第7話 最期の別れ3
ここにきてから随分時間が経ったのだろう。
空はすっかり赤く染まり、周りもだんだんと薄暗くなってきた。
その中では、目の前の色とりどりの花たちが美しく咲き誇っている。
結局、家の中の部屋をくまなく探したが天使ちゃんは見つからなかった。
天使ちゃんがいる可能性がある場所の候補は残りあと一つ。
それが、今回の目的の場所であるこの花畑だった。
花畑はこの家の敷地の中で一番広い場所だ、と昔おばあちゃんから聞いたことがある。
その時に、なぜ花畑を自分の家に作ったのかを一度だけ聞いたことがある。だけどおばあちゃんは困った顔をしながらただ一言「約束だから」とごまかすだけだった。
結局、その理由は今に至るまで謎のままだ。
いざ花畑の中へ足を踏み入れると、さっそく桃色の牡丹の花々に出迎えられては自分の身体をすり抜けていった。やはり花々の美しさは健在で、少し嬉しさを覚えた。
きっとおばあちゃんがいなくなったあとも、おじいちゃんがずっと手入れしているのだろう。これだけ花がたくさん咲いていたら天使ちゃんはきっと大喜びしてくれるに違いない。
「天使ちゃーん! いるのー?」
とにかく暗くならないうちに天使ちゃんを見つけなければ。
暗くなってしまっては見つけるのも困難になってくる(見つけられなくてもささちゃんが見つけてくるだろうけど)。
必死に呼びかけながら天使ちゃんを探していると、ふと百メートルほど先に人影を見つけた。
しかもその人影は花畑の中で立ったまま、さっきから微動だにしない。
もしかしたら、迷子になってしまったことで泣いているかもしれない。
「天使ちゃーん!!」
声が届くようにさっきよりも大きな声で呼びかけてみる。が、やはり気づいていないのかこちらの方を向こうともせず、ぼーっと突っ立っているだけだ。
おかしい。
絶対天使ちゃんならこっちから呼んだ瞬間に「わぁーい!」とか言いながらこっちに突進してきそうなのに。
不思議に思いながらも、とりあえず人影の方へと進む。
でもなぜだろう。
人影に近づけば近づくほど天使ちゃんの体型とはほど遠くなっていく。
幼稚園児くらいの子供というよりは、その人影の体型は大人の女性の背格好なのだ。これで明らかに天使ちゃんではない可能性の方が高くなってきたのだが、果たしてこんなところに誰がくるのだろう。
もしかしたらさっきの高級車の持ち主とか?
人影との距離がもうそんなにないくらいに近づいたところで、その正体が一人の女性だったということが分かった。もしかしたら私たちと同類かと思ったが、どうやらそうではないようだった。足はちゃんと見えてるし、透けてもいない。
「っ!」
そして彼女がちゃんとした人間だと分かった瞬間、私はこの女性の正体が分かってしまった。
彼女との関係。
昔はとても大事だったような気がする。
でもある日を境にそんな関係はすぐになくなってしまった。
私が、なくしてしまった。
その日から私と彼女は生きているうちに会うことは一度もなかった。
これからもそうだろうと思っていた。
だからこれは何かの奇跡としかいいようがないだろう。
まさか、死んだあとになっての再会とは思わなかったけれど。
「母さん……」
母さんは、振り向かなかった。
この先も、母さんはきっと私の声に振り向くことはない。
なぜ母さんがここにいるのだろう。
髪もろくに整えておらず、服も寝間着のようなものを着ている。顔なんてほとんど化粧をしていない。身だしなみに人一倍うるさかった昔の母さんなら絶対にありあえない格好だ。
それがなぜ、こんな急いで出てきたような格好で、しかも一番行きたくないような場所に来ているのか?
疑問は次々と頭に浮かんでくるが、その答えを知ることはきっとないのだろう。
大っ嫌いだった母さん。
あの日、私を見捨てて私の全てをとった。
私から大事なものを取り上げた。
けれど本当は分かっている。
私が一番悪いってことを、辛くてもそうしなければいけなかったことを。
だけどどうしても許せなかった。憎かった。
そんな気持ちだけが今の今まで残り続けて、知らぬ間に一番大好きだった母は一番大嫌いな人になっていた。
「ごめんなさい」
ふいにつぶやかれたそんな言葉。
なんて弱々しい声だろう。
魂がないような、生気がないその声を発したのが母さんだと遅れて気づく。
なぜなら私が別れ際に聞いた母さんの声は、かつてないような大きな声だったからだ。
『二度と帰ってくるな!!』
その時の怒りに満ちた声と表情は、今でもすぐに頭の中で再生出来るほど、とても強烈なものだった。結果、その言葉通りに一度も実家には帰らなかった。
それなのに再会して最初に聞いた第一声がそれと全く反対のとても小さな声。
それも誰かへの謝罪。
こんな、今にも折れてしまいそうな母さんを私は見たことがなかった。
咄嗟に手をつなごうとして、すり抜けてしまう。
「ごめん……なさい……」
「分かってあげられなくて……あなたの大切なものを取り上げて……親失格で……!」
「ごめんなさいっ!」
母さんの頬に涙が伝う。そしてそれを皮切りに、母さんは泣き叫んだ。今までせき止めてきたものが一気に流れ出したかのように、その悲しい慟哭が響き渡る。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
罪人が許しを請うかのように、何度も何度も何度も謝罪の言葉が溢れ出す。
「美智子!!」
突然のことに立ちすくんでいると、何かが私の身体を素早くすり抜けていった。
「美智子! もういいんだ……!」
すり抜けたもの、それは一人の男性だった。
男性は母さんのもとへ近づき、そして抱きしめた。混乱状態だったのか最初は抱きしめられて暴れていた母さんも、落ち着いたのかだんだんと大人しくなり、泣き叫ぶのをやめた。
「行こう、お義父さんが待ってる」
「でもぉ……私行きたくない……合わせる顔なんてないっ」
「それでも俺達は親だ。今までどんなに責任のないことをしたとしても、受け入れなきゃいけない」
「…うぅ……」
「もうそんなに待たせられない。それに、ハルカが心配してる」
そうして母さんは男性に支えられながら、二人でおじいちゃんの家へとゆっくり歩き始めた。
私の身体を二人がすり抜けていって、だんだんと私から遠ざかっていく。
「母さん!!」
気づくと母さんの名を呼びながら走っていた。
聞こえるはずがない。
おじいちゃんだって気づかないものを母さんが気づくはずがない。
全くの無駄な行為に、冷静な自分が蔑む。
でも、今こうしないと、きっと後悔する。そんな気がしたのだ。
「待って! 母さんっ!!」
やっと母さんたちに追いついて足を止める。が、当然母さんたちは足を止めることはなくまた先へと進んでいく。
バカみたいだ、こんなことしたってもう何も伝えられない。意味がない。
母さんは生きていて、私は死んでいる。
追いついたところで何もできない。
天使ちゃんを探そう。
それが今、私がすべきことじゃないか。
『大丈夫、行きなさい』
ふと頭の中に誰かの声が聞こえて、誰かに背中を押された。
そして、ぎゅっと、
私は母さんの手を握っていた。
しっかり握っている感覚がある。生きていた頃の、あの暖かい手――ぬくもりを感じる。
透けているわけではない。ちゃんと本当に握っている。
すると、母さんがはっとなって足を止めた。
「あなた……手を握っているの?」
「え?」
「……おかしいわ。誰かが手を握っている気がするの」
長い時間こうしていられないのは何となく分かっている。
だから、言いたいことは少しだけ。
生きているうちに言いそびれたたった少しのこと。
母さんが歩き出すその前に。
「私、母さんのこと大嫌いだったけど……でも」
「今まで、ありがとう」
握られている感覚がなくなったのか、母さんはまた歩き出した。私はその場に立ち止まって二人の背中を見送る。
もう私は母さんのことを追いかけることはない。
さようなら。
どうか、幸せでいてね。
そして――。
「おばあちゃん、ありがと」
今はもうここにいるか分からないおばあちゃんにお礼を言う。すると、それに答えるかのような一筋の優しい風が吹いた。
私と母さんの止まった時は動き出し、私の時だけがまた止まる。
日没を迎える前――そろそろささちゃんが迎えに来るだろうという頃合いで、ようやく天使ちゃんを見つけた。
「ああー! いたーっ!!」
私の姿を確認すると、天使ちゃんはこっちに向かって走ってきて、私の体に抱きついた。
天使ちゃんは花畑の隅っこの方にいた。
さっきのところよりもだいぶ外れの、しかもまだ花が咲いていないようなところである。どうりで花が咲いているようなところばかりを探していても見つけられないはずだ。
「それはこっちのセリフ。まったくもう、なんで勝手に行くの? この前言ったじゃない」
「えへへぇ。ちょっとねぇ」
結局、目標のにじの花畑をみることは叶わなかった。
天使ちゃんを探している間にも一応にじが咲いてないか探していたのだが、やはりそんな珍しい花は育てていないらしく……にじを見つけることはできなかった。
「ごめんね天使ちゃん。やっぱりここじゃあにじは咲いてないみたいなの」
やっぱり悲しがるかな。
こんな遠くまでやって来て「ないです」って言われれば私だって悲しい。天使ちゃんも納得しないだろう。
と思ったのだが、
「なんでぇ?」
天使ちゃんは不思議そうにそう言った。
「え?」と思わず聞き返すと
「ほら、ここっ!」
と、ぱあっと明るい笑顔で下にある地面を指さした。
――……あ!
天使ちゃんが指差す先には、あのにじが一輪だけ咲いていた。
花畑には程遠いが、逆に一輪だけ咲いているのが凛としているのをかもしだしている。それに花壇で見た時よりも美しい虹色になっている、気がする。
「きれいだねぇー」
「ほんとだ。でもどうして一輪だけ咲いてるんだろう?」
「んー、わかんない!」
そりゃ、そうだよね。
「でも、あと数年後には、ここもにじの花畑になってるかもね」
「えええええー!? すごぉーいっ!! みたあい!!」
「うん。私も見てみたいな」
でもこの願いはきっと叶わない。
明日になれば私はここから消え去る。
それでも、そう願わずにはいられなかった。
でも――。
「見にいけるよ」
きっぱりと、いや、断言に近い言い方で天使ちゃんは言い放った。
今まで聞いたことのない天使ちゃんの言い方に、思わずはっとなって天使ちゃんを見る。
しかし、いつもの天使ちゃんの姿と何ら変わりはなく、いつものようににこにこと花畑を見ていただけだった。
そういえば、なぜ私が花畑の場所を教えていないのにここに来れたのだろう。
もし迷いながらきていたのなら一度くらいはすれ違っていてもおかしくなさそうなのに、私が天使ちゃんを見つけた場所はここだ。
天使ちゃんも迷ったはずなら、そのことを言うのではないだろうか。
「ささちゃんがきたよぉ」
天使ちゃんの横顔は、いつの間にか暗闇で見えなくなっていた。
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