第5話
翌日天気は一転して曇り空となった。風も出てきた。部隊は砂丘の手前まで行進し、それから皆と離れボクと八田は丘の中腹まで歩く。寒い。足取りも重い。昨日までとは違うところに来たかのように、今日は砂までがボクらに纏わりつく。
「やれやれ。さっぱりしない天気だな」
八田が言った。そう言いつつも彼は現地に着くや否や手際良く準備に取り掛かる。今日の銃はいつものより銃身が短く、その代わり口径が見るからに大きい。「どうだ、動きはありそうか?」
「分かりません。でも、いると思います」
「どうして分かる?」
「只の勘です」
ボクは応える。
「勘か…。いや、それでいいんだ」
八田は手を休めずに言う。「俺もヤツの気配を感じる。ヤツもこちらを見ている」
「撃ってくるでしょうか?」
「どうかな。大体ヤツがどうして急に撃ってきたのか、釈然としない」
同感だ。
「八田さん。この戦争は何の為にあるんでしょうか?」
「何?」
「昨日からずっと一人で考えていたんです。まるでこの戦争は、ある約束のもとに永遠に繰り返されているような」
「そりゃそうだろう。戦争ってのは決してなくならん。間(あいだ)に休みが挟まるだけだ。人間が一人で生きていけない以上、集団は生まれ一つの生き物となって、やがては他の集団とぶつかる。人間は他者と繋がろうとする反面、その他者を常に怖れている。そして自分自身を意識する限り他者は存在し続ける」
「?」
「…そして人間には怖れを乗り越え闘いを挑み、それを凌駕していこうとする本性がある。疑心に駆られる者こそその本性にあざとく、例え相手が同じ人間でも殺生を厭わないばかりか、自分は戦わずして人を動かし裏で糸を引こうと腐心画策する。大義名分がどうであれ戦争の本質はそれだよ」
「八田さん…」
ボクが気がついたときには八田の目は大きく見開き、自分の口からこぼれ出る聞き覚えのない言葉の列に仰天している。
「分かるか。人類の歴史はその本性とどう付き合うかの歴史だ。その為には何が必要か」
「…お前は?」
ボクが呟いた時遠くで小さい音が弾けた。その瞬間八田の身体が棒立ちのまま後ろに倒れ、その胸からこれ以上ない鮮血がちょろちょろと流れ出す。見る間に上着が変色していく。ボクは反射的に身を伏せ、砂に曇れる大地の向こうを睨む。
何て野郎だ、何て野郎だ…。ボクは呪文のように繰り返す。そして自分でも驚くほどの速さで銃を装填し身構える。
「八田さん、八田さん」
「…ううん、しくじった。やられた」
「大丈夫ですか?」
「そう言いたいところだが…この有り様だ。ち、ちくしょう。何だってんだ。おかしな術使いやがって。有塚、気をつけろ。相手の武器は銃だけじゃないぞ」
「喋らないで。今すぐ本隊に合図を送ります」
「待て。その前に頼みがある。俺を起こしてくれ」
「どうするんですか?」
「この始末じゃ死ぬに死ねねえってことだよ。一発でもヤツにお見舞いしなきゃ…」
八田は苦しそうに咳き込む。ボクは一瞬考え、八田に寄りその傷ついた身体を抱き上げる。
「すまねえ。銃を…」
言われるまでもなく八田に黒光りする一物を持たせる。それはまるで手筒の花火銃のようでありながら、中央には巨大な握り手がくっ付いている。
「八田さん、これは?」
「以前家に変わった花火職人が出入りしててな、そいつから習ったものに、鉄兜(てっかぶと)連中の試作品とやらを掛け合わせてみた。反動はもちろん、威力も飛距離も半端ない。お祭り騒ぎにはもってこいって奴だ」
「でもその身体じゃ…」
「そこの岩場に背中を付けさせてくれ。装填の手間は無いから、一人でも何とかなる」
ボクは言われた通りに八田を抱きかかえ移動させる。途中で八田が大きく呻き声を上げた。背もたれになりそうな岩を選びそこに八田の背中をゆっくりともたせかけ、そして文字通りの鉄砲を構えさせる。
「恩に着るぜ。短かったが世話になった」
そう言うが早いか八田は引き金を引いた。くぐもった銃声がして虚空に渾身の一発が飛び出していく。長い間(ま)の後、遥か遠くで砂の花火が上がる。
「見える。見えるぞ有塚、奴の姿が。まるで目の前にいるみたいにはっきりと見える」
砂まみれの八田は、まるで子どもがはしゃぎ出すかのように歓声を上げる。「やってやる。絶対に仕留めてやる。あいつは俺だけの獲物だ」
ボクは八田の傍らに身を伏せ、彼の一世一代の躍動を目の当たりにする。八田は自らの興奮をギリギリと絞め研ぐように彼方を睨み、慎重に人差し指を引き金に掛ける。その指先はわずかに痙攣している。
「…何?」
不意に八田の動きが止まる。
「八田さん?」
「…そうか、そう云うことか」
そう呟いた八田の上半身からは一瞬力が抜けるが、次の瞬間には銃を持ち直し、そして万感の思いと共に引き金を引いていた。と同時に八田の身体はそのままだらりと横倒しになる。
「八田さん!」
ボクの耳には八田のとほぼ同時に放たれた銃撃音が木霊している。その木霊は風に乗り、この乾いた大地を一つの大きな伽藍にして響き渡っていく。そして頭を撃ち抜かれた八田の目は、既に見開かれたままその虚空を漂っている。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
ボクは聞いたこともない自分の雄叫びを耳に歩兵銃を撃ちまくる。そのうち遠方で鈍い砲撃の音がしたかと思うと、コンマ数秒後には自分の後方、本隊のいる辺りで轟音と砂塵の柱がいくつも舞い上がるのを目撃する。動転するままにボクはもう動かない八田を置いて走り始める。その後ろをゆっくりと爆撃の衝撃が追ってきているのが分かる。止まったら終わりだ。ボクはさらに速度を上げる。もう自分が何者で何の為にこの場にいるのか、数日間自分を迷わせていた疑問すら入り込む余地はない。ここは乾いている。そして自分は今、生き延びる為にただ走るしかない。どこかで誰かの悲鳴が聞こえた気がした。その時ボクは初めて死を意識する。目の前にはこの瞬間の生と、今すぐにでも訪れるかも知れない死の可能性だけが無意味に広がっている。ボクは咄嗟に小高い砂丘に倒れ込み相手の陣地を窺う。その距離、1キロメートル余り。人の動きは分からない。急に相手の攻撃も止んだ。まるでこちらの動きを逐一把握しているかのように。それにしてもこの僅かな時間で一体何人が死んだろう?ボクは本隊の仲間のことを思う。そして置いてきた八田のことも。許せぬ。ボクの中で突如として底なしの憤怒が沸き起こる。ボクはこの世の全てを憎悪する。この自分の存在すらも。一体何故?ボクは腰から双眼鏡を取り出し、改めて先方を確認する。死に際の八田の言葉が気になっている。八田は射撃の瞬間相手の姿を捉えたまま動きを止めた。彼は一体何を見たのか?ボクは目を凝らす。相手の顔を見ないでは気が済まなくなっている。
そこに同じくこちらを窺う顔が見て取れた。その若さはまだ新兵のようだ。ボクはさらに目を凝らす。すると相手はこちらに気づいたかのように銃の構えを解く。ボクと彼はまるで旧知の間柄のようにお互いを見やる。そして程なくボクは気づく。彼とその背後に立つ兵の集団がボクらと同じ日本軍であることを。ボクは咄嗟に後方を向く。仲間の砲撃は止んでいる。
これは…、どう云うことだ?ボクは再び静かになった荒野を見つめながら呟く。
「ここではどんなことも起こり得る。こんな灼熱の荒野でも雪が降ることだってあるのだから」
突然例の声が響く。「お前たちは国家の思惑の為、捨石にされたわけだ」
「何?」
「珍しいことではない。本国はどうしてもこの大陸が欲しい。その為には理由が必要なのだよ。お前が『何故?』と問うように世界は常に言い訳を求めている。自分たちが他者を理解する労力と手間暇に代えて」
「しかし、これは裏切りだ。同じ仲間に対して…」
「姑息で勝ち負けでしか己を測れん連中にはお馴染みの芸当だよ。お前だって何度も同じ目に遭いながら此処まで流れてきたんだろう?」
「そんな…」
「逸れ者の宿命さ。だからこそ皆生きる意味を考える。しかし意味なんて記憶と同じ。生きた後で初めて正体を現す。記憶がないなんて、そう云った肝の据わらぬ輩のよく使う方便に過ぎない。つまり、お前は思い出せないんじゃない。思い出したくもないだけなのさ」
「…」
「言い訳ばかりのこのしようもない世界に逃げ込んで、お前は一体何を探そうと云うのかね?」
「探す?ボクが?何の為に?」
ボクは矢継ぎ早に問う。すると途端に相手の声に笑みが混じる。
「そうだ。それでいい。お前は何もしない」
「何?」
「もう一度双眼鏡であっちの兵士を眺めてみろ。そうすればお前にも分かる」
ボクは声の言う通りに双眼鏡を掴む。そして静かになった大地の向こうを覗く。見えるのはやはり例の若者だ。彼はボクの方を真っ直ぐに向いて銃を構えている。垣間見えるその表情は微笑んでいるようでもあり、また悲しんでいるようでもある。ボクはその顔に見覚えがあることを今更のように思う。
撃つのか、ボクを?ボクは一人呟きながら立ち上がる。何故かそうしなければならない気がして。八田や仲間のことも今はもう気にならない。ボクは崖の縁に立つ。眼下には黄色く痩せた大地と、僅かなそれでもハッとするほどの緑が生い茂っている。ふと足元を見ると何か黒い物が砂地に埋まっているのが分かった。しゃがんで取り上げてみるとそれは薄い煙草入れのようだがそれにしては一回り大きい。ボクはそれを一通り眺めてから蓋をし、谷の広がるはるか前方に向かって大空高く投げやる。そしてその瞬間銃弾がボクの身体を貫く。ややあってボクは前のめりに谷に吸い込まれ、風に煽られながらもただひたすらに降下していく。もはや大した質量を持たないボクは痛みや怖れも感じなくなっている。そして目を閉じ、漆黒の空(くう)に漂う。
次の瞬間、誰かがボクの身体をガシッと摑まえる。ボクは途端に身悶えするが、その者は有無を言わさぬ力で安寧への落下からボクを引き摺り上げようとする。誰だ?誰がボクを呼び戻そうとする?ボクはこのままでいいんだ。このまま自分の名前も分からぬまま砂原に埋もれる。それがボクの、生きた証なんだ。そう、ボクはその為にここに来たんだ。自分を虚無の荒野に埋(うず)める為に。だから…だからどうか、その手を放してくれ。
ボクは哀れな断末魔の声を上げ続ける。しかしその時にはすでに、ボクはその自分の声をどこか遠いところから聞いている…。
「真鍋さん、しっかりして下さい」
「真鍋君」
僕はその二人の声に目を開く。
「ぉおう」
呼吸が跳ねているのが自分でも分かる。「ここは…」
しかし僕はすでに分かっていた。自分が元の世界に戻ってきていることを。そして僕の傍らにいる男のことを。そうか…。
僕は、Aをこの世界に連れ戻したのだ。
オルタナティブの呟き 桂英太郎 @0348
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