第5話 『マドンナ』
今日、信じた友達に裏切られた。
青と白のカプセル剤のような薬を飲まされそうになった。
けれど、それは覆面を被った不審者のような人によって阻止された。
声からして男性だとは思う。
顔が見えなかったからいったい彼が何者だったのかはわからなかったけれども、大体予測はできる。
あの時、警察に渡す証拠品とする薬が入った瓶を手渡された時、袖が少し捲れ、その腕につけているものがチラリと見えた。
一瞬だったから確証はないけれど、見間違うようなものでもなかった。
「………あの腕時計」
あれは信くんのものだった。
彼自身が言っていた。
あの腕時計はこの世に一つしか存在していないものだと。
それなら、あの覆面を被った誰かは信くんだと思っていいはずだ。
それに手掛かりは他にもある。
「うん。こういうのは本人に直接聞くのがいいよね」
なんにせよ、また信くんと話す機会を得ることができたのだ。
とにかく今はやりたいと思うことが多い。
「また明日もがんばろ」
明日のことを思い描きながら、私はゆっくりと眠りについた。
6月19日 月曜日
朝起きて、最初に思ったことは一つ。
「昨日のこと、大丈夫だよな?」
顔は見られていないし服装から身柄が特定されることもないだろうと思うところではあるが、何か自分でも気づいていないような痕跡を残していないかと心配になってきた。
それが何かはわからないからこそ怖い。
もしバレたらどうなるんだろう。
今までの行動も全部バレて、警察に捕まってしまったりするのだろうか?
二次被害で景たちが逮捕されるなんて事態になったりするのか?
いや本当に怖い。
あまりの怖さに体が震えてくる。
しかしまあ今更怖がってしまっても仕方のないことだ。
もうやってしまったものは仕様がなし。
気にしても時間は巻き戻せないのだ。
もし全員捕まったら頭を下げよう。
そうだよ。
ていうかそもそも俺は悪いことはしていない。
もしあの場に俺が駆けつけなかったら稲葉先輩がどんな怖い目に遭っていたか。
「そうだよ。なんも怖がることなんかないじゃんか」
例え捕まったとしても胸を張ろう。
景たちがどんな反応をするかは予想がつかないが、それを考えると恐怖心が湧き上がってくるのでやめておこう。
「とにかく学校に行かなきゃ。また前みたいに走りたくはないし」
準備を終えて外に出ると既に三人とも揃っていた。
「あ、おっせーよ信」
三人が集まっているところに近づいていくと、俺の姿に気づいた景が大きな声を上げた。
「悪かったよ。ていうかお前ら早くないか?」
いつもなら俺が一番乗りなのに今日は俺が最後だった。
こんなに珍しいこともあるのか。
なんて考えていたら、急に肩を落とした美濃がボソボソと呟き始めた。
「休日が明けるって思うと、なんかいつもよりも早く起きちゃった」
学校嫌いすぎるだろこいつ。
何かトラウマでもあるのかよ。
「私も」
「右に同じ」
あれ、俺がおかしいのか?
俺もそこそこ恐怖はあったけど普通に寝たぞ。
「そうか。お前ら大変だったんだな」
なんて言ったらいいか分からず適当に言葉を返しておいた。
「まあ、もう行くか。前みたいに朝から走って疲れるのは嫌だし」
そう言うと、三人は力のこもっていない声で「はーい」と言って歩き出した。
やっぱり俺おかしいのか。
今日の学校までの道のりも穏やかなものだった。
走りもしなかったし、ゆっくり買い物もできたし。
もう最高だ。
このまま1日ずっと穏やかな一日であることを望む。
「あ?なんか校門の周り、人が多いな」
「え?」
そうか?と思いよく見てみると、たしかに人が集まっていることが確認できた。
「また稲葉先輩と姫乃先輩が話してるんじゃないの?」
「あー、なるほどな」
あまりにも納得がいきすぎる推測だ。
俺は気にしないようにしながら校門に近づいていく。
自ずと稲葉先輩と姫乃先輩の姿も見えてきた。
しかし、二人を見て俺は少しおかしいなと思った。
様子にそれほど変わりはなかった。
二人が話しているところは毎朝見ているし。
姫乃先輩は朝の登校時を狙って稲葉先輩に話しかけているみたいだから、いやでも視界に入ってしまうのだが。
おかしいと思ったのは二人が話している場所だ。
さっき景が言ったときは気にしなかったが、二人は校門の前にいる。
いつもは校門を潜った先で話しているのに、なんであんなところで話して、いや、なんであんなところで稲葉先輩は姫乃先輩に話しかけられたのだろう。
疑問には思うがよくわからない。
わからないことはいくら考えてもわからないし、俺は気にしなくてもいいだろう。
と、俺たち四人が二人の先輩の前を通り過ぎようとしたところで。
「あ、信くん!」
突然名前を呼ばれて思わず足を止めてしまった。
それと同時に稲葉先輩と姫乃先輩の周りにいた人たちのざわめきも一気に静まり返った。
なんで今。
俺呼ばれたよな?
信くんって俺のことだよな?
名前が同じなだけの別の人を呼んだのか?
いやきっとそうだ。
俺は関係ない。
そう信じて再び歩き出そうとした瞬間。
「羽宮信くん!」
やっば。
まじか俺だわ。
稲葉先輩は俺の名前を呼んでいる。
フルネームで呼びかけられては無視はできない。
景たちもなにが起こっているのかさっぱりな様子で俺と稲葉先輩を交互に見ている。
そんな目で見られても困る。
俺だってわからないんだこの状況。
「えっと、凛、あの人知り合いか?」
姫乃先輩が沈黙の空気を破って稲葉先輩に質問する。
しかし稲葉先輩は途端に挙動不審になりだした。
「あ、いやその………、あの」
本人ですらどうしたらいいかわからないというような感じだ。
なんでそんな状況で俺に声をかけたんだこの人は。
「し、知り合い、だよ。先週ちょっとだけ話したの」
それが精一杯だったのか、稲葉先輩は逃げるように姫乃先輩から遠ざかっていき、俺の方へと駆け寄ってきた。
「お、おはよう。信くん」
緊張しているのか、少し声が小さい。
「えっと、あの、おはようございます」
これが正解だろうと思い俺は挨拶を返す。
すると稲葉先輩は少し気まずそうにしながらも嬉しいのか微笑んだ。
「おはよう」
今度は元気のいい声で挨拶をしてきた。
それには流石に困惑して挨拶を返せなかった。
「ねえ信くん、今日の昼休み、一緒にご飯食べない?できれば二人で」
「「はい?」」
俺と同時に、遠くで見ている姫乃先輩も声をあげていた。
そりゃそうだろう。
混乱しすぎて俺もオドオドしてしまったいる。
周りを見渡せば全員が俺を見ているし、景も美濃も巴も目を丸くして俺を見ている。
その気持ちわかりすぎてやばいよ。
「えっと、二人でですか?」
「うん」
「本気で言ってます?」
「うん!」
さっきまでの挙動不審ぶりからは考えられないほどに元気のいい返事。
雰囲気までもがさっきとは別物だ。
「稲葉先輩、なんで俺とそんなことを?」
話したことがろくにない俺と昼食を共にするなんて理解に苦しむ。
「そりゃ、信くんと話したいから」
「話したいからって、俺と食べるなら友達と………」
なんて言ったところで口を閉じた。
そういえばこの前、友達はいない的なことを話したっけ。
稲葉先輩もそれを訴えるように悲しそうに微笑んだ。
いやすみません。
悪気はなかったんですよ本当に。
「ん〜、まあ」
いつも昼食は景たちと共にしている。
しかし、それは友達だからということもあるが、他に一緒に昼食をとる相手がいないからというのもあるにはある。
だから、彼女の誘いを断る理由はなかった。
「大丈夫ですよ」
と答えた。
少し周りの視線が気になるが、まあいいだろう。
いちいち気にするのも面倒になってきたし。
「一緒に食べましょう。二人で」
俺も笑顔で返しておく。
すると稲葉先輩は本当に嬉しそうな満面の笑みで「うん!」と言うとその場で三度ほど兎のように飛び跳ねて校門を潜っていった。
ちなみに姫乃先輩のことは眼中になかったようだ。
いったいなぜ彼女があんなことを言い出したのか理解はできなかったが断る理由はなかった。
それに、彼女に昼食を共にしようと言われて嬉しく思う自分もいたりしたのだ。
「これはだいぶ当てられてるな、俺」
そう自覚できてしまうほどに気分が上がっている。
「ね、ねえ信くん。あれどう言うこと?」
美濃が目を丸くしながら尋ねてきた。
さっきと表情が全く変わっていない。
「どう言うことって、まあ見たまんまだろ」
稲葉先輩が有名なのは先週聞かされて理解している。
しかしそれでも、どれだけ有名でも彼女も一人の人間だ。
相手が誰であろうと普通に誰かと一緒に昼食をとることもあるだろう。
「何もおかしいことなんかないだろ?稲葉先輩だって普通の高校生なんだから」
「信、今のはそう言うことじゃないと思うぞ」
「………?じゃあどう言うことなんだ?」
景が俺の回答が正確ではないことを指摘したが、それならばどう言うことなのか俺には理解できない。
「美濃が聞いてるのは、なんでお前が稲葉先輩とご飯を食べるくらい仲良くなってるのかって話だ」
「それは…………」
と、答えようとして途中で言葉を詰まらせた。
そういえばなぜだろうか。
さっきまで気にしていた疑問が再び頭によぎる。
俺は稲葉先輩と全く面識がないと言うわけではないが、それでもないと言っても過言ではないくらいだ。
縁があったとすれば一昨日の出来事だが、あれはお互いのことに気づいているのは俺だけで稲葉先輩は俺のことには気づいていないはずだ。
だとすれば彼女が俺を昼食に誘う理由がわからない。
覆面を被っていたから顔も見られていないはずだし。
「そういえばなんでかな」
自分でも自覚がないことを伝えると、景たちは「は〜?」と言って首を傾げた。
誘われた俺本人を含めたこの場にいる全員、今の状況を完全には理解できていなかった。
「あ、ねえ信くん」
頭を抱えていると、俺の肩をトントンと叩いて小さな声で巴が囁いてきた。
なんだろうと思い巴を見ると何かを見ているようだったのでそちらに視線を移すと、そこにはこちらに近づいてくる姫乃先輩がいた。
「これやばいんじゃない?」
美濃は俺に警告を促す。
俺以外は稲葉先輩と姫乃先輩が付き合っていないという真実を知らない。
そんな人たちにとっては、この状況が修羅場のように映っているのだろう。
「君、名前はなんて言うのかな?」
俺の前にたった姫乃先輩は俺に名前を尋ねてきた。
「羽宮信です」
それに素直に答えておく。
周りのざわつきは気にしないようにしよう。
「凛とはどういう関係なのかな?」
穏やかな笑顔、と言うふうには見えない。
明らかに嫉妬が混じった圧を感じる。
彼女でもない女が他の男と食事を一緒にするという事実を受け止め難いのだろう。
こちらとしては全くもって知ったことではないが。
「どういう関係かと言われても、ちょっと答えづらいんです。強いて言うなら同じ学校に通ってる先輩後輩の関係ですかね」
誰がなんと言おうと本当にそれだけなので正直に答える。
しかし俺の答えが気に入らなかったのか姫乃先輩の圧が少し強まった。
「それだけなのかい?」
どれだけ強い圧をかけられようとそれだけなのだからそれ以外に答えようがない。
「それだけです」
「それだけとはとても思えないんだけどね。昼食を二人きりで食べようなんて、何かあるとしか思えないよ」
随分と大胆に探りを入れてくるなこの人。
俺と稲葉先輩の関係を疑わしく思う気持ちはわからなくはない。
しかし。
「あの、ちょっと失礼かもしれないんですけど、それって姫乃先輩に関係あるんですか?」
俺の発言に驚きを隠せない周りの野次馬がざわつく。
しかし今の俺はそれが全く気にならなかった。
「どう言うことかな?」
「どう言うって、姫乃先輩と稲葉先輩は学年とクラスが同じってだけの赤の他人じゃないですか。稲葉先輩が誰とどう言う関係で、誰と昼食を共にしても、それって赤の他人である姫乃先輩には無関係な気がしてならないんです」
正直、イラついていた。
どこまでも彼氏面を続けるこの男の態度が終始鼻につく。
そのせいで、稲葉先輩がどんな気持ちを抱いているかってことも考えもしないで。
「俺と凛が無関係だって?」
「はい。ああ、もちろん噂のことは知ってます。でもそれってあくまで噂ですから」
そう。
あくまで噂。
稲葉先輩の話によれば姫乃先輩は稲葉先輩との関係について明言はしていない。
適当にはぐらかしてそれっぽい雰囲気を作っているだけ。
だから、ここで俺に稲葉先輩との関係について問われてもはぐらかすことしかできない上に、俺に二人の関係は無関係だと言われても否定はできず、これもまた通りはぐらかすことしかできない。
「まあ、別に無関係ってわけでもないぞ。確かに俺と凛が付き合ってるって言うのはただの噂だけど、俺とあいつは友達だからな」
うまい返しだ。
稲葉先輩とは無関係ではないと明言しながら、付き合っているのかどうかに関してはただの噂と言っただけで真実はどうなのか明言しなかった。
しかし相手がはぐらかすことしかできない以上、常に優位に立っているのは俺の方だ。
「友達が変な男に引っ掛かったみたいなことなってないか、心配にもなるだろ?」
「ご心配は無用ですよ。俺は別に下心があって稲葉先輩と関わりを持っているわけじゃありません。それに、あなたみたいな中途半端なこともしないので」
俺の返しに姫乃先輩は言葉を詰まらせた。
俺が何を知っているのか、瞬時に理解しての反応だろう。
「そんなに不安なら稲葉先輩本人に聞いてみたらいいじゃないですか。俺に聞くよりもよっぽど信用があるでしょう?」
「………………………………」
返す言葉を失ったのか、姫乃先輩は黙り出す。
俺の言葉には何も返さず、ただ俺のことを見ている。
「じゃあ、その、俺はこれで」
そろそろこの場から離れていいだろうと思い彼の横を横切ろうとすると、その瞬間に胸ぐらを掴まれた。
周りも、それをすぐ近くで見ていた景たち三人も驚いて駆け寄ろうとするが、俺をそれを手で制した。
「いいかい?この際君が彼女とどう言う関係かは知らないし、俺は興味もない。でもね、もし君が彼女のことを泣かせるようなことがあれば、ただじゃ置かないからな」
どこまでも彼氏面。
やっぱりこいつ嫌いだ。
「おいあの人か、稲葉先輩を姫乃先輩から略奪ってしたって奴」
「元々姫乃先輩は稲葉先輩と付き合ってなかったって話も………」
「…………寝取られ?」
全く本当にしょうもないことである。
流石に寝取られ発言を聞いた時は大声で反論しそうになった。
まあ驚きのあまり噂してたやつを見てしまった上に目が合ったので気まずくなったのだが。
噂をたてるにしても寝取られはひどい。
なんてことを景たちに話したら大笑いされた。
「笑い事じゃねえよ」
「いや笑い事だろ!信が人の彼女を寝取るとか作り話にしても面白すぎる!」
こいつ面白がってやがる。
一方美濃と巴はずっとニヤニヤして何か言いたげな表情だ。
言いたいことはわかる。
わかるからなんでニヤニヤしてるのかは聞かない。
「あんなに人が多い場所でああいうことするから噂が立つんだよお前は」
景はお腹を抱えながら地面にうずくまる。
そこまで笑われるとちょっとイラッとくる。
「ついさっきの話なのに有名になってるよ。信くんの名前と、クラスまでバレちゃって」
「ああ、だから」
さっきから廊下に人がたくさんいると思ったらそういうことか。
「なんでこんなことで」
「そりゃ、学校のマドンナを略奪した男ってレッテルが貼られてるからね。一部では姫乃先輩と稲葉先輩は元々付き合ってなかったって言う人もいるけど」
主な噂は略奪の方か。
やはり誤解はさらなる誤解を生んでしまうか。
俺には全く身に覚えがなくとも関係ないのだろう。
「…………でさ」
ようやく笑いが収まった景は涙を拭きながら話を切り出してきた。
「お前、本当に今から行くのかよ」
現在は昼休み。
稲葉先輩との約束の時間である。
「行くに決まってんだろ」
「この状況で行けるなんて神経図太いなお前」
「周りの人が勝手に広めてる噂と稲葉先輩との約束は関係ないしな」
それに、ここで先輩との約束を破ったりしたら傷つけてしまうこと間違いなしだ。
そんなことはしたくない。
俺は朝コンビニで買ったサンドウィッチとカフェオレが入った袋を持って景たちに別れを告げ………。
「あれ、そういえば」
どこに行けばいいんだ?
朝の稲葉先輩との会話を思い出す。
あの時はたしか、昼食を一緒に食べる約束をして、それから。
「マジかよ」
これは失敗だ。
どこで待ち合わせるかについては一切話をしていなかった。
「どうしたの?」
美濃が俺に言葉をかけた。
「いやその、そういえばどこで食べるのかについてはまったく話をしてなかったなと思って」
「ん?」
俺の言っていることが理解できなかったのか美濃は首を傾げた。
別に難しいことは言っていないはずだが。
どう説明したものかと頭を悩ませていると美濃が当然のことを指摘するかのような調子で言った。
「それを今から決めるんでしょ?」
「いやだから、そもそも待ち合わせ場所を決めてないから稲葉先輩に会うこと自体困難なわけで」
「え?稲葉先輩なら廊下にいるじゃん」
それを聞いた時、俺は全身の血の気が引くような感覚に襲われた。
まさか、まさかだよ。
今廊下にある人集り。
あれは俺のことを噂していることによるものではないのか。
俺は慌てて教室の中から廊下をそっと覗き込んでみる。
するとそこには……。
「…………………………………」
綺麗すぎる佇まいで廊下に立つ女子生徒の姿があった。
その姿はただそこにあるのではなく、何かを待っているかのような雰囲気を漂わせている。
まあ、言うまでもなく稲葉先輩だった。
「なんでこんなことに」
なぜ稲葉先輩が一年生フロアにいるのだ。
うちの学校は本校舎が三階建てになっており、一階が一年生、二階が二年生、三階が三年生フロアという風に割り振られている。
そんな環境の中で、二年生が一年生フロアにいるというのはかなり異質なのだ。
それも、稲葉先輩ともなれば異質さは常軌を逸する。
「行ってやれよ信」
景が後ろから茶々を入れてきた。
「そんなに簡単に言うなよ。今のこの状況で行けると思うか?」
「行くしかないだろ」
まあそうなんだけどさ。
廊下には人がたくさんいるのにも関わらず、稲葉先輩の周りだけ人がいないから気まずい。
「はあ………」
そんなこと言ってもられないかと自分に言い聞かせる。
このまま俺が行かなければ稲葉先輩はずっとあそこで注目の的にされ続けるのだから。
俺は静かに廊下に出て、人混みをかき分けて稲葉先輩に近づいていく。
すると、途中で近づいてくる俺に気づいた稲葉先輩はにっこりと笑って手を大きく振ってきた。
「信くん、こっちこっち」
少し大きめの声で俺に呼びかける。
それによって俺の周りからも人がいなくなり始めた。
歩きやすくなったのは嬉しいけどそんなあからさまに避けなくてもいいじゃないですか。
「先輩すみません。お待たせしてしまって」
気まずさを押し殺して声をかけると稲葉先輩は首を横に振った。
「ううん。全然待ってないよ。まあ、少しは待ったけどね。五分くらい」
と冗談めかしたつもりかもしれないが今はその冗談に付き合う余裕がなかった。
「そうなんですね。とりあえず行きましょう先輩。なんかここにいると息が詰まりそうです」
「あ、私も同じこと考えてた。さっさと適当な場所見つけよっか」
そう言った稲葉先輩は俺の腕を掴んでズンズン進み始めた。
「ちょっ、ちょっと先輩!?」
この状況でこの行動はやばいって。
うわ周りからの視線が痛い。
しかし俺には抵抗することなどできず、ただただされるがままに本校舎を出て行った。
「ここで食べよっか」
稲葉先輩が移動した場所は体育館裏だった。
体育館裏の出入り口は地面よりも少し高い位置にあり、それに合わせるように三段の階段がある。
その階段に腰掛けた稲葉先輩は自分の横に手を置いてそこに座るように俺に促した。
「じゃあ、失礼します」
俺は遠慮なく先輩の隣に座って、コンビニのレジ袋の中からサンドウィッチとカフェオレを取り出した。
先輩も弁当箱の蓋を開けてすでに食事を開始した。
俺は黙々と昼ごはんのサンドウィッチを食べる。
……………………………………………………………。
ん〜。
話すことがない。
先輩後輩という間柄であることもあり本当に気まずい。
こういう時はどういうことを話せばいいのだろう。
美濃とか巴と話す時はどうしてるっけ?
「先輩、その弁当って先輩の手作りなんですか?」
「そうだよ。結構上手くできてるでしょ?」
そうれはもう、本当に美味しそうだ。
しかしだ。
「弁当、大変じゃないですか?朝起きるのとかも早かったり」
「そりゃ大変だけど、苦ではないよ。個人的に料理は好きだから飽きることもないし」
弁当づくりは俺も試みたことがないわけではない。
しかし俺には弁当を作る時間を作ることができなかった。
結果朝の登校時間にコンビニに寄って昼食を確保するというのが日課になった。
「俺には真似できそうにないですね」
「そう?なんなら私が作ってあげようか?」
「はい?」
なんだろう。
前話した時はこんな感じではなかったような気がするのだが。
なんだか先輩がグイグイ距離を詰めてきているような気がする。
「いえ、いいですよ。先輩の弁当を食べてみたい気持ちはありますけど、迷惑はかけられないですし」
「別に私は迷惑だなんて思わないよ?」
「迷惑ではないとしても、俺の気持ちの問題でもあるので」
先輩がどれだけ迷惑がっていなかったとしても、俺の中には申し訳なさが発生する。
その状態で気持ちよく先輩が作ってくれた弁当を食べられるかと言われるとそうではない。
それはあまりにも勿体無いだろう。
一旦会話が途切れ、沈黙が流れる。
またもや気まずさが襲ってきたのでそれを誤魔化すようにカフェオレを飲む。
次にサンドウィッチを食べてまたカフェオレを飲む。
そして。
その俺の一挙一動を稲葉先輩はじっと見つめていた。
な、なんだか視線が。
じっと見られると気になって仕様がない。
「あの、どうかしました?」
たまらずそう尋ねてみると、稲葉先輩は視線を逸らして弁当を食べ始めた。
結局視線の意味はなんだったのか分からずじまいになった。
しつこく訪れる気まずい空気。
先輩と昼食を共にできるのは素直に嬉しい気持ちもあるが、やはり厳しいこともあるな。
もうこうなったら、一番話したいことを話してしまおう。
「あの、先輩」
「ん?」
ちょうど唐揚げを齧っているタイミングで話しかけてしまった。
稲葉先輩は急いで唐揚げを飲み込んで改めて返事をした。
「どうしたの?」
「先輩は、どうして今日俺をこの場に誘ったんですか?」
どうしても理由がわからない。
俺と稲葉先輩は別に友達というわけではない。
なんならそこまで仲がいい間柄というわけでもなければ、普通に会話ができるレベルの間柄ですらない。
そんな俺にどうして稲葉先輩は誘いを出したのかわからない。
「あ〜、それは、その」
なんだろう。
急に歯切れが悪くなった先輩は弁当を食べる手を止めた。
何か深い理由でもあるのかもしれない。
俺も一度サンドウィッチを食べる手を止めた。
「お礼が言いたかったの」
「お礼?」
なんのお礼だ?
心当たりがあるとすれば、まあ先週の土曜日のことだが、あれは違うと考えていいはずだ。
先輩はあの覆面の正体が俺だとは気づいているはずがないからだ。
しかし。
「うん。信くん、先週の土曜日に、私のこと助けてくれたよね?怖い人たちから」
俺の予想は、前提から覆された。
「え…………と……?」
なぜバレた?
なんで気づいている?
俺は覆面を被っていたし、正体が俺であると気づくヒントなんて。
「…………」
そこまで考えて俺はあるものの存在に注目した。
それは、この世に唯一俺しか持っていない腕時計。
俺はあの時腕時計をつけていた。
「あの時は覆面を被ってたから、手がかりは少ないけど、その腕時計は信くんしか持ってないものだもん」
「……………………」
腕時計に関する話はもう先輩にしてしまっている。
となれば俺があの覆面の正体であることはすぐに予想がついただろう。
そして、この状況になってはもう逃れようがない。
「まあその、なんていうか」
どんな言葉を並べたところで無駄なのであれば正直に言うしかない。
「はい。そうです。土曜日、の時の覆面は俺です」
正直に言うと稲葉先輩は「やっぱり」と得意げな顔で呟いた。
この場に誘われたのはこのことが理由だったのか。
それなら合点がいく。
「そのために今日は俺を誘ったんですか」
「まあね。助けてもらったんだし、お礼くらいは言わないと」
別にそんな必要はないのに。
というかそれだけならあそこまで大胆な誘い方はできれば控えてほしかった。
あれではまるでわざと大勢の前で俺に誘いを出したかのような感じに見える。
「それに、もう一度君と話したかったから」
「はい?」
話したかった?
まだ何かあるのだろうか。
「あ、そんな真面目な話とかじゃなくてね、その、ちょっとした世間話程度のことを話したいだけなの。好きな食べ物は何かとか、最近あった面白い出来事とか」
それはまるで友達同士がするかのような普通の会話だった。
本当にそのためだけに俺を?
「あの時ね、ちょっと言うのは恥ずかしいんだけど、もう一度信くんに会いたいなって思ったの。なんでもいい。もう一度話したいなって、あの時思ったから」
そんなことを言う彼女の表情は、なんというか。
とても説明しづらい。
まるで、何かに恋心を抱いているかのような、そんな。
「っ……………」
やばい。
なんか顔が暑くなってきた。
今絶対俺の顔赤い。
慌てて自分の顔を隠し、顔を逸らす。
今の俺の顔を彼女に見られるのは気恥ずかしかった。
「どうしたの?」
きょとんとした表情で俺の顔を覗き込もうとしてくる稲葉先輩。
俺はそんな先輩から顔を逃す。
「もう、困った後輩くんだねえ!」
先輩の楽しそうな声と同時に顔を掴まれ、グリッという効果音が似合いそうな勢いで顔を向けられる。
すると。
「っ…………」
俺の今の表情を見た稲葉先輩も途端に顔を赤くした。
意外と距離が近い。
あと少し顔を突き出せばぶつかってしまいそうなほどの距離。
そんな状態でお互いの恥ずかしい顔を至近距離で見つめ合い、今度は同時に顔を逸らした。
「ご、ごめんね。首痛かった?」
「い、いえいえ!大丈夫です。全然痛くありません」
それ以上なんて言ったらいいのかわからず俺は再びサンドウィッチを食べる。
それが最後の一口だったみたいで、俺は残っているカフェオレを飲み干す。
先輩も弁当に手をつけるが、その中には何も入っていなかった。
どうやらすでに食べ終わっていたらしい。
お互いに逃げ道を失った俺と先輩はどうしていいかわからずそわそわしてしまう。
すると。
「だからね!」
突然の大きな声に驚きビクッとする。
ゆっくりと視線を先輩に向ける。
先輩は下を向いたから表情は見えなかったが、その耳は真っ赤に染まっていた。
「信くんともっと話したいから、どっかに遊びに行かない?」
「ちょっと待ってくださいね」
ちょっと落ち着こう。
まずは深呼吸。
そして頭をフル回転だ。
まずは情報の整理から。
稲葉先輩は俺と普通の世間話がしたい。
そのために、俺とどこかに遊びにいく?
「それはあれですか、俺と二人で的なやつですか?」
恐る恐る聞いてみると先輩はこくりと頷いた。
まじかよ。
それってあれか?
見方によってはデートというふうに考えることもできるわけで。
「まあ、二人で行きたいなって思ってるよ」
先輩は相変わらず顔を上げずにいる。
その反応から、この誘いに嘘偽りは存在しないのだろうなとわかる。
「じゃ、じゃあ二人で行っちゃいますか?」
俺がそう言うと、先輩は顔をあげて俺の方を向いた。
俺の答えが意外だったのか、目を丸くしながら。
「なんですかその顔は」
「いや、断られると思ったから」
「え、なんでですか?」
稲葉先輩に二人で遊びに行こうと言われて断る人が果たしているのだろうか。
学校のマドンナからの遊びの誘いなんて、それこそ一生ないかもしれない体験だというのに。
「だって、朝は私に話しかけられていやそうだったから」
そんなにいやそうにしてたかなと思い朝のやり取りを思い出す。
まあたしかにちょっと微妙な反応を見せていたかもしれないがそれは別に稲葉先輩に話しかけれたことが嫌だったわけではないのだが。
「違うんです。今朝はその、大勢の前で大胆に話しかけられたので、周りの視線が気になって」
しかも目の前には姫乃先輩もいた。
あの状況では、たとえ誰であろうが動揺するだろう。
「ああ、そっか。ごめんね。迷惑だったよね」
しまった。
訂正したらしたで先輩を傷つけてしまった。
「いやあの、迷惑でもないんです。稲葉先輩がどうこうってわけじゃなくて、周りが変な目で見てきたから、それが気になっただけで、本当にそれだけなので」
必死に先輩を傷つけない説明を試みる。
いや実際、本当に稲葉先輩は何も悪くない。
悪いのは周りで野次馬決め込んでいた奴らと姫乃先輩だ。
稲葉先輩じゃない。
「じゃあ、私に話しかけられても全然迷惑じゃないんだね」
「そりゃもう。むしろ嬉しかったまでありますし」
少し嬉しそうに微笑んだ稲葉先輩の表情を確認して俺は安心した。
下手したらこのままずっと話しかけられなくなるんじゃないかと心配していたところだ。
「じゃ、じゃあ、デっ………、お出かけの日にち、今週の土曜日とかどう?」
今なんだか気になりすぎる言い間違いをした気がするが、気にせず話を進めよう。
「俺は全然大丈夫です」
そう返事をすると、あまりにも良すぎるタイミングで昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
俺はゴミを袋の中に詰め、先輩は弁当箱を弁当袋の中に戻して立ち上がった。
「じゃあその、細かいことはまた後から決めよう。だから、その………」
急に口ごもり始めた先輩は俯いてもじもじしている。
なんだろう。
俯いてしまうのは癖なのだろうか。
「えっと、先輩?」
急かすようで悪い気がしたがもう昼休みの終わりを告げるチャイムはなった。
あと五分で掃除の時間が始まるのであまりのんびりはしていられないのだが。
とか考えてそわそわしていると、先輩はスカートから携帯を取り出して前に突き出す。
「連絡先、交換してくれない?」
「は、はい。そうですね。いろいろ話し合うなら連絡先を交換してた方が楽ですしね」
と、普通に「はい」と言えばいいものをわけのわからない言い訳を並べながら俺もズボンのポケットから携帯を取り出した。
お互いにメールアドレスと電話番号を携帯に打ち込んで登録する。
これで先輩といつでもやり取りをすることができるようになったわけである。
なんだか嬉しいな。
「ありがとう。何かあるときはメールか電話するね」
「わかりました。いつでも連絡をください」
そうして、俺たちはそれぞれのクラスへと帰っていった。
途中で何人もの生徒に注目されたりしたが、それがあまり気にならないほどに、俺は昼休みに感じた幸福感の余韻に浸っていた。
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