第3話 『噂』

稲葉凛は姫乃怜と付き合っている。


こんな噂が流れていることは知っていた。


姫乃くんはとても容姿が優れているし、勉強の成績もいい。


でも、私が彼と付き合うことなんてあり得ない。

だって私は彼のことが別に好きではない。


一度同じクラスの生徒に直接聞かれたことがある。

その時、私は当然姫乃くんと付き合っているという噂に関して否定した。

しかしそのクラスメイトの反応はというと。


『またまた〜。照れなくても知ってるよ〜?』


面倒だと思った。

私の言葉を信じる気がないのならはじめからそんなくだらない質問をしないでほしいと思った。


そして姫乃くんの反応といえば。


『う〜ん、さあ、どうだろうね?』


その答えを聞いた女の子たちはきゃあきゃあと黄色い声を上げた。


私は恋愛に関しては疎い方だと思う。


それでも、さすがに姫乃くんの気持ちには薄々気づいていた。


噂がたってから、姫乃くんが私に話しかけてくる機会が急に増えた。

それもわざわざ人が多い場所で話しかけてくる。


そんなことをしたら、周りがどんな反応を示すかはわかっていたはずなのに。


そうして、私と姫乃くんが付き合っているという噂は事実として学校中に広まった。

そして私は思ったのだ。


ああ、もう、面倒くさいな。

私は恋愛自体を面倒くさく感じるようになった。


だから私は男子から距離を置くことにした。

そうすれば男子と話す機会も減るし、変な噂も立ちずらくなるだろうと思ったから。


いいや、男子だけじゃない。

私の周りにいる全ての生徒から距離を置くようになった。


そうすれば、面倒な目に合わなくて済むと思ったから。


そして私は友達という存在を失ってしまった。

私は同じ学校の生徒と話すことがなくなった。


彼の時計を、拾うまでは。





六月十五日 木曜日


「なあ信、今日の体育サボらね?」


そう言い出したのは景だった。

体育服に着替えている最中だった俺は少し驚いて景に質問を返す。


「どうした急に」


見た感じ、景は学校行事には割と真面目に取り組む方だと思っていた。

しかしそんな景から、俺からすれば意外な発言、『サボる』。


驚きを隠せない。


「だってお前さ、今日もバレーだぜ?」

「あ〜なるほど」


『バレー』と言われて景が何が言いたいのか即座に理解した。


これは文化祭前に行われていた体育の授業に話が遡る。


文化祭前で微妙に使うことができる体育の時間が余ったことに頭を悩ませた先生は、文化祭が終わるまでは体育の授業ではバレーをすると言い出した。

男女で分かれて行われた授業、とはいえ、それぞれのクラスで自由にバレーをする時間だった。


当然クラス内で話し合いが行われる。

すると、うちのクラスで独裁者と言われている男がチームを勝手に一人で決めた上に自分が参加するチームが競技をする時間だけ長く設定し、他のチームがバレーをすることができる時間を短くしたのだ。


これについてクラス内で軽く喧嘩が起き、以来クラス内の一部の男子は密かにギスギスしている。

そのギスギスしている男子のうちの一人が景である。


景は時間を短くされたチームに入らされていたのだ。

そうなれば、今日のバレーの授業はサボりたいという気持ちはわかる。


「まあ気持ちは分からんでもない」

「だろお!?」


景の意見に同意すると食い気味で反応された。


「でも授業をサボるのは印象悪くないか?」


普通に成績にも関わる問題になるだろうし。

サボるのはできればやりたくない。


「いやいや俺もさすがに無断で授業に参加しないなんてことは考えてないよ」

「じゃああれか。体調不良でも使って休むのか?」

「そうだ。言いに行けば怖くない!」


それ嘘だってバレないか?


いらない嘘をつくとバレた後が面倒臭いんだが。


「四人同時にそういうこと言うと怪しまれないか?」

「たとえ嘘だとバレたとしても向こうには断定することなんかできないよ」


まあ確かにその通りだけど。


なんだか気が引けるな。


というかこいつさっきから気になることを言っている。


「お前、にって、もしかして巴と美濃も巻き込む気か?」

「当たり前だろ」


当たり前じゃない。


独裁者が独裁ぶりを発揮しているのは男子の間だけであって女子は全く被害を喰らっていない。


巴や美濃がサボろうとする理由はないと思うが。


「なんか誘ってみたらノリノリだった」


あ、そうか。

普通にサボりたいのか。


「う〜ん………」


少し悩むな。


四人一緒ならサボるのもいいかもしれないとか思ってしまう自分が少し怖い。


でもやっぱり。


表向きには俺の体調不良が嘘だと断定できないとしても、心のうちではよく思われない。


それは今後に関わる問題にもなるはずだ。


「やっぱり印象悪いよ」

「まあそう言うなよ。授業をサボって学校を徘徊するのも悪くないだろ?」


ま、まあ、それは悪くない。


正直気乗りはしないが、そう言うのも青春って感じでテンションあがる。


「でも、サボってどこに行くんだよ。俺たちが体育館を離れたとしても、校舎内の教室では普通に授業してるんだぞ。廊下を通るどころか、これじゃ校舎に入ることもできねえ」

「じゃあ校舎の中に入らなければいいだろ」


簡単に言うなこいつ。


「だから、校舎に入らないならどこに行くんだって話だよ。校舎から丸見えのグラウンドには当然いけないし、他の場所に行ったとしても先生に見つかるかもしれないだろ」


先生はどこにでもいると思ったほうがいい。

割と色んな場所に徘徊しているし、どこにいても不思議じゃない。


「そこはやっぱり、俺が愛用してる隠れ家だろ」





「へえ、弓道場ってこんな感じなんだね」


中に入るなり弓道場の中を見てテンションを上げる巴がはしゃぎ始めた。


「おいおい、あんまり騒ぐなよ。道具を壊されでもしたらたまったもんじゃない」


さすがに焦った景が巴の動きを止めてその場に座らせた。

景はその隣に座ったので俺は景の前に座り、美濃は俺の隣に座った。


「こんなふうに神様の前でくつろいでると、バチが当たりそうだな」


俺は神棚を指差しながら冗談混じりに言うと、景が冗談抜きでバチが当たると言って俺の指差しをやめさせた。


やはり元弓道部なだけあって厳しいな。


「景は中学の頃は弓道部に入ってたんだよな」

「ああ、そうだな」

「なんで高校では入らなかったんだ?それどころか帰宅部になっちまって」


高校で部活をしているのとしていないのでは大違いなはずだ。


まだ二年先の話だが、入試では大きなアドバンテージになるだろうし。


「まあ、面倒くさくてさ。中学の頃もかなり面倒だったから、引退した時にもうやらないって心に決めたんだ」


それは随分と勿体無いことをしたな。

俺は弓道経験がないのでよく分からないが、聞いた話によると他校でも有名になるくらい実力があったとか。


「苦痛ってわけでもなかったんだろ?」


面倒だったとはいえ、きっと楽しい記憶だってあるはずだ。

それだったら普通は高校でも続けたいと思いそうなものだが。


「苦痛じゃなかったよ。いい後輩にもいい先輩にも恵まれて幸せで楽しかった」

「でもめんどかった?」

「そう。めんどかった」


楽しい記憶よりも、面倒くさいと感じた記憶が景に決断を下させてしまったらしい。


俺としては本当に勿体無いと思う限りだ。


「どういうところが面倒くさかったの?」


美濃が景に問いかけた。


「だって考えてみろよ。帰宅部と部活に入ってる人とじゃ帰る時間がおよそ二時間も違うんだぞ」


美濃に言っていることだが、横で聞いている俺も頭の中で想像してみる。


部活の練習中。

そんな中で、校門を潜って帰宅していく生徒の姿が目に映る。


「たしかに」

「俺たちが部活で頑張って練習してる時にも、友達や彼氏彼女と一緒に遊びに行ったりしてる奴がいるんだって考えたらさ、自分だってそうしたいと思うだろ」


それを聞いた俺はあまり共感することはできなかった。


俺は友達と遊ぶことにあまり拘りはないし、交際にも興味はない。

むしろ日常生活では一人ぼっちを好む方だ。


しかし。


「やばいその気持ちめちゃくちゃわかる」

「だろ!?」

「うん!」


巴にはひどく共感できたらしい。


お互いの気持ちが共鳴したことを感じた二人はお互いの手を握り出した。


「ほら分かるやつには分かるんだよ!」


と、食い気味で俺と美濃に言うが。


「俺にはわかんね」

「右に同じ」


俺にも美濃にも理解できる話ではなかった。


「お前らは中学の頃から部活の経験がないから分からないんだよ」

「それもそうか」


やはり経験の差は関係しているだろう。

中学の頃帰宅部だった俺と美濃に、部活に入っていた者の気持ちが理解できるはずがない。


「それにさ景、部内恋愛とかなかった?」

「ああ、あったあった」


また新たな共感ポイントを見つけたらしい景は腕を組んで大きく頷き出した。


「なんだ?部内恋愛にも嫌な思い出があんのかよ」

「あるよ。あるある。例えばだ信」

「お、おう」

「付き合ってるカップルが、いつもベタベタにくっついていちゃついてたとする」


その光景を想像してみるがあまり何も思うところはないな。


と言うか、俺はいちゃついているカップルを見るのが好きだったりするのでテンションが上がる。


「んで、そいつらが別れて、部内に重い雰囲気を撒き散らすんだ」

「ほうほう」


再び想像力を働かせてみる。


まず思い浮かぶのはギスギスしたカップル。

何があったのかわからないが、何かしらあったのだろうと悟った周りはどんな行動をとるか。


当然気を使う。

今以上に部内の雰囲気を悪くさせないために働きかけるだろう。


その光景はまさしく。


「地獄だな」

「だろ?」


もう最悪だわ。

カップルは好きだけどそういう現場には絶対に立ち会いたくない。

多分俺なら部活を休んで帰ることだろう。


「私は違うわ」


話を聞いていた巴が暗い表情で声を上げた。


「お、巴はまた違うトラウマがあんのか?」

「私の部活でカップルが誕生したのは、ちょうど私が彼氏と別れた頃だったわ」


それを聞いた瞬間に全てを察した。


最悪のタイミング。


強制恋愛クールタイムに入っている時期に身近な人同士が付き合いカップル誕生。

目の前でいちゃつかれたら呪いたくなること間違いなしだ。


「あ、お前彼氏いたんだ」


景は空気が読めないらしい。


「別れたけどね……」


悲しそうな顔。


なんかこっちまで悲しくなってきたよ。


「傷抉るなよ景」


景に声をかけると景はキョトンとし始めた。


「え、今の俺か?俺なのか?」

「お前だろ」


どう考えてもお前だ。


「どんな彼氏だったんだ?」

「お前は空気が読めないのか」


まあ知っていたことであるけど。


今の会話の流れで巴に元カレのことを聞くなんてどうかしてるぞ。


「私の元カレ、まあかっこよかったし、これと言って問題が起こったわけでもなかったんだけど……」


俯く巴の目元から涙が落ちるのが見えた。

ちょっと重い空気になったことで息が詰まりそうな俺は必死で平静を装っている。


「ま、色々あったの」


これは多分聞いちゃダメなやつだな。

ていうかもう我慢できない。


これ以上この空気が続くと俺はこの場から逃げ出してしまいそうだ。


話題を別の人間に振ろう。


「景は彼女とかいたことないのか?」


これが一番自然流れだろう。

俺は同じ質問を景に投げた。


「ないな。できれば欲しいもんだけどな」


おお、これは意外だ。

景はわりかし目立つ方で、いわゆる陽キャの部類に入る方だと思う。

交友関係も広いのでそこそこ人脈があるが、彼女はいたことがないようだ。


好きな人はいたが交際とまではいかなかった。


もしくは好きな人はおらず、全員をただの友達としてしか見ていなかった、あるいは見られていなかった。


「好きな人もいたことない口ぶりか」

「それはお互い様じゃねえのか?」

「言い返せねえな」


俺に関しては好きな人以前に女友達がほぼいない。


中学の頃から友達といえる女子は巴と美濃くらいで、二人以外とはほとんど交流がない。


そもそも俺は友達が少ないのだ。


コミュ力がないわけではないが、周りを一切気にせず自分のことに集中する生活を送っていたらいつのまにか巴と美濃以外友達がいなくなっていた。


「あれ、信くん好きな人いないの?」


美濃が不思議そうな表情で聞いてきた。


「いないな」


と、短く返すと何やら悩み出した様子の美濃。

なんだろうと思っていると。


「てっきり私は稲葉先輩にのぼせてるのかと思ったけど」


いったいこいつは何を言ってるんだ?


「美濃、お前俺のどんなところを見てそう思ったわけ?」


俺は稲葉先輩のことは存在自体今日初めて知ったのだ。


かなりの有名人らしいが俺は知らなかったし。

そんな人を好きになるわけないだろうに。


「だって、今朝は稲葉先輩のことじっと見つめてたし」


そんなに見ていない。


「変な言いがかりつけるなよ。そんなこと言ったら、あの場にいた全員が稲葉先輩に好意を寄せてるってことになるぞ?」

「いやいや、信くんが稲葉先輩のことをずっと見てたっていうのが問題なの」

「はあ?」


少し、いや大分理解に苦しむ。


「あの女の子にまったく興味がない信くんが、あんな瞳で女の子を見るなんて」


あんなってどんな瞳だよ。


別に変わった見方はしていなかったつもりなのだが。


「大袈裟に考えすぎだ」

「でも確かに、信が女子を気にするなんて普通じゃないな」

「景まで何を言い出すんだよ。俺は別に稲葉先輩を気にしてなんかない」


なんだか話がややこしい展開になってきた。


「いやとてもそんなふうには見えなかった。好きな人に彼氏がいた時の悲しそうな顔だった」


こいつは何を根拠にこんなふざけたことを言ってるんだ。


初めて存在を知った女子に彼氏がいたからと言って悲しくなったりはしない。

それに、あの時俺が見ていたのはどちらかと言うと稲葉先輩ではないのだ。


「あのな。あの時俺は、どっちかっていうと姫乃先輩の方を気にしてたんだよ」

「え、じゃあ何?信は男の子に恋するタイプ」


めんどくせえなこいつら本当に。

「俺が姫乃先輩を気にしたのは、稲葉先輩と姫乃先輩が付き合ってるとは思えなかったからだよ」

「え、何それ」


またもや不思議そうな表情の美濃。

こいつは今朝も二人の様子を見て何もおかしいとは思わなかったのだろうか。


「あの二人が付き合ってるのは楠木高校の常識と言ってもいいぐらいに有名な話だよ。それがデマだなんて」

「でもよ、今朝の二人の様子見たろ?特に稲葉先輩」

「どんなだったっけ?」


稲葉先輩はあの時姫乃先輩の顔を一度も見ようとしなかった。


ずっと地面を見て、視線を上げないようにしていたのだ。


「姫乃先輩が一方的に話してるだけで、稲葉先輩は俯いて返事をしてるだけだったろ」


あれはとても付き合っているようには見えなかった。


「言われてみりゃそうだったけど、大勢人がいたから照れたんじゃね?」


そう考えることもできなくはないが別の考え方ができないわけでもない。


「にしても照れ方がおかしいだろ。俺には姫乃先輩が適当にあしらわれてるように見えた」

「そんな感じだったか?」

「俺の目に狂いはなかったはず。多分………」


あんまり自信はないけど、あれはカップルではないだろう。


「信の言うことはあまり信用ないから、気にしなくていいでしょ」


その一言で巴は俺の話を一蹴しようとする。しかしこの話を終わらせるわけにはいかない。


この話が終わるとまた俺の恋バナに話題が戻りそうだ。


「なんの根拠もない噂の方が信用ないだろ」


噂は大体、人から人へ伝わっていくごとに話が大袈裟になっていくものだ。


もしかすると、この噂は最初は『稲葉凛と姫乃怜がいい感じ』程度の噂だったかもしれない。


しかしそれが人から人へ伝わっていくごとに大袈裟になり、いつの間にか『稲葉凛と姫乃怜が付き合っている』と言う噂に変わったという話もあり得る。


「それがまったく信用がないってわけでもないんだよ」


景がニヤニヤしながら俺の推理を覆す一言を出した。


「どういうこと?」

「何人かの女子生徒に姫乃先輩が囲まれて問い詰められてるところを見たことがあるんだけどよ」

「ほう、それで?」

「その時姫乃先輩は、否定するでも肯定するでもなく、『どうでしょうね』なんて曖昧な答えを出してたんだよ」


いやそれも全然信用ないだろ。

つまりは答えをわざと濁したということだ。


なんだか彼氏面をしているうざい奴の匂いだ。


「それはもう付き合ってるでしょ!」


どうしてこうこいつらは恋愛方向に話を持っていくのだろうか。


「答えを濁しちゃうなんて、それはもう肯定と受け取られても文句言えないでしょ!」


美濃までテンションマックスではしゃぎ始めた。


こんなに盛り上がっているところ本当に申し訳ないが、俺はやっぱりあの二人が付き合ってるとは思えない。


噂があるとしても、納得がいかない。


「まあ別に、俺が気にすることじゃないか」


というかもう考えるのが面倒になってきた。

そう思い、それ以上考えるのはやめにした。





体育の授業終わり、教室に戻った俺と景は着替えを行なっていた。


昼休みなので時間はたっぷりあるが、あまりのんびりしすぎると今度は弁当を食べる時間がなくなる。


というわけで俺は少し急いで着替えている。


「おいおい景、お前さっきの授業どこ行ってたんだよ」


まだ着替えている最中の景にクラスメイトが話しかけた。

俺は話したことがないので名前はわからない。


「授業サボって弓道場に行ってたんだ」

「またかよ。お前よくあそこ行ってるよな」


よく行ってんのかよあいつ。

だからあそこには先生が来ないと自信たっぷりに言えたわけだ。


「あれ?」


着替えが終わり、体育服をカバンの中に戻したところで異変に気づいた。


俺はカバンの中を漁り、手に違和感が出ないことを確認して机の中を見てみる。


「やべえ、ない」


ない。

ないないないないないないない。


軽くパニックを起こしていると着替え終わって教室に戻ってきた美濃が俺の異変に気づいて近づいてきた。


「信、どうしたの」


そう言って心配している美濃に、俺は大声で答える。


「腕時計がない!!!」





「あれ、これは……」


いつも通り一人になれる場所でお弁当を食べようと校舎から出た。

すると校舎から体育館に続く渡り廊下で地面に落ちている腕時計を見つけた。


「腕時計……」


誰のかな?

地面から拾い上げて部分を見てみるが、これと言って目印っぽいものはない。


「これ、落とした人は見ればわかるかな?」


何か特徴があるわけでもない時計に見えるけど、何か違和感を感じるようなデザイン。


こんな時計見たことない。

うーん、これどうしたらいいのかな?

聞き回って目立つのも嫌だし。


「あれ、稲葉。どうかしたか?」


そうして、一人でどうしたらいいかわからずに混乱しているところに姫乃くんが通りかかった。


「姫乃くん……」


一瞬彼に腕時計のことを任せようかと思ったが、人に押し付けてはいけないと思ってやめた。


それに彼とはあまり接点を持ちたくはない。


「その腕時計がどうかしたのか?」


私が持っている腕時計が目に入ったらしい。


「これは私のだよ。どこかに落としてたけど、たまたま見つけたの」


この誤魔化しでいいだろうか。

最近の彼は妙によく話しかけてくるのでちょっと引いている。


前はそうでもなかったのにも関わらず噂が立ち始めてからは酷くなり続けているのだ。


「そっか。なんか困ってることがあったら言ってくれな」

「うん」


多分言うことはないだろうけど。


「この腕時計、誰のかな?」


私の前から去っていった姫乃くんはいいとしても、この腕時計に関する解決策が浮かばない。


「あ、それ!」


先生に届けようと考え始めたところで大きな声が聞こえた。


驚きすぎて思わず声が出そうになった。

声が聞こえた方に視線を向けるとそこには見覚えがない男子生徒がいた。


「えっと、これもしかして君の?」


あまりにもじっと腕時計を見ているものだからもしかするとと思って聞いてみると男子生徒は頷いた。


「はい、それ俺のなんです」

「どこかに目印でもあるの?」


もしこれが彼のではなかったら問題なりそうなので一応聞いてみると。


「目印っていうか、それ、母の手作りなので、一目見ればわかるんです」

「え、これ手作り!?」


なんとも衝撃の事実だった。

まさかの手作り。


「はい。母さんが高校入学前にプレゼントしてくれた、この世に一つしかない腕時計です」

「ほえ〜」


じっと時計を見つめる。

たしかにこんな腕時計は見覚えがないなとは思ったけど、それは私が腕時計に関する知識を持っていないからだと勝手に納得していた。


しかし本当に他にはどこにも存在しない腕時計だったとは。


「それ、どこにあったんですか?」

「ここに落ちてたよ。今拾ったところだったの」

「あーすみません迷惑かけちゃって」


迷惑だなんてそんなことは全くない。

むしろ他人の役に立てたことに少し喜びを感じている。


「いや、別に迷惑ってほどじゃないから大丈夫」


そう言って私は彼に腕時計を返した。





いや本当によかった。

もしもこの人が俺の腕時計を拾ってくれていなかったらどうなっていたか分かったものではない。


「さっきの時間体育だったんですけど、多分移動中に落としちゃったんですね」


弓道場で話していた時はあったから、おそらく教室に戻る途中で落としてしまったのだろう。


本当に危なっかしい限りだ。


「気をつけないとね」


どこかで見た気がしなくもない女子生徒は優しく微笑みながら注意を促した。


「本当にありがとうございます」


お礼を言って腕時計を受け取った俺は腕にはめて今度からは落とさないように気をつけようと心に決める。


「では、俺はこ…………」


「これで失礼します」と言って教室の戻ろうとした瞬間、ようやく思い出した。

目の前にいる女子生徒の顔、どこかで見たことがあるような気がしていたのだがようやく思い出した。


しかしやはり自分の記憶に自信がなかったので失礼ながら聞いてみることにした。


「あの、もしかして稲葉先輩ですか?」


今朝、一瞬だけ顔を見ただけだった。

それでも今日の出来事の中では印象深い方だったので少しだけ細かい部分まで記憶にある。


その中に、彼女の顔があった。


「ああ、まあ、うん……」


少し暗くなった声が返ってきた。


俯いてしまったところを見てもやはりこの質問はやめた方が良かったかもしれない。

稲葉先輩自身も自分が目立っていることは把握しているはずだ。


しかしここで会話を打ち切るとなんだか悪い印象を持たれそうなので会話を続けよう。


「やっぱりそうだったんですね。今朝は大変そうでしたね」

「え?」


意表をつかれたような表情になった稲葉先輩。


「いやあの、大勢に囲まれて、あんなに目立って、俺なら耐えきれませんよ」


はっはっは、と笑うが稲葉先輩はちっとも笑っていない。

何か他に話題を考えた方がいいだろうか。

と、頭を回転させたところ。


「あ、そういえば……」


ある話題を思い出した。


今なら稲葉先輩と姫乃先輩の関係を聞けるのではないか?

いやしかし、そんなことを聞くのは失礼極まりない気もするし、この話題は彼女の気分を害してしまうかもしれない。


「そういえば、何?」


俺の小さな呟きがバッチリ耳に入っていたらしい稲葉先輩は俺の言いたいことを聞きたがっている。

今からやっぱりなんでもないですとは言えない状況になってしまった。


少し考え、まあ別にいいかという結論に至った。

もうこれきり話すこともないだろうし、今彼女に何を思われたところで大したダメージもないわけだし。


「あの、俺、稲葉先輩が姫乃先輩と付き合ってるって話を聞いたんです」


そう言うと稲葉先輩の表情が露骨に暗くなった。


やっぱりこの話題はやめておいた方がよかったか。


しかし今からでは逃げることはできない。


「あの、別に冷やかしたわけじゃないんです。ただその、確認がとりたくて」

「確認?」

「その、先輩と姫乃先輩が今朝話してるところをチラッと見かけたんです。その光景を見て周りは有名なカップルが話してるって騒いでたんですけど、俺にはそういう風には見えなかったっていうか……」


正しいかどうかわからない完全な個人的な気持ち。

しかし気になったので仕方がない。


噂を完全に信じきった人たちに相談するよりも、稲葉先輩本人に直接聞いた方がどう考えても確実だ。


「……………?」


しかし、稲葉先輩からの返事がない。


いつまでも黙って俺を見ているだけで何も話そうとしない稲葉先輩を前に俺はだんだんと混乱してくる。


「そのですね、俺は、お二人が本当に付き合っているのかわからなくて、稲葉先輩に確認を取りたいというか……」


もしかすると質問の意味が伝わらなかったのかもしれないと思い今度は内容を簡潔にまとめて質問する。


だがやはり俺の顔をじっと見るだけで返事は返ってこない。

気まずくて何も言えない俺だったが、ずっと待っているとようやく稲葉先輩が発言を始めた。


「君はどう思うの?」


これは、素直に言ってもいいのだろうか。


まあ下手に気を使う必要はないだろうし、ここは素直に正直に答えておこう。


「俺個人の考えとしては、お二人が付き合ってるとは思えないです」


だって、あれは誰が見てもカップルには見えなかったはずだ。

みんなはあの時の稲葉先輩の態度を照れ隠しと認識したらしいが、俺から言わせればただ迷惑がっていただけだ。


「…………………。そんなこと言う人初めて」

「え?」


さっきまでの暗そうな声から一変した明るい静かな声に驚いた。


「今まで話した人は、みんな私と姫乃くんが付き合ってると信じて疑ってなかったみたいだったけど、君は違うんだ」


その笑顔を見て少しドキッとした。


や、やばいなんか言葉を返さないと。


「いやその、実際のところはどうかわかりませんけど、今朝お二人が話しているところをみる限り、本当にカップルには見えなかったんです」

「そんなこと言っちゃって、本当に付き合ってたら怒られちゃうよ」

「それそうですけど………って。本当に付き合ってたらって………?」


今の発言では、まるで。


「君の予想通り、私と姫乃くんは付き合ってないよ」


やっぱりそうだったのか。

おかしいと思ったんだ俺は。


「やっぱりそうでしたか。ですよね」

「君鋭いね」

「鋭くなんかありませんよ。周りの奴らが盲目すぎるんです」


本当に周りの奴らの目を疑う。

あれを見てどうして二人が付き合ってるなんて思えるのか理解に苦しむ。


「確かにそうだね」

「あの、先輩は噂のこと知ってるんですよね?」

「私と姫乃くんが付き合ってるって噂でしょ?当然知ってるよ」


そりゃ知らないわけないか。

そういえば景はその件について稲葉先輩が質問責めにあっている現場に立ち会ったと言っていたな。


「周りの人に対して、違うって言わないんですか?」


質問に答えるだけではなく、きちんと『違う』と公言したことはないのだろうか。


「最初のうちは言ってたんだけど、そのうちめんどくさくなっちゃって」


経験したことはないがなんだか気持ちが伝わってくる。


恋愛に関する冷やかしというのは本当に面倒臭いものなのだろう。

別の誰かが冷やかされている現場を見たときに心から思ったのだ。


「みんな噂に流されて、否定しても信じてくれないってところですかね?」

「そんなところ。最初の頃、いろんな友達が私に噂について聞いてきた。でも信じてもらえないってわかった時に、なんかめんどくさくなって、以来その友達とは話してない」


話していない、というのは縁を切ったということか?

それは少々やりすぎな気がしなくもない。


「距離を置いたんですか」

「その人たちだけじゃない。私の周りにいる人全員から私は距離を置いたよ。でも姫乃くんだけは私と会話をしようとする」


なんだか魂胆が透けて見えるな。


「噂を無かったことにしないためでしょうね」


俺がそう口にすると稲葉先輩は小さく頷いた。


「私もそう思う。今では私と話すのは………じゃなくて、私に話しかけるのは彼だけだから、前よりも噂は事実として取り扱われてる」


それは景たちを見れば尚更わかることだ。

新入生の間でも常識として知られるほどに有名になってしまった噂は、もはや消すことはできないだろう。


「ほんと、迷惑な話だよ」


悲しそうな表情でそう言った稲葉先輩を見て俺まで悲しい気分になってきた。

こんな空気にしてしまった責任を取る必要があるな。


「本当に面倒くさそうですね。今友達とかいないんじゃないですか?」

「君、初対面の先輩に対してなかなか言うね」


やばいさらに彼女のストレスを溜めさせるような発言をしてしまった。


「すみません失言でした」


急いで謝るとさっきの怖そうな表情はどこへやら、彼女は声を抑えて笑い出した。


また少しドキッとした。


なんだか他のみんなが稲葉先輩は美人だと言っていたことに共感を覚えてきた。


「ありがとね。私の言葉を信じてくれて。おかげで少しだけ気が楽になったよ。名前は何て言うの?」

「羽宮信です」


俺が答えると「羽宮くんか………」と小さく呟いた稲葉先輩。


やばいなんか心臓がうるさくなってきた。


「私は稲葉凛。また話す機会があったらよろしくね、羽宮くん」


そう言って、彼女は俺の前から去って行った。


あれが有名な稲葉先輩か。


たしかにすごく可愛かった。

しかし彼女は噂のことで苦労し続けるんだろうななんて想像して、少し悲しい気持ちになった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る