
鬼かなこの人は。
「ほらほら信くん、いつまでも倒れてないで行く行く!」
ちくしょう、いつかこの人を殴り倒せるようになりたい。
とはいえ、だ。
「うん、みんな腕が上がるのが早いね」
汗をタオルで拭きながら古矢さんは清々しい笑顔でそう言った。
あそこまで圧倒的な力を見せつけた後にそんなこと言われても。
「私に攻撃を当てるのはまだまだだけど、真辺くんとは互角くらいに戦えてるしね」
「本当に悔しいことにですけどね、隊長」
そうなのだ。
未だ古矢さんを前にして十秒以上保つことはできないが、真辺さん相手ならそこそこまともに戦えるようになってきた。
おそらく真辺さんが俺たちに合わせて手を抜いていることも起因しているのだろうが。
「まだ一日しか経ってないのに、みんな成長が凄まじいよ。一日始めたのが早かった信くんとは少し差があるけど」
なんか嬉しい。
調子に乗ってドヤ顔をみんなに見せつけると少しイラッとした表情を見せてきた。
「でもみんなも負けてないよ。特に景くんは信くんに追いつけるかもね」
え、まじ俺追いつかれるかもしれないの?
すると景も同じく俺にドヤ顔を見せてきた。
なんか悔しい。
まだ負けてねえから。
まだお前の負けだから。
「みんな今の調子で頑張ってね。あんまり時間もないから」
「いって〜」
学校を終え、今日の訓練も終えた俺たちは寮に帰る。
しかし体が痛む。
肩を回しながら声を上げた景は相当参っているらしい。
「あの鬼教官、少しは手加減して欲しいぜ」
「お前にはわかんねえだろうな。朝からお前らが来る時間帯まで、ひたすらあの人にボコボコにされてた俺の苦しみが」
「考えたくもないな」
俺もできれば思い出したくないものである。
もう何回意識が飛んだかも覚えてない。
「私も体痛めちゃった。骨が折れるかと思ったよ」
稲葉先輩かわいそう。
女の子でも容赦せずに本気で手をあげるあの教官。
まじでいつか殴り倒してやる。
「女の子相手でも容赦しなかったですもんね」
女性陣は体のどこどこが主に痛いなどといって話をし始めた。
俺と景は特に話すこともないので黙っているが。
それにしても、新しい能力の使い方、思いつかなかったな。
みんなも自分の能力の応用を考えながら戦っていたが、特に目立った成果はなかったみたいだし。
分身を出す能力。
一体どんな使い方があるだろうか。
一応、一気に複数体の召喚なんかを試してはみた。
実際にできたがどうやら能力を使うために必要な燃料となる『魔力』が凄まじい勢いでなくなっていくことがわかった。
せめてこれがどれくらいのペースでなくなっていくのかが分かれば、色々とやりようがあるんだが。
しかしものは試しだ。
いったいどれくらい分身を使えば魔力が無くなるのか、明日の訓練で試してみよう。
ついでに一気に出せる分身の数も計測してみよう。
「なあ景、古矢さんが言ってた、能力の応用だけどさ。お前なんか見つけたか?」
「ん、まあ、見つけたことは見つけたんだけど…………」
この口ぶりから察するに、実際に試してみたのだろうか。
「どうだった?」
「単純なもんだよ。今まで適当に全身強化で怪力を使ってきたけど、一点集中、今まで全身に巡らせてたのを一点にまとめるっていう、誰でも思いつきそうなやつ」
たしかに誰でも思いつきそうなやり方ではあるが、かなり強力ではある。
「できたのか?」
「できたよ。でも体に負担が大きくてな、筋肉痛みたいになっちまって、体が痛い」
そう言って景は自分の左腕に手を添えた。
どうやら左腕でそれを試した結果、見事に痛めてしまったらしい。
「まあ成功はしたよ。実際に真辺さんに打ち込んでみたりしたしな。成果も威力も十分、でも体への負担がデカすぎるってデメリットありだ」
つまり現状、景にとっては一撃必殺の必殺技のような扱いになっているということだろうか。
「こうなるのを予想して控えめにして良かったよ。全力出してたらどうなってたかわかんねんな」
それこそ左腕はズタズタになってしまっていたんじゃないだろうか?
「気をつけて使わないといけないな」
本当に大技という扱いになるだろうなこれは。
もしも体に負担を強いることなく扱うことができるようになったら、その時は古矢さんに一発攻撃を当てると言うのも夢ではなくなるかもしれない。
俺ももう少しいいのが浮かんでくるといいんだが、なかなかうまくはいかなそうだ。
寮に戻ると解散しそれぞれ別れを告げて自分の部屋に戻っていった。
俺も部屋でゆっくり体を休めようと部屋に戻ってからは即ベッドに寝転んだ。
自分が思うよりも体は疲れを訴えて休息を求めていたようだ。
「にしても、本当にやりすぎなんだよ」
もう途中で諦めたことだからそこまで気にしてはいないものの、寸止めの約束だけは守って欲しかった。
今でも体の至る所が痛んでしょうがない。
特に顔だ。
古矢さんは全然容赦をせずに顔面をぶん殴ってくるのだから。
「もう懲り懲りとか言いたいけど……」
そう言うわけにもいかない。
『ブラックマーケット』に対抗するにはまだまだ足りないのだから。
戦闘能力は確実に向上してはいるらしい。
たったの二日で凄まじい成長だというふうに言われているが、実感はないもので。
明日の特訓もボコボコで終わるだろう。
猶予は一週間だと言っていた。
すでに今日は水曜日。
日曜日を最大の期限だとするならばもうあまり時間はない。
二日で凄まじい成長だとはいえ、今の状態ではむしろまだ足りない。
もっと成長速度を上げないと。
「届かない。まだあいつには届かない……」
あの時、景と二人で挑んでも勝てなかった。
圧倒的な力の差。
あれは本気ではなかった。
常に俺と景の反応を見て遊んでいた。
絶対に埋まらないあの力の差を、一週間などという短い期間でどうすればいいのか。
それは叶わないだろうな。
一人でどうにかしようなんてもう考えない。
それを受け入れたからこそ、俺はみんなで挑む事を決めたんだ。
「不安はあるけど、怖くはないな」
それなら大丈夫だ。
もう心配することなんかない。
ピーンポーン、とインターホンの音が部屋に鳴り響いた。
俺はベッドから起き上がりインターホンのカメラの映像を確認する。
そこには。
「……稲葉先輩?」
来客が稲葉先輩であることを確認した俺は急いで玄関に行って扉を開いた。
「あ、信くん」
「先輩、なんで俺の部屋に、ていうかなんで俺の部屋知ってるんです?」
「ご、ごめん。勝手だけど、景くんたちに聞いたの」
「あ、そうなんですか」
まあそうだろうとは思ったけれど。
いや、それよりも。
「いえ、それよりも、どうして俺の部屋に来たんですか?それに……」
さっきからずっと気になる。
その両手に抱えている起きな袋は、エコバッグか?
中がパンパンになっているのか、大きく膨らんでいてそこそこ重そうだ。
「うん、ちょっと話がしたかったの。信くんと二人きりで」
「え………」
ちょっと待ってくれ。
そんなこと言われるといやでも意識してしまうぞ。
それに、今は十九時半。すっかり遅い時間である。
そんな時間に女の子を俺の部屋にあげるなんて。
「その代わりって言うとなんだけど……」
先輩はエコバッグを持ち上げて俺に見せつけた。
「今日の夜ご飯、私が作るよ」
ま、まじか。
先輩の手作り料理を食べるチャンス!?
そ、そんなの逃す選択肢はないだろ。
「いいんですか?」
「いいよ。そのためにちょっと多めに食材調達してきたの。入ってもいい?」
「どうぞ」
即答だった。
先輩の手料理、ぜひ食べたい。
こっちから土下座で頼みこみたいほどだ。
俺は迷わず先輩からバッグを受け取り部屋に招き入れた。
今の瞬間から、俺は一切気が抜けない。
靴を脱いで部屋に上がる先輩を背後に感じながら気を引き締める。
何かしそうになったら自分で自分の頭をかち割る準備でもしておこうか。
かち割る方法はそうだな、分身に鈍器で攻撃させるかね。
もちろん頭を。
「信くん、何してるの?」
台所にエコバッグを置いてから部屋の中で鈍器になりそうなものを探っていると先輩に不審そうに声をかけられた。
「あ、気にしないでください。自分を抑える道具を探しているだけなので」
そう言った俺を見て少し首を傾げたが、気にしないことにしたらしい先輩は俺から目を逸らして自分が買ってきた食材と向き合った。
俺はとりあえず置き時計を手の届く場所に置いて台所に立つ先輩の姿を眺める。
「信くん、一応聞くけど、何か夕食にリクエストとかある?」
「ないですよそんなの。先輩におまかせ、主婦のおまかせコースで」
「主婦って、もう……」
「あ……」
ちょっと冗談にしては攻めすぎたかもしれない。
先輩は顔を真っ赤にしてしまってそのまま何も言ってくれない。
かくいう俺もちょっと気まずくなって、適当に首を掻いてスマホを見ることにした。
「………………」
ちょっと、先輩の様子が気になって視線を向ける。
先輩はちょうどエプロンを装備したところらしく、袖を捲り長い髪を結んで、いわゆるポニーテール。
「おお…………」
小さく声が出た。
あまりにも美しすぎる姿にそうせずにはいられなかった。
なんだろう、いつもの清楚な感じとは少し違う。
クールな感じが漂う、頼りになる先輩のイメージが強まった。
なんだか信じられない。
まだ知り合って間もないあの稲葉凛が、俺の部屋で夕食を作ってくれている。
俺は知らなかったが、学校ではマドンナ的存在である先輩。
なんだかラブコメみたいだ。
「お料理完成だよー」
料理をお皿に盛り付けたらしいので、俺は先輩の手伝いに向かう。
お皿を運び、食卓に置いて俺と先輩は腰を下ろす。
うちには椅子がないので、少し体が痛むかもしれないが、そこは我慢してもらうしかない。
「「いただきます」」
二人で手を合わせ、声を揃えて食事を開始した。
メニューはなんと俺の大好物だった。
「先輩、豚キムチが好きって、誰かに聞いたんですか?」
「バレちゃった」
そこまで調査したと言うのか。
なんかちょっと怖い。
「ちなみに誰に聞いたんですか?」
「グループ作って、三人に」
まさかグループチャットを作ったと言うのか。
そんなことがあっていいのか。
「なんですかそれ」
「これ」
先輩は俺にスマホの画面を向けた。
そこにはグループチャットの画面が映し出されていて、グループ名は『羽宮信研究会』。
意味がまるっきりわかんないのだが。
「このグループはいったい……?」
「見ての通りだよ」
見ての通りらしい。
「そ、そうですか」
なんだか恐ろしくなったのでこれ以上は追及しないでおこう。
「え、えっと、そ、そういえば」
気まずくなった空気をどうにかしないとと思い頭に浮かんだ話題を提供する。
「先輩って学校ではかなり人気じゃないですか。それ、きっかけとかあったんですか?」
「きっかけ………?」
先輩はよそを向いて少し記憶を遡っているようだった。
そしてしばらくすると。
「いや、ないと思う。私は目立つようなこともしてないし、ただひたすら教室で本を読んでるだけのくらい女だったよ」
そうか。
つまりはやっぱり、先輩はいるだけで目立ってしまうと言うことか。
「先輩はやっぱり、滅多にお目にかかれない美人なんですね」
「え?私、美人?」
先輩は頭の上にはてなマークでも浮かんできそうな顔をする。
まあそれもそうか。
生まれてからずっと見てれば自覚など出てくるはずがない。
「先輩には自覚がないかもですけど、先輩はすごく美人ですよ。もう真っ直ぐに顔を合わせるのが難しいくらいに」
「本当?」
そう言うと、先輩は俺と向かい合っていた位置から少し移動して俺の横にきた。
何をしているのか理解ができずぽかんとする。
「何してるんです?」
「実験」
ああ、そう言うことか。
俺の顔をじっと見ているのは俺が先輩の顔を真っ直ぐに見れるか実験するためか。
「言っときますけど、俺全然見れますよ?」
俺は先輩の顔を真っ直ぐに見つめる。
少しも先輩と目を合わせることをやめず、ただただ見つめ続ける。
すると。
「ごめんギブ」
先に視線を逸らしたのは先輩の方だった。
降参した先輩は元の位置に戻って食事を再開した。
やった。
俺の勝ち。
「先輩が恥ずかしがってどうするんですか」
「いやだって、いくら年下だとしても、男の子と顔を見つめ合うなんて、刺激が強い」
まあ確かに、男友達がいない先輩にしてみれば難易度が高いことだろう。
まあこの手のゲームは巴や美濃と経験済みなのでどうってことはない。
なんか心臓の鼓動が早い気がするけど気のせいだ。
そんな気がしているだけだ。
「とにかく、先輩はいるだけで目立つんです。もうモテてしまうのは避けられないことですよ」
姫乃先輩のことも、もう我慢するしかないだろう。
あの人がこれからどんな行動に出るのかはわからないが。
ああ、そういえば。
「先輩、今朝は姫乃先輩に絡まれませんでしたね」
「えっ、あ、ああ、確かにそうだったねえ〜」
「……………?」
なんだ?
なんか俺と目を合わせようとしない。
「先輩?」
呼びかけるがやはり俺と目は合わない。
なんだろうか。
姫乃先輩の話はやはりやめた方がよかただろうか。
「すみません無神経でした。姫乃先輩は、稲葉先輩にとってはあんまりよろしくない話題でしたよね」
「え、いや、そう言うわけでもないんだけど……」
「ならその反応はいったい?」
「いやあの、なんでもないですぅ……」
終始おかしな反応をするものだ。
俺に何か気でも使っているのかもしれない。
やっぱりこの話題はやめよう。
先輩に何があったのかは知らないが、気を悪くしてしまっているのは間違いないだろう。
「すみません。この話はやめて、別の話をしましょう」
無神経にも程があっただろう。
「ちなみに先輩、大体答えは予想できるんですけど、今日の訓練どうでした?」
「地獄だったよ」
それはそうだろう。
俺や景たちはある程度戦いというものに慣れを感じている。
そのため体がびっくりして痛めたりとかすることもない。
それに体力もそこそこついているため疲れは感じているものの、いつも感じている程度といった感じだ。
唯一慣れていないものとすれば容赦のない顔面パンチくらいだ。
「先輩、普段から運動ってする方ですか?」
「それがあんまりする方じゃないんだよね。体力テストとか学年最下位スレスレだったし」
「うわあ」
そんな先輩からしたら今日の訓練はまさに地獄だったことだろう。
「先輩も容赦なく殴られてましたもんね。メガネ外してて正解でしたね」
メガネをかけたままの訓練だった場合、幾つの替えを用意していたらいいのかわからない。
「先輩のちなみに先輩の能力ってなんでしたっけ?」
「私のは飛行だよ。ただ空を飛ぶだけ」
「飛行ですか。そうなると俺の分身同様、応用ききづらいですね」
「そうなんだよねー、そこがちょっと悩みでさ」
古矢さんは能力を応用する術を身につけろと言った。
確かに応用すれば戦いかたの幅が広がるしその分有利に戦うことも可能になるだろう。
しかし俺や先輩のように応用がききづらい能力になると難しい話だ。
「信くんの分身って、何か特性とかないの?」
「ないですね」
俺の分身はいつだって俺と全く同じ性能を有するものだ。
なのでまあ、簡単に言えば有象無象が束になってもと言った感じなのである。
数の利なんて言葉もあるけれど、戦車に蟻が束になってかかっても大砲を使うことなく丸ごと引き潰されて終わりだろ。
俺が今のところ一気に出すことができる分身の数は十体だ。
本体である俺を数に加えれば十一人で束になれる。
蹂躙確定だろうなこれは。
「困っちゃったね」
「困っちゃいました」
状況はほぼ詰み。
今の状態で行くなら今のところ俺自身の性能を上げれば分身の性能も上がる。
これはすでに実験済みなのだ。
「でも俺が強く慣れば分身も強くなるので、これは結構いい線行けると思いますよ」
「というと?」
「まあ夢のまた夢の話になりますけど、俺が古矢さんに勝てるようになったら、数の利が活きます」
「それは本当にすごいけど……」
いやわかってます。
「まあ無理ですけどね」
軽く笑いながら食事を進めていく。
俺と先輩はその後も面白い話をしながら夕食を終えた。
お皿は二人で洗い大方やることが済んだ俺たちは流れでココアでも飲みながら各々ゆったりしていた。
「信くん」
「はい?」
突然名前を呼ばれ少し驚きながら反応する。
先輩はかなり真面目な表情で俺のことを見ているので、これから始まる話はさっきまでとは違って本気の話なのだろうと思い気を引き締める。
「あの、今日私がここに来た理由なんだけどね。お礼が言いたかったの」
「お礼……、ですか?」
なんのお礼だろうと思いながら聞いてみる。
「あの、あの時、私が薬物の被害に遭いそうになった時に助けてくれたお礼、ちゃんと言ってないから」
ああ、なんだ。
そんなことのために今日は夕食を振舞ってくれたのか。
わざわざ俺の好物を確認してまで。
「ありがとう」
先輩は俺に対して頭を下げた。
それに驚きすぎてつい飛び上がってしまう。
「先輩、やめてください!あれは別に特別なことなんかじゃないですよ!ただ自分の趣味でやったみたいなところもありますし」
「それでも助けてくれたから、ちゃんとお礼言わないと」
「え、ええっと……」
とにかく反応に困る。
「なんか照れます」
「そうだね」
顔を赤くしながら先輩はメガネをいじいじ。
かわいいなこの人。
まじでかわいい。
危うく鈍器の出番が来るところだった。
「えっと、じゃあ私そろそろ帰るね」
と、先輩は立ち上がって玄関に向かっていった。
「え、あの」
「じゃ、じゃあ、その、ありがとね!」
「いやそれはこっちのセリフって、先輩!?」
先輩は俺の返しを待つことなく部屋を出ていってしまった。
本当に気まずかったんだろうな。
ちょっと無理してたのかもな。
6月29日 木曜日
目が覚める。
いつも通りの朝だが、気分は非常に良い。
昨日は俺の部屋に先輩が来て夕食を振舞ってくれた。
そして夕食を共にしたのだ。
なんとテンションの上がることだろう。
「…………?」
今更だが、俺は何を楽しんでいるんだろうか。
この感じは昨日からだ。
妙にテンションが上がってずっと楽しんでいた。
なんでそういう風に感じてしまっているんだろうか。
つい最近まで名前も知らなかったような一つ年上の先輩相手に。
「なんだろうな」
何か特別な思い入れでもあるのかもしれないが、あまり心当たりはない。
「変だな〜」
とはいえ深くは考えない。
きっと友達が増えたみたいに感じているんだろう。
俺はベッドから立ち上がって制服に着替える。
朝ごはんも済ませて、荷物を確認する。
そういえば、最近はすっかり覆面を持ち歩くことがなくなった。
二次元サークルとしての活動をしなくなったからだな。
ていうか、結局覆面をつけたところで意味がなかったことに悲しみを感じる。
まさか腕時計でバレるなんて思わないじゃないか。
「これからはちょっと気をつけたほうがいいかもな」
母さんがくれた手作りの腕時計。
形は円形で、通常はアナグロ式だが、操作をすると表面のフィルターがモニターになって何やら数字が映し出されるようになっている。
俺はこの数字がなんなのかいまだに理解できずにいる、というかなんなのか考えてこなかったというべきか。
一定時間ごとに音を発して何かを伝えてくる。
その度に自動で数字が映し出されていたな。
増える数字の最大値は100。
おそらく音の間隔も100だ。
数字がトータルで100増えるたびに音は俺に報告してくる。
しかしなぜか定期的に数字が減ったりもしている。
「……………………、いや待てよ」
これって考えるまでもなく単純な仕組みじゃないのか?
今まで考えてこなかった、気にしてこなかったこの数字の正体。
俺は設定で時計をモニター状態に固定する。
映し出された数字は赤い文字で100。
これ以上は増えないという最大値を示す色。
その状態で、俺は試しに分身を一人出してみる。
すると。
「やっぱりか」
数字が100から99に減った。
なんでこんなのに今まで気づかなかったのか。
この腕時計は俺が現在連続で出すことができる分身の数を示しているのだ。
現状、俺はこの数字が増えるのを待たずとも連続で100体までなら分身を出すことができる。
「すごいな母さん。こんなのどうやって作ったんだ?」
いや待てよ。
もしかすると100以上にもなるのか?
計測できるのは100までで本当はもっと貯められている?
「ま、それも含めて今日の訓練実験してみればいっか」
今予想をしておくのも悪くはないが、結局は実験してみないと本当のところはわからない。
この時計について考えるのは後にして、今はいつも通りの普通の生活をするとしよう。
外に出ると、すでにいつものメンバーと、加えて稲葉先輩も待っていた。
「あ、おはようございます。先輩」
「うん、おはよう。あの、ご一緒してもいい?みんなと一緒に学校に行きたくて」
「構いませんよ。な?」
「「「異議な〜し」」」
景たちさんにんは声を揃えて俺に同意した。
それに笑顔で「ありがとう」と先輩が言ったのを合図に、俺たちは登校を開始した。
学校までずいぶん近づいてきた。
同じ学校の生徒の姿も多く見えるようになったことで、少々騒がしくなってきた感じがある。
「ねえ信、今日の期末考査って、古典あるじゃん。できる?」
横から距離を詰めてきた巴がどうかと聞いてくる。
さりげなく流してはいたが、実は一昨日から期末考査が始まっている。
初日はサボってしまったので俺はその分の追試が確定しているが、今回は成績が悪かったものに対しての追試があったかどうか。
「俺ができるわけないだろ。テストなんて全部捨ててるっての」
さすがに高校生活始まって初めてのテストで赤点は取りたくはないが、まあいけるだろうと完全に舐め切っている俺である。
いやまあ、それ以外にも、今の俺には少し気になっていることがある。
「なあ巴、ちょっと聞きたいことがあるんだけどさ」
少し声を小さくして巴に声をかける。
「なになに?」
「昨日、先輩と姫の先輩についての話をしたんだけどさ、その時の先輩の様子がどうにもおかしかったんだよ」
「えっ」
おいお前もかよ。
「なんでそんな反応するんだよ。さては何か知ってんな?」
「いや、知らない。私は何も知らない。何も関係ない」
そう言って巴は美濃にしがみついて俺から逃げた。
「なんだどうした?痴漢か?」
景がそう言うと稲葉先輩が俺に勢いよく視線を向けてきた。
「信くん?」
「いやしてませんよ!風評被害です!」
俺が痴漢なんてするわけないだろと大声で抗議する。
「じゃあ何したんだよ。巴がお前から逃げるなんて痴漢したとしか」
「お前余計なこと言うな」
こいつが喋ると事態が悪化してしまう。
「違うよそうじゃなくて、俺はただ、稲葉先輩と姫乃先輩の間に何かあったんじゃないかって聞いただけだよ」
「「「「………………………」」」」
この場の空気が凍りつく。
全員が、全力で俺から目を背けている。
「え、ちょっ……」
まさかだよ?
まさかとは思うけど、俺が何か関係しているのか?
「先輩……?」
やはり目を合わせない。
ちょっとやめてよ怖いって。
「なになになになに何したんですか!!!!????」
まじで怖い。
俺は先輩の肩を掴んでぐんぐん揺さぶる。
その間も何やら気まずそうにしながら俺と目を合わせない。
だ、だめだ。
おそらくここでどれだけ問い詰めても誰も口を割ろうとはしないだろう。
こうなったら学校に行って自分で確かめるしかないか。
いやだ。
今すごく学校に行きたくなくなった。
二次元サークル シオノコンブ @390790
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。二次元サークルの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます