餌食は

1.

 樹木や苔が生い茂る山道。人はおろか動物の姿も見られない、そんな寂しい場所に僕は佇んでいる。

 晴れ渡る空の陽光が木漏れ日となって辺りを照らし、景色に美しさを与えている。そんな明るい天気に対し、僕の心は暗く淀んでいた。

 目の前に聳え《そび》立つ樹木。その木の一番低い位置にある枝に、僕は手を少し伸ばして触れる。

「ちょうどいい高さかな」

 僕はそう呟くと、足元に置いたボストンバッグに視線を落とす。その場にしゃがみ、バッグのジッパーを横に引いていく。そして、中から束ねた白い縄を取り出すと、ゆっくりと立ち上がった。

 片方の先端には、すでに輪を作ってある。そうじゃない方を枝にひっかけ、緩まないように何回も硬く縛っていく。

 …準備は整った。あとは、この輪を首にかけ、地面から足を離すだけだ。

「…行くか」

 決心が付いた僕は輪を首にかけようとする…、その時だった。

「その自殺、ちょっと待ってくれませんか」

「っ!」

 背後からの声に驚いた僕は、瞬時に後ろを振り返る。そこには、髪が全て白く染まった老父が立っていた。

 人がよさそうなおじいちゃん。一目でそう感じたものの、不気味さもある。山道だというのに、白シャツに黒ベストとかしこまった格好でいるのが不自然に見えるからだ。

「…あなたは?」

 おそるおそる尋ねると、老人は微笑んで答える。

「驚かせてしまってすみません。私は、この山の麓にある喫茶店のオーナーです」

「喫茶店のオーナー?ここに来るまでに見なかったですけど」

「ふふふ、そうでしたか。まあ、死に向かう人の視野は狭いですから」

「…」

--何なんだ、こいつ。僕を止めに来たのか。

 老人の出現と振る舞いが僕を苛立たせる。

「…止めに来たんですか?だったら、無駄ですよ」

「まさか、そんなつもりで来たんじゃありませんよ」

「だったら、どういう…」

「店に来てください」

「は?」

 意味が分からなかった。そのまま呆然としていると、老人は柔和な表情で続ける。

「どうせ死ぬなら、最後に私の店に寄ってくださいな。そして、あなたの話を聞かせてください」

「…」

 僕は無言で縄を手放す。邪魔されたことで自殺する気力が削がれたというのもある。だが、それ以上に彼に対する興味の方が大きかったのだ。しばらくの間、誰とも会話していなかったせいかもしれない。



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