第4話

「おい、お前。さっさと起きろ」

 誰かがボクの顔を蹴る。手加減なしだ。そいつの爪先ががつがつボクの横顔に当たる。止せよ。ボクは声を上げようとするがどうしても動けない。目をこじ開けるようにして開く。ボクの目の前に黒い影が覆い被さっているのが分かる。「あんたは…」

「全くやる気あんのか、お前」

 するとものすごい力でボクの身体が引き上げられる。ボクは服で首が締まりそうになるのを必死に堪えながらどうにか自分の足で立ち上がった。すると相手の背丈がボクよりかなり低いことに気づく。ボクはやけに埃っぽい視界に思わず表情を歪める。

「ふてぶてしいヤツだなあ。貴様、それでも軍人か?」

 軍人?ボクは思わず相手を見る。「ボクは…」

 その時相手のビンタがボクの顔面にヒットする。ボクはのけぞって倒れかかる。何だ、これは?ボクは今、どう云う状況にいるんだ?ボクは悲惨としか言いようのない心境に思わず我が目をしばだたせるが、仰向けに倒れた瞬間自分の真上に見たこともないような晴天が広がっているのを見つける。ボクは悟る。ここはボクの知っている世界ではない。顔には何かヌメヌメとした感触が広がる。手を当ててみると予想通り鼻から鮮血が噴き出しているのが分かった。ボクは思わずその色に見入る。空の青と、血の赤。

「変わった奴だ。殴られてもまだ寝呆けてやがる」

 ボクはおそらく半分鼻血で染まった顔で相手の顔をまじまじと見る。相手は髭面だが意外と愛嬌のある顔立ちをしている。そうこうしているうちにも少しずつ意識がはっきりしてきた。時折周りで砂塵が舞い、そのせいで目がちくちくと痛む。

「ここは何処ですか?」

「はい、お答えします。ここは『萬州(まんしゅう)』、地獄の一丁目ですよ、上官殿」

 相手は憎々しげに応える。

「萬州?」

 ボクはオウム返しに問う。すると相手は途端に底なしのため息をつくと、何か憐れむような視線をボクに送る。ボクは自分がとんでもない間違いを犯したかのような、どうにも心許ない気持ちになる。

「あのう?」

「いい加減しっかりしてくれよ。俺だってここでお前さんとあぶら売ってることが知れたら只じゃ済まないんだぜ」

「ああ、すみません」

 ボクはゆっくりと上体を起こす。

「お前、本当に大丈夫か?」

 相手はボクの顔をじっと見て呟く。「悪かったな」

 ボクは再び自分の顔を手で拭う。手のひらにべったりと先程からの赤黒い血溜まりが付く。

「だ、大丈夫です」

 ふん、と相手は鼻を鳴らす。「覚えとけよ。殴る方もな、それなりに痛いんだからな」

 ボクは相手が差し出した手に捕まりながらもう一度立ち上がる。やはりボクの方が頭一つ背が高い。

「全く、するすると背ばかり高くてよお。お前、生まれは何処だ?」

「え?えーと」

 あれ、ボクは何処の産だっけ?うまく思い出せない。いや、と云うより…。

「あれっ?」

「何。どうしたんだよ?」

「ボク、一体誰なんですか?」

 それを聞いて男はまた咄嗟にボクを殴ろうとするが、ボクが一人茫然としている様子に握りかけた拳を解く。

「今日会ったばかりの男に何言われるのかと思えば、『ボク、一体誰なんですか』って?」

 男はケッと一度顔を背け、そしてまたボクをそのギョロリとした眼差しで見た。「俺が聞いてる限りでいいか?お前はな、有塚(ありつか)真治(しんじ)三等兵。右も左も、それから自分の名前も分からん、おそらく俺の足手まといになる為だけにやってきた雑兵だ。せいぜい俺の弾除けぐらいにはなってくれよ」

 そう言うと男は一人、ボクを置いてさっさと歩き出す。ボクは男の言う通りの我が身の現状に、とにかくその後を追うしかない。

「あの、ここは戦場なんですか?」

「ああ?これからそうなるかどうかを確かめるのが俺たちの仕事だろうよ。ほら、あの丘の向こうは相手の陣地だ。あっちもこっちを狙ってるかも知れないぞ。まさに一触即発だ」

 指差された方を見ると、砂にまみれた大地の所々に民家らしきものが陽炎のように散在している。

「もしそうなったらどうするんですか?」

 ボクはとりあえず訊く。

「撃ちまくる」

 男は背中で即答する。「俺はな、ここに来れば好きなだけ銃が撃てると聞いてやってきたんだ。この距離だ。そう簡単には当たらんだろうが構わん。とにかく俺は引き金を引き続ける。俺はそう云う男だ」

 男は分かったかとでも言いたそうな顔でこちらに振り向く。

「俺は八田(やつだ)俊朗(としろう)。青森は弘前市内にある八田銃砲店の四男坊。よく覚えとけ」

 一方的な自己紹介にボクは返事をすることも忘れている。とにもかくにも目の前には広大な大地と砂漠があるのみ。ボクは踏んだこともないような固い地面を男に付いてただヨタヨタと歩き続ける。


「おい、有塚。食わんならそれ、俺にくれよ」

食事をしていると後ろから八田が声を掛けてきた。どうやらボクの皿の蒸かし芋が御所望らしい。

「はい、どうぞ」

 食欲のないボクは皿ごとそれを差し出す。すると八田は珍しいものを見るかのような目でそれを受け取る。

「貰っといて何だが、食える時にはしっかり食っとけよ。いつまた偵察隊に駆り出されるか分からんからな」

 最後は背中越しだった。その時ボクは、八田は案外優しい男なのかも知れない、そう思う。

 あれからボクらは本陣に戻り、いかにも大儀そうな上官の小言をやり過ごして野営テントに入った。外観に反して中は意外と広く、そして整然としている。

「荷物を置いたらさっさと飯だ」

 周りばかり気にしているボクに八田はそう命令すると、自分は早速銃の片づけに取り掛かった。さすがに手際が良い。仕方なくボクも傍らに荷物を下ろす。どうやら兵の数は百名ぐらい。それぞれに持ち物の手入れや洗濯干し、中には死んだように寝入っている者もいる。ボクは顔を洗おうと表に出たがやはりまだ日差しがきつい。古い井戸のところで行水をしていた男に水をもらうと、案の定砂が混じっていた。

「ここでは砂は空気と同じだ。気にせず使え」

 男の言葉に仕方なく頷いて顔を洗いテントに戻ると、八田はすでに食事にありついていた。見るとメニューはいかにも現地調達らしく地元の食材に限られている。見たことがない野菜もあった。

「とにかく大陸では何でも油で炒めるんだ。腹には溜まるが胸やけがひどいぞ」

 そう言われて出掛かっていた食欲はいとも簡単に引っ込んだ。とんでもない所に来たな…。ボクはそう呟かざるをえない。

 ささやかな食事を終えたボクは、ふと八田が教えてくれた自分の名前を思い出す。有塚真治。全く覚えがない。まるでこれが現実ではないかのように。ただ、何か自分にはしなければならないことがあるような気がしてならない。そしてそれは目の前の戦争とは関わりのない、しかしとても重要なことである気がする。

「おい、有塚。お前、本国で何をしでかした?」

 ボクが譲った芋を尚も齧りながら八田が訊く。「ここに来る連中は皆、脛に傷持つ野郎ばかりだ。お前だって本国にいられなくなってこっちに来る破目になったんだろう?」

「いや、それが…」

 全く身に覚えがない。

「副隊長の話じゃ、一度は気違い病院にまで入れられそうになったって云うじゃないか。お前、本当に覚えてないのか?」

「はい」

 ボクは正直に応える。

「ガキの頃、したたかに頭を打った奴が一時お前みたいになったのを知ってるけどな…。ま、とにかく俺に付いてれば当面問題はない」

「はい、よろしくお願いします」

 ボクは礼を言ってその場を離れる。太陽がいつの間にか大きく西に傾いている。地平線がゆるゆると靡いて見える。ボクは覚えていない故郷を思わざるをえない。


 翌日ボクは再び八田に付いて偵察の任務に就く。彼の背中の歩兵小銃はおそろしく砲身が長く、長距離射撃用に改造されていると推察できる。やがてボクらの遥か右側に、深い谷を挟んで朽ち果てた現地の集落が姿を現す。

「お前は昨日、偵察中急に地べたに倒れ込んだんだ。日射病にでも罹ったかと思ったら、そのうち暢気に鼾を掻き始めた。新顔のくせにそんなだから腹立ち紛れに放っておいたら今度は身体じゅう小刻みに震え始めてな。その様子が尋常でなかったから試しに蹴飛ばしてみたんだ」

 ボクは歩きながら八田の話に耳を傾ける。

「お前、その事も覚えてないのか?」

「そうですね、きれいさっぱり」

 ボクは苦笑いするしかない。「覚えていることと云えば…、ボクには何か大事な用があった気がします」

「用?仕事か?」

「いえ、多分違うと思います。それに今気づいたんですが、ボクは前もどこか別の砂漠にいたような気が」

 ボクは必死に思い出そうとする。「でも、ボクの身体は黒くて薄い何か別物になっていて、太陽の光が焼けるように熱いんです」

「倒れてるうちに夢でも見たか…」

 八田はふ~んと鼻を鳴らし、「じゃ今のところお前は抜け殻だ。中身のないモヌケ野郎ってことだ」

 そう言って呵々と笑った。しかし不思議と腹は立たない。

「今日は何処まで行くんですか?」

 ボクは訊く。

「昨日とおんなじ」

 八田は背中で応える。「あいつらも相当しつこくてな。前に一度派手にぶっ放してやったが、それでも場所を空けねえ」

「あの、あいつらって誰のことですか?」

「誰って、萬州馬賊に決まってるじゃねえか」

「馬賊?」

「ああ。あいつら匪賊を駆逐しない限り、俺たちは本国の土を踏めねえって寸法だ」

「そうなんですか?」

「だからさっさと事を済ましてしまいたいが敵もさるもの、なかなか挑発に乗ってこねえ。まあ、俺としては派手にやれたらそれでいいんだけどな」

 八田はさも憎々しげに言う。「そろそろ食料調達にも無理がきてる。お前も見たろう?あれじゃ営倉食だぜ」

 そう言って八田は立ち止まり、遠くを見る。

「双眼鏡、使わないんですか?」

「ああ。願掛けで俺は極力自分の目と勘しか信じない。これまでもそれで獲物を狩ってきた。これからもそうだ」

「でも、相手もこちらの出方を探っているかも知れませんね」

「どう云うことだ?」

「いくら馬賊とは云っても生活はあります。早々戦ばかりしているわけにもいかないでしょう?どうにかこちらと和平にもっていきたいと考えているはずです」

「そんなもんか?」

「もしそれができたら我が方にとっても損にはならないはずです。兵や武器だって只じゃありませんから」

「お前、学者くずれか?」

八田はボクを一瞥する。「理屈ばかり捏ねやがって。じゃあどうする?ここで俺とくっちゃべっていても何も始まらんぞ」

「分かってますよ」

 そうボクは応えるが頭には何の思惑もない。仕方なくやはり遠くを見る。人影は見えない。まるでこの砂漠そのものが死に絶えているようだ。もしかしたら、ボクらは実体のないものと闇雲に相対(あいたい)しているだけなのかも知れない。ボクにはそう思える。

瞬間遥か彼方でちかっと光が見えた。

「あぶない」

 咄嗟に八田が叫び、ボクの頭を力まかせに押さえ込む。一瞬周りの音が消え、まず弾けるような着弾音がすぐ近くで、遅れて遠く木霊のような銃声がそこら一帯に響き渡った。

「八田さん」

「馬鹿、頭あげんな。奴はまだ狙ってるぞ」

 八田はボクの身体を地べたに伏せらせたまま谷向こうの集落を睨んでいる。途轍もなく静かだ。それでいて辺りは異様な緊張感で包まれている。

「今までこんな事あったんですか?」

「あるわけないだろう。それにこの銃声には聞き覚えがない。狙いだっておそろしく正確だ。こんなこと、普通あり得ない」

「どう云うことですか?」

 ボクは問うが、八田は自身も腹ばいになったまましばらく応えない。「八田さん」

「少なくとも相手は、狙撃の名人と云うことさ」

「どうします?」

「とりあえずは隊長に報告だ。冗談じゃねえ、一触即発が本当になりやがった」

 八田はそう言うとゆっくりボクの身体から離れ、固い地面を滑るようにして物陰に身を潜める。そしてボクに合図する。ボクは頷き、地面を這って彼の横まで来る。

「奴らもまだめったなことはしないはずだ。このまま隊に戻るぞ」

 八田の顔は昨日までとは打って変わって、まるで別人のように尖っていた。


「向こうにも戦闘を開始するだけの用意があると云うわけだな」

 隊長は苦虫を潰したような顔で言った。

「はい、隊長」

 八田はおどけた口調で応える。「これで大手を振って本国に連絡が取れますな」

「余計なことは言わんでよろしい」

 副隊長が横から口を挟む。「さて、まずは本国からの返事を待ちながら戦闘の準備に掛かるか。おい、有塚君。守田上等兵に食料調達班を新たに編成するよう伝えてくれ」

「ボクがですか?」

 何気に問い返すと副隊長はその斜視目でボクをじっと見返す。「本当の戦は鉄砲でするんじゃない。食い物と寝床だ。これが確保できなければ我々の帰るところは墓穴(はかあな)だけだぞ」

「分かりました」

 ボクは早速守田上等兵の元に向かい、副隊長の指示を額面通りに伝える。守田はまず「そうか」と頷くと、ボクと八田にも調達班に加わって欲しい旨を口にした。もちろんボクにはそれを拒否する謂れはなく、その日のうちに新たな食糧調達部隊が編成された。他の者らと違い昨日以前の記憶が全くないボクにとって、それは駐屯地近辺の地理を知るのに絶好の機会であり、むしろ遠足を間近にした時のような浮足立つ気分にさえなる。

 果たして翌日、皆揃っての行軍となった。敵からの奇襲の話を耳にした彼らはそれぞれに緊張を隠せない様子だが、この暑さではそれでなくとも士気は上がりそうにない。一方ボクが気になっているのは、この部隊の戦略上の立場と云うか身の振り様とでも云ったもので、それと云うのも一昨日(おととい)の八田の言及通り、ここには隊長副隊長以下、それぞれ訳ありな面々が揃いに揃っていると云う印象に因るもの。一言で云えば吹き溜まりと云った感じ。その中で自分は何故ここに配属されているのかと云う疑念ともつかない思い。そしてこうしている内にも自分には他にやらなければならないことがあるのではないかと云う焦り、苛立ちにも似た思い…。

「何ぶつぶつ言ってるんだよ。さっさと食い物調達してこいよ」

 そう言いつつ誰よりもぼやいているのは他でもない八田で、点在する農家に顔を出しては合っているのかどうかも怪しい中国語で半ばヤケクソ気味に交渉している。ところが出てくるのは芋と変色した青菜の類ばかりで、見るからに食糧としては心許ない。ボクも黙って見ているだけではまた何を言われるか分からないので、とにかくダメモトで近くの民家に入ってみる。声を掛けるが返事はない。もう一度。すると今度は正面の重い戸が開き、そこにまだ幼い兄妹が立っている。二人はボクを見て怖がっているらしく、それでもじっとこちらの出方を窺っているようだ。

「ニィ、ハァオ。食べ物、あるかな?」

 ボクはなるばく刺激しないように言葉を掛けるが、彼らにとって大人やましてや日本兵は恐怖の対象でしかないようで、すでに泣き出す寸前と云った表情をしている。

「参ったなあ…」

 そう呟いて庭から出ようとした時、後ろの方で物音がする。振り向くとそこに長身の娘が竹籠を持って立っていた。そして彼女はボクを遠巻きにするようにして年離れた弟妹のところにまで近寄ると、二人に中に入るよう言ったようだった。ボクは一連の様子を見届けてから今度はその娘に声を掛ける。

「食べ物が欲しい。少しでもいいから分けてもらえないだろうか?」

 しかし娘は首を横に振る。小さく、震えるかのように。ボクは守田から預かった軍票を取り出す。これが徴発の時には金の代わりになるらしい。娘はそれとボクの顔を交互に見てからまた首を横に振った。どうにも埒が明かない。ボクは諦めてその家の小さな庭から出ていこうとする。娘に笑顔で挨拶し踵を返す。やれやれ、これじゃ副隊長の言う通り戦闘どころではないな…。そう思った時背後で何やら声がした。

「君は私を探しに来たんじゃないのか?」

 ボクは振り向く。そこにはやはり先程の娘がいる。立ってこちらを見ている。ボクは彼女を見返す。彼女もボクを見返す。まるで先刻の声がボク自身の声とでも云うかのようにポカンとした顔で。

「何か?」

 ボクは彼女に問う。しかし彼女は咄嗟にさっきよりも激しく首を振る。そして何かを日本語で喋る。

「え?」

「君は、私を探しに来たのだ。そうだろう?」

 ボクはその言葉が娘の口からするするとこぼれ出るのを目撃する。ボクの意識は少なからず動揺する。それはその不可思議な現象についてよりも、むしろその声がボクの内部を激しく揺り動かすから。この声はボクに要請する。為すべきことを為せと。それはまるで何かの断罪のように容赦なくボクを突き上げる。

「君は誰だ?」

「…そうだ。君が私を見出した時、この旅は終わる」

「旅?終わる?」

 ボクは呟く。「ボクは君を探しにここに来たのか?」

「そうだ。君は私を探しに来た」

 声は繰り返す。「しかし実のところ、私は何処にでもいる。君に必要なのは思い出すことだけ。要はそう云うことだ」

 娘は自分の口からひとりでに出てくる異国の言葉に顔を引き攣らせている。当然だ。ボクでさえ同様なのだから。ボクは後ずさる。そしてその場を足早に去る。そうだ。ボクはさっきの声に覚えがある。あの声が言ったことは誤りではない。ボクはそれに会いに来たのだ。探しに来たのだ。

「おい有塚。どうだ、上手くいったか?」

 小太りの同胞が声を掛けてくるがボクは引き攣った笑顔で首を振るしかない。正直ボクはそれどころではなくなっている。傍らにいた別の同胞が舌打ちする。

「どこも女子ども年寄りばっかりだ。それも揃いに揃って痩せぎすの愛想無しときてる。一体どうなってるんだ?」

「こっちも言葉が分からないからどうしようもない。何とか少しでも持ち帰らないと」

「ああ」

 皆とそう応えながらも、ボクは先程の声について思いを巡らせている。ボクが何か大事な用があると思っていたのはあの声のことだったのか?しかしボクには記憶がない。そのことがこんなに口惜しく感じられるのはこれが初めてだ。声は自分は至るところにいると言った。ボクは思わず辺りを見回す。そしてボクは突然この世界に違和感を感じ取る。

 ここは…、この世界は何か異常だ。

 確かにこの場所は現実ではある。ボクもこの場所で現に生きている。しかし自然ではない。まるで何者かによって巧妙に作られた模造物のようだ。そしてその中でボクは、誰かにじっと見張られているのだ。

 しかし何の為に?

 ふとボクの意識にさっきの中国人の娘が思い出される。彼女は突然の出来事に文字通り言葉を失くしその場に固まっていた。申し訳ないことをした。彼女にとってみればそれでなくとも日本兵は厄介事を運んできた存在であろうに、ボクはまたそれに輪を掛けてしまった。それにしても…。あの時の娘はその顔に驚愕の表情を浮かべながらもひときわ美しかった。可憐だった。それも誰かの謀り事なのだろうか?

 民家を歩き回り、幾ばくかの食糧を半ばむしり取るようにして隊に戻ってきた時、皆の様子が一様に沈んでいた。

「どうかしたんですか?」

「本陣からの御通達だよ」

「何て?」

「『大陸の生命線を死守せよ』だとさ」

「『生命線』って?」

「まあ手相のことじゃあるめいな」

 本国では飲み屋をやっていたらしい手塚二等兵が笑って応えた。

「つまり早い話が、売られた喧嘩は買えってことだろ」

 八田が言う。「で、隊長はどうすると?」

「面倒臭そうな顔をしてたけど、結局はやるしかあんめいよ。俺たちは『旗振り』なんじゃから」

 その言葉にその場にいた全員が黙った。

「やるからにゃ、とことん撃ちまくってやろうぜ」

 八田がなおかつ皆に向かって言うが、ボクも含めて意気は上がらない。

「ここまできて本当に連中とやり合うなんてなぁ…」

「黙っとったら分からんのじゃないけ?」

 すると突然赤ら顔の奥野衛生兵が立ち上がって言う。「こんな埃っぽいところで怪我人出してみい、治るもんも治らんぞ」

 皆、一様にお互いの顔を見合わせる。

「副隊長は?」

「さあ…」

 ボクは今更ながら自分がとんでもないところに放り込まれていることを思い知る。しかしその一方で、この状況が全くのでっち上げであるかのような、そんな不思議な気持ちにもなっている。

「死ぬんですか?ボクたち」

「ああ、そう云うこと言っちゃうかなあ、普通」

 八田がボクを睨む。

「まあ、そうなんですけど」

「お前は今、頭ん中真っ白だからいいじゃないか。後腐れなくてさ」

「それとこれとは…」

「分かってるよ」

 すぐに夕食となった。こう云う時は腹を膨らませるに限る。実際隊員は皆黙々と箸を動かしている。随分後になって隊長と副隊長が揃って顔を出した。皆、二人の方を何気に注意している。

 どうやらやるらしい…。まるで潮騒のように、そんな溜息にも似た声がこちらの席にまで届いてくる。

「有塚、八田、来てくれ」

 副隊長が呼んだ。反射的にボクらは立ってそちらに向かう。

「二人にはもう一度現場に行ってもらう。そしていつものように歩哨の任に就いて欲しい」

「それでどうするんですか?」

「もし向こうから撃ってきたらそのまま戦闘に入れ」

「ボクらたった二人でですか?」

 ボクは思わず問い返す。

「安心しろ。我々もすぐ後方で控え、有事の際には即座に砲撃を開始する」

 副隊長が毅然として応える。「ただし、攻撃は時間を限定し、相手の出方如何を問わず一旦後退する」

「何故?」

 やはり八田が問う。「一旦やったらもう後戻りはできねえ。それが戦争(いくさ)ってもんだ。あんた、今までそう言ってきたじゃないか」

「その通りだ。だから今回はそのギリギリのところを狙う」

副隊長は返す。「ぶつかり合うだけが戦争ではない。この食糧も武器も足らない状況で長期戦はまず無理だ。だから相手にも自分にも逃げ道を確保しておく。そして最終的な〝勝った負けた〟は上同士で決めてもらおうじゃないか。つまりそう云うことだ」

「ふん、気に入らねえな。いかにもインテリの考えそうなこった」八田は返す。「言っとくが、一人で抜け駆けして突っ走るほど、お人良しじゃねえぞ。俺は」

「もちろんだ。この作戦には我々の今後と、他でもない意地が懸っている。その先鋒を務めるのは、わざわざこの隊を志願してきた変わり者の貴様しかおらん」

「…よく言うぜ」

 八田はそう言うと今度はにんまりと笑ってみせた。「まあ、仕掛けは任せておけ」

「よろしく頼む」

 そう言う副隊長の横で、隊長は終始黙り、その切れ長の目だけが異様に見開かれている。

 ボクは一転して妙な熱気に包まれる一同から離れ一人外に出る。目の前で大地の縁に真っ赤な太陽が今にも沈もうとしている。その光景にボクは心を奪われその場に立ち尽くす。そしてその中に吸い込まれそうになりながらも、一方でどこか冷静にそれを見ている自分をも感じている。

「有塚、どうした?」

 横を見ると八田がいた。

「八田さん、ボクにはどうしてもこの世界が解せないんです。まるで作り物みたいな、それでいて美し過ぎるこの世界が」

「人間てのはな、自分が体験したこともないことを目の当たりにすると感覚が揺らぐんだ。そして自分が自分でなくなる。周りが輝いて見えて、昨日までどうってことなかった風景が急にかけがえのないものに思えてくる。それは素晴らしくもおそろしい瞬間だ。俺たちは明日我が身がどうなるかも分からない。最悪犬死かも知れない。正直な…」

 そこで八田は言葉を切った。「俺も怖い」

「八田さん」

「昔、子どもの頃同じような目に遭った。兄弟やガキ友連中と岩場をよじ登って遊んでてな。下から見たら楽に登れそうな気がしたんだ。それで割とするすると中ほどまで行って、ちょいと見下ろしたら下がえらく小さく見える。『あれ?』って今度は上を見るとまだまだ先は長い。途端に身体から血の気が引いて、もうどちらにも安全な場所がないことに気がついた。唯一つ、ここまで登った以上先を行くしかない。その思いだけで震える手足を動かし続けた」

「それでどうだったんですか?」

「どうにか上まで登れたよ。ホッとしたと云うか、何だか騙されたような気持ちになってな。もう一度下に戻って見上げたらやっぱり大した高さには見えないんだ。その時俺は思った。本当の恐怖はその場所に行ってみなければ分からないってな」

「いい話ですね」

「そうか?俺は今でもあの時のことを思い出すと不思議な気持ちになる。あれは本当だったのかってな」

「ボクの今の気持ちは…」

 何故か言葉に詰まる。今のボクは自分自身がとてもあやふやなものに思えてならない。

「明日は任せておけ。ぶっ放すのは俺だ。お前はその辺に隠れてばいい」

「そんな。八田さんだけに危険な思いはさせられませんよ」

「俺はな、この二日で妙なことを考えるようになった」

 八田は横を向く。「お前がこの部隊にやってきて早々、俺の運命までがゴロゴロ転がり始めた気がしてな。ところが当の本人は自分のことすら碌に覚えてないときてる。一体何なんだ、こいつはってな」

「…」

「だが、今の俺はもう一方で楽しみでもある。明日、お前と一緒にいることで何かが変わる。それも世界が丸ごとな」

「ボクにはそんな…」

「いいんだ。勝手にそう思っとくさ。さあ、皆が待ってるぞ」

 八田はそう言うと一人で宿舎の方に戻っていく。ボクは陽が落ち、すっかり暗くなった荒野にもう一度目をやる。まるで全てが一枚のキャンバスの上に描かれたもののように、それは静謐で美しかった。

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