第2話 天使ちゃんの日常1
黒いゆがみのようなものをくぐった私と天使ちゃんは、しばらく真っ暗なゆがみの中をひたすら歩いていた。
足元もまったく見えず明かりの代わりも無いから、頼れるのはこの暗闇に慣れている天使ちゃんだけだ。
しかし手馴れているのか全く動揺せずにすたすたと歩く天使ちゃんと、恐くてずっと天使ちゃんの手を握っている図はなかなか変な感じである。しかも天使ちゃんに至っては満面の笑みだし。
そんなこんなで真っ暗な場所を歩き続けて三分程。
「あ! みえたあ」
と、天使ちゃんがおもむろに指を指した先にあったのは、またゆがみのようなものだった。
しかし、このゆがみはただ単に黒い歪みというわけではなく、ゆがみの中におぼろげに建物らしきものが映しだされているものだった。しかも、顔を近づけて建物を見てみるとどこかで見たようなビルが映っている。
「これって……」
考えている刹那。身体が急に何かで引っ張られるような感じと同時に白い光で包まれていた。
「ついたああっ!」
天使ちゃんの歓声と同時に目を開ける。目の前にあるのはゆがみの中の建物。
にわかに信じられないが、私は今ここにいる。
町の人の声、車の音、笑い声、日の光、青く広がる空、そこに浮かぶ雲の群れ。
何度も何度も来たことのある見慣れたこの景色は、生前に私が住んでいた所だった。
そうか、天使ちゃんが言っていた〈おそと〉とは現世のことだったのか。だけど、まさか天使ちゃんの言っていた〈おそと〉が私の住んでいる地域のことだったとは思わなかった。
天使ちゃんもこの場所で死んだのだろうか?
「だいじょうぶ?」
天使ちゃんが心配そうに聞く。
いけない、いけない。今は考えたらきりがない状況だった。
こういう状況こそ楽しむべき。
まずは散策をしてみることにしよう。
と思いきや「しゅっぱーつ!」と言って、いきなり走っていってしまったので、私はそれを追いかける形になった。
天使ちゃんは速かった。
いや、速いというか何というか、すばしっこいと言ったほうがいいかもしれない。私も長らくこの土地に住んでいるが、どうも私の知らない道を通っていく。
それを熟知している天使ちゃんは恐いものなどない、みたいにずんずん進んでいくが当然迷うのが恐い私はそのスピードに追いつけず迷いそうになる。「天使ちゃん歩こうよ」と言っても「はやくぅ」と返ってくるだけで呼びかけすら意味がない。
子供は元気すぎて困る。いや、天使ちゃんがおてんばなだけか。
追いかけて数分、ようやく道路にぶつかった。
横断歩道の信号は赤。
天使ちゃんを危うく見失いかけていたところに救いが……。
とおもいきや。なんと、天使ちゃんは車がびゅんびゅんと走っている道路を突っ切ろうとしている。ここで車にぶつかれば……この後どうなるかは誰だって想像がつく。
「危ないって! 天使ちゃん!」
時すでに遅し。そう叫んだときにはもう、車は天使ちゃんの目の前に。
……するり。
天使ちゃんは車を紙一重でかわした。
「あ……た、たすかった……」
ああ、よかった。ほんとによかった。間一髪とはまさにこのことだろう。
しかし、そんな私の気持ちを知ってか知らずか歩道の向こう側には天使ちゃんはきゃっきゃと笑っている。
もう怒った。
信号が青になると同時に天使ちゃんのもとへ直行する。そして、身体をくまなく見て傷がないことを確認して天使ちゃんの顔を睨む。
「もうなんで飛び出すの!? 車の前に飛び出したら危ないでしょ」
天使ちゃんは、なぜかきょとんとしている。本当に何で怒られているのか分かっていないのだろうか。
「えーなんでぇ。だーいじょーぶだってばぁ」
「大丈夫なわけない!! 危うく死ぬところだったんだよ!? どれだけ心配したか分かってんの!?」
「……だってぇ」
あ、しまった。天使ちゃんの顔が泣く一歩手前だ。怒りに湧いていた感情も、その顔を見るとだんだんと冷めていく。ちょっと怒りすぎたかもしれない。
「ご……ごめん! ちょっと言い過ぎた……かも」
慌ててなだめに入るも、俯いたまま「うぅ……」と項垂れるだけでなにも返事をしてくれない。自分のせいだとは分かっていても掛ける言葉が思いつかず、沈黙が続いた数分後。天使ちゃんの口がやっと開いた。
「だって、あぶなくないもん」
「え?」
「ぜんぶさわれないんだもん。すりぬけるんだもん」
「すりぬけるってそんなこと……あ!」
天使ちゃんのひと言ではっとなる。
そうだ……天使ちゃんも私も、ここにいるようでいない〈幽霊〉なのだ。だから天使ちゃんは車に轢かれることはない。ここにある物に触れることはできないのだから。
「……そっか、そうだよね。ごめんね、いきなり怒って」
「……もう、おこってない?」
「うん。今のは私も悪かったもの」
「ん……もういいよ。そんなにおこるなら、もうしない」
そして、私たちは天使ちゃんだけが知っている目的地に向かってまた歩き始めた。天使ちゃんはまだしょんぼりしているのか、まだ少し俯き加減でとぼとぼと歩いている。そんな天使ちゃんを見て私自身もしょんぼりしてしまう。
私は、幽霊になるということをちゃんと理解しなければいけないのかもしれない。幽霊の生活も、そして気持ちも。
こうして、お互い終始無言(時々、「こっちに右」とかのルート案内はあった)のまま何分か歩いていると大きな噴水が見えてきた。
入口のところには少しさびれた看板に「佐倉噴水公園」と書かれている。ちょうど休めそうな所もあるし「少し休憩しよう」と天使ちゃんに提案すると静かに首を縦に振った。
ベンチには座れないかもしれないと思い、とりあえず芝生の上に腰をかけてみる。すると疲労感にも似たような感覚が身体にドッときた。
幽霊なのだから疲労感など生じなさそうな感じだと思ったが、生きていた頃の感覚というのが残るのだろう。そういえば腰痛とか肩こりもあるような気がしてきた。
「噴水のところで遊ばなくていいの?」
私の隣に黙って座った天使ちゃんに尋ねる。するとこくりと頷いてからぽつりと話し始めた。
「いっつもねぇ、こうえんであそんでるからきょおはいいの」
よかった。口を聞いてくれたということは少し元気になってくれたのかもしれない。ほっとして「何で遊ぶの?」と聞いてからはっとした。天使ちゃんは幽霊だからきっと誰にも見えない。ということは声をかけても誰も反応するわけがないから、みんながわいわい遊んでる中で孤独に遊ぶしかできないのでは?
――――もしや、私はまた言ってはいけないことを……。
「ああ、別に答えなくてもいいっていうか! ただなにしてるのかききたいなあって」
平然を装いたいのに、これじゃあ慌ててるの丸わかりじゃないか。だめだなぁもう。
「うん! あのねぇ、ともだちとねぇいろいろするの!」
「そっかそっか、ともだちとねぇ。それはそれは……」
天使ちゃん、なんかすごく元気な感じになったなぁ。やっぱりそうだよねぇ。友達と遊ぶもんね。
……ともだち?
「あのねぇ、すぎのちゃんとーあとたまーにささちゃん! あとねえタマもときどきぃあそぶんだぁ」
「お友達と遊ぶの? お話とかできるの?」
「? あたりまえだよぉ。きょおもねぇ、すぎのちゃんとあそぶのぉ」
「具体的に何して遊ぶの?」
「いろいろ! あとでぇいっしょにあそぼうよぉ」
「……そうだね。こんど遊ぼうね」
お話できる、と言っているのだから天使ちゃんが一方的に話しかけてるわけじゃなさそうだ。少なくとも今の天使ちゃんから、無理をして楽しそうにしている感じはしない。隣でにこにこしながら座っているし。
ささちゃんは、あのささちゃんだとして、タマは多分猫。
ということは、天使ちゃんと遊んでる子はきっと〈すぎのちゃん〉という子。同じ幽霊だから遊んだり、話したりできるのかもしれないけど、もしかしたら俗に言う見える人とか?
信憑性はないけど小さい頃には、よくそういうのが見えるって言ってた子がいたような気がする。
――――やっぱり、私が幽霊の生活を理解するのは当分先なようだ。
ドクン。
「……?」
あれ、なんだろう。
ほんとにちょっとの間だったけど、変な違和感が。
「ねぇ、そろそろいこうよぉ」
いつのまにか座っていたはずの天使ちゃんは立っていて、
「うん」
さっき感じた違和感は、なくなっていた。
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