第3話

 ボクは黒いDVDのプラケースだ。中身はない。この砂漠の中に放置され、その灼熱に今にも蒸発してしまいそうだ。失敗した。よりによって何故ボクはこんな場所を選んだのだろう?少なくともここはボクみたいな存在がいるべき場所ではない。熱い。とにかく何もかもがドロドロに溶けてしまいそうだ。このささやかな思考までも。

 あの声はもうしない。奴はただボクを置き去りにしただけだ。ここは地獄?それともダンテの『神曲』に出てくる煉獄とでも云うのか?ボクは空っぽのプラケース。無防備でか弱く、僅かな抵抗でさえもできない。そして…。

 ああ、ここでは時間すら呪いだ。


 僕ら三人は夕方前には宿に着いた。江戸時代の旧街道沿いにある旅館。古びた外装だが部屋はとても綺麗で、葦原はしきりに歓声を上げている。まるで修学旅行にでも来たような浮かれ様だ。そんな様子を傍らで見ていると、自分までが浮ついた気分になってくるから不思議だ。一方で鏑木は持参したパソコン機材を取り出し手際良く何かの準備を始めている。

「先に温泉にでも入ってきて下さい。私は済ませておきたいことがありますから」

 鏑木は言う。

「じゃあ、お言葉に甘えて」

 僕と葦原は温泉旅館の長い廊下に出る。シーズン前のせいか他の客はまばらで、まるでここはA探索の贅沢な砦に思えなくもない。僕らは建物の奥へと歩いていく。

 Aの実家は田畑を造成して作られた住宅街の一角にあった。日当たりの良い、二階造りの一戸建て。その周りにはバリエーションを少しずつ変えただけの小綺麗な家が軒を連ねていた。人通りはない。その様子は東京郊外の風景とさして変わりはなく、僕らは自分たちだけがその整然とした居住空間に突然紛れ込んだような独特な居心地の悪さを感じ、程なくその場から離れることにした。確かにここにAはいないな…。僕は思った。

「ねえ、真鍋君」

「何だい?」

「さっきのヤスベエさんの話、どう思った?」

「どうって?」

「私、何だかピンとこなくてさ」

「例の、僕らが通路になるって話か?」

「それもなんだけど…。これ、私の勘だよ」

「だから何?」

「ヤスベエさん、一番肝心なこと私たちに隠してるんじゃないかな」

「どう云うこと?」

「つまりね…、何て言えばいいのかなあ…」

 葦原は珍しく物憂げな表情になる。「私たち、このままA君を探し出していいのかな?」

「え?」

「私ここまで来て、何だかA君見つからない方が幸せかも知れないって思ってさ。真鍋君がA君に会った時、彼すごく悩んでる様子だったんでしょ?」

「そうだよ。でも最後別れる時はなんでか晴れやかな顔をしてた。僕にはそれがかえって気になってさ、それで翌日君のところに顔を出すことにしたんだよ」

 僕は応える。

「A君が会社に出てこなくなる前にね、彼、私に言ったのよ」

「何て?」

「喫茶コーナーでひと息ついてる時だったんだけど、『近々古い知り合いに会うんだ』って」

「古い知り合い?」

「何だかとても嬉しそうだった。鼻歌なんか歌っちゃったりしてね」

「へえ、確かに珍しいね。でもそれって誰の事だったんだろう?」

 僕の問いに葦原は首を横に振る。

「でもそれから彼、度々ボーッとするようになってね。もちろん仕事はちゃんとやるんだけど、気になったからその知り合いの話をもう一度振ったの。そしたら『え、何の事ですか?』って。私訳が分かんなくなって、そのうち彼がぱったり会社に出てこなくなったの。休暇かとも思ったんだけど連絡は入らないし、部所でもどうしようかって言ってたところに真鍋君が現れたってわけ」

「そう云うことか」

 僕は思いを新たにする。「でも前の晩に会った時はそんな様子でもなかったな」

「ホント、彼一体どこに行っちゃったんだろうね。アメリカで成功すること自体只事じゃないのに、しがないサラリーマン続けながら何を考えてたんだろう?」

 その葦原の呟きに頷きながら、僕はふとあの公園で自分がAに言った言葉を思い出す。そして自分の前から去っていくAの軽やかな後ろ姿も。


 大浴場の前で葦原と別れ、僕は一人露天風呂に浸かる。またあの晩のことを思い出す。そして葦原が言うようにAの居どころが知れてしまった場合一体何が起きるのかを考えてみる。そもそも警察は何の容疑でAを捜索しているのか。アメリカでの大失踪騒動の犯人と目されているとは云え、A個人の責任が立証されているわけではない(と云うより現象そのものが既に人智を超えている)。もしかしたらAの立ち上げた会社が逆にAを呼び戻す手段として騒動をでっち上げたとは考えられないか。もしそうだとしたら今自分たちがやっていることは…。

 その時背後で物音がする。振り向くとそこに裸の鏑木がいた。

「ご一緒してもいいですか?」

「ええ、もちろん」

 僕は湯に浸かったままそそくさと場所を空ける。「少し熱いですよ」

「ああ、私はこれぐらいの方が好きです。子どもの頃じいさんばあさんに育てられたものですから、身体が熱いのに慣れてるんです」

 そう言って鏑木はゆっくりとその筋肉質の身体を湯に沈めていく。「それにしても良い気分だ。生き返ります。署内の同僚に知れたら怒られるな」

「ははは、それは僕も同じだ」

 僕らは湯に浸かりながら、すっかり日が傾いた外の景色に目をやる。やはり至って長閑な風景。

「ずっと都会にいると、私たちはこう云う景色を自然そのものだと誤解してしまうんですね」

「どう云うことですか?」

「つまり、この景色も人間が作り上げた加工品と云うことです」

「?」

「美しい風景なんて実際の自然には存在しません。そこにあるのは弱肉強食のジャングル、あるいは酷寒の大氷原、もしくは…」

「…」

 鏑木は続ける。

「見渡すばかりの砂漠です。そこに人間は調和をもたらした。それは人為に他なりません」

「なるほど。そんな考え方もありますね」

「そして今、私たちは外界ばかりではなく自らの思考の中にも人為を持ち込もうとしている」

「思考の中にも?」

「仮想現実が良い例でしょう。そこには現実と見紛うばかりの虚構があたかも実在するかのようにその姿を映します。それに加えて昨今私たちは端正整然としたものに慣れ過ぎています。それこそが実は最も危険なことではないか、私は常々そう考えています」

「ヤスベエさん。…あ、すみません。馴れ馴れしく」

「いえ、いいですよ。これからしばらくお世話になりますから、かえってその方が私も気がねせずに済みます」

「そうですか?じゃあ、これからは『ヤスベエさん』でいかせて頂きます。僕のことは『トモ』って呼んでください。周りの友人にはそう呼ばれています」

「あ、いえ。私は一応職務上決まりがありますのでやはり『真鍋さん』で」

 鏑木は苦笑いしながら言う。僕はそんな彼がかえって好ましく思え、それ以上は言及しない。時間が早いせいかまだ僕ら以外の客はいない。ぽちゃぽちゃと云う湯の滴る音が静かな浴場内に響いている。

「連れて来たいなあ…」

 ふと鏑木が言う。

「誰をです?」

「あ、いえ」

 鏑木は手のひらで湯をすくい、顔を洗う。

「好きな人とか?」

「いえ…」

 僕は鏑木の顔を覗き、その表情がさっきと少し違うことに気づく。

「本当に良い温泉だ」

 鏑木はそうため息をついた。


 部屋に戻ると葦原がすでに用意された夕食を前に僕らを待っていた。

「ちょっと、いつまで待たせるの?お腹空いちゃったー」

「ああ、すみません。温泉があんまり気持ち良かったものですから」

 鏑木が弁解する。

 僕らは男部屋に用意された夕食にありつく。しばらく三人とも無言になる。考えてみれば、今朝東京を出てきてからまともなものを口にしていなかった気がする。自然とそれぞれの箸が忙(せわ)しくなる。僕はふと鏑木の顔を見る。彼は風呂の時と同じく、真剣な目で箸を動かしている。

「何だか色気もそっけもないわね、私たち」

 不意に葦原が身も蓋もないことを言うので僕らは一斉に声を出して笑う。

「いや、実際美味いよ。こんなに米と野菜がイケるなんて思わなかった。普段はパン食が多いからな、僕」

「何言ってるのよ。これが本来の和食の味なのよ」

 葦原が僕を睨む。「全く、日本人なのに情けない」

「仕方ないじゃないか。一人暮らしなんだから」

 僕は抗弁する。

「まあ、この百年で日本人の暮らしは一変しましたからね」

 今度は鏑木だ。

「例えば?」

「食事もそうですが、やはり家族構成ですよね」

「ああ、昔は大所帯だったからね。ご飯食べるのも楽しかったろうね」

 葦原は納得したように言う。

「はい。それが今は一人世帯が普通になってますから、日本は」

「人間の感性も変わって当然か」

「日本は季節もそうだけど、人の暮らしも移ろいやすいのかもね」

「A君はこんな田舎からアメリカに渡って何を思ったんだろう?」

「どうでしょうね。でも向こうは都会でも結構自然は残ってますから」

「ああ、そうなんだ」

 僕はふと思う。バランスってやつか…。

「ヤスベエさん、さっきの話なんだけど。ほら、私たちが通路になるって話」

 葦原が口火を切る。

「ええ」

 鏑木は箸を置いた。「突飛な話と思われるかも知れませんが」


 私たち警察がAを追っているのには理由があります。それは以前お話ししたようなアメリカ側からの捜索要請に因るものだけではなく、彼が『ここから、そこへ』飛び越える術(すべ)を見つけてしまったことに端を発します。

 一言で云えばドラえもんの『どこでもドア』です。ただそれが現実と虚構の狭間で、と云う但し書きが付きますが。つまりアメリカでの大掛かりな失踪事件は、その最初の被験実験だった可能性があります。そしてその驚異的な体験はごく一部のユーザーを除いて圧倒的な支持を獲得することになったのです。

 確かに物理学的にはあり得ないことです。人が身体ごと異世界に入り込むなんて。そのメカニズムは未だ解明されてはいません(もしかしたらA自身もそうなのかも知れませんが)。そしてそのことが騒動を尚一層大きくしてしまった。日本の警察もその騒動の規模と今後予想される社会的影響の大きさから事前に手を打たざるを得ない、そう判断したと云うわけです。

 彼はアメリカでの在職中に自分の履歴を抹消させています(もちろん日本でのことも)。それが騒動を見越してのことなのかどうかは分かりません。でもそのお陰で彼は帰国後もしばらく身を隠すことができた(その後のことは以前お話しした通りです)。アメリカ側の予想は、A自身も『あちら』の方へ行ってしまっていると云うことです。私も同じ見解ですが問題はそのリスクです。あなた方が見た紫色の物体。アメリカではユーザー本人とのDNA照合が行われましたがこれと云った関連結果は出ていません。ただ、戻ってきたユーザーに共通して表れている症状があります。慢性的な微熱状態と突然の昏睡です(時間にしては日に5、6分程度ですが)。医者に言わせれば原因不明の風邪、あるいは興奮症状のようなもので、今のところそれ以上体調が急変した者はいないようです。Aがそれを了解した上で実行に移ったのかどうか、それはともかく今現在ゲームが無期稼働中である以上彼が帰ってこれる保証はどこにもないのです。

 そしてここからがお二人に関わってくるところなのですが、すでに現象を体験したユーザーたちは再びあちらの世界に行くことを熱望するのです。まるで其処こそが自分の本当の故郷であるかのように。あなた方からすれば、ゲームの中の世界を心から慕い実際そちらに行ってしまおうなんて馬鹿げていると思われるかも知れません。しかしそれが茶番とは云えないほど、Aの作り上げた仮想世界は或る意味現実より現実的だった。そしてアメリカ側がこの件を極秘にしかも早急に解決したい理由は例の超巨大企業マチス・トライアングルにあります。

 おそらくマチスはこの騒動を収束させることと同時にそのノウハウを掴みさらに発展させることを考えていると云ってよいでしょう。もしかしたら新たなフロンティアとして多くの産業が乗り出してくる可能性もあります。時は宇宙時代となった現在(いま)、一方で突然異世界探訪の扉が開いたと云うわけです。Aが開発したゲームの名は『1930(イチキュウサンマル)』。アメリカがもっとも震え、そして世界が一斉に揺らぎ始めた頃の年号名です。

 もちろんゲームはあくまで創作物です。現実そのものではありません。しかし人の記憶も同じではないでしょうか。時間を経るごとにその像は変化し時には歪曲化され現実とかけ離れたものになっていく。しかしそれでも人はその記憶にしがみつく。なぜなら其処にこそ「自分」があると思うからです。たとえその記憶が過酷なものであっても。いえ、過酷だからこそ人と記憶は離れがたいものになるのかも知れません。…すみません。つい話が横に逸れてしまいました。お二人にお願いすることには実はそれほど入り組んだ事情があると云うことをまず了解しておいて頂きたいのです。それに今回通路になって頂くことに関しては、正規のルートではなく謂わば異世界の扉を外からこじ開ける形となります。危険がないわけではありません。身体的と云うより精神的、いえ、正直云って何が起こるか分からないのが現状なのです。

 ええ。どうしてこんな難題をお二人にお願いするか、すぐには納得を頂けないのは分かっております。無理もありません。実は真鍋さんが見たAの姿は、あちら側からのAの現出かも知れないのです。つまりAは異世界への扉をくぐっただけでは飽き足らず、あちらとこちらを自ら繫ごうとしている。そして創作物である異世界が現実世界に介入し変化をもたらす。これはA自身がもう一人の「神」になってしまうと云うことです。そしてそれに立ち会ってしまったのが真鍋さんと云うことになります。おそらくAは次も真鍋さんと接触を取ってくると思われます。そのチャンスを狙って私たちはAを確保しなければならないのです。


「え?じゃ私って、その計画(ミッション)にとって何なの?」

 葦原が声を上げた。確かに鏑木の説明を聞いているだけではもっともな疑問だ。

「それは…」

 鏑木も応えに詰まっているようだ。「お二人は、つまり、チームな訳ですから…」

苦しい言い分、そして気詰まりな沈黙。

「あ~、もう。結局ここも男社会の縮図なんだ。女は可愛げ良く、黙っておうちでお留守番ってわけ?」

「いえ、そう云うことではなくて」

 鏑木は思わぬ葦原の剣幕に戸惑っている。

「おい、止めろよ。ヤスベエさんだって仕事なんだから」

「じゃ、真鍋君はいいの?こんな訳の分からない事に巻き込まれて、下手したら死んじゃうかもよ」

「いえ、それは…」

「あり得ないって言い切れます?」

 お前が言うか?僕は葦原に向かって言いたかったが、思いのほか鏑木が黙り込んだので僕も次の言葉が出てこない。

「ヤスベエさんの、A君があちら側から現出(?)したと思う根拠は何なんですか?」

 葦原は尚も食い下がる。

「それは…」

 鏑木の表情が苦しそうに歪む。

「止しましょう」

 咄嗟に僕は言う。何故かそう言わなければならない気がした。「葦原、そもそもこの事件に僕を巻き込んだのはお前だ。お前がマンションのあのドアを開けなかったら全てはまだ水面下だったはずだ。会社だって、Aと云う一風変わった社員がいなくなった、その範疇で事は済んでたんだ。つまりお前がここにいる理由は唯一つ、『乗りかけた船、今更降りる訳にはいかない』ってことだ。違うか?」

 葦原は僕をじっと見つめる。僕も仕方なく見返すしかない。

「いいの、真鍋君は?」

「今はヤスベエさんを信じるしかないだろう。荒唐無稽な話だけど、実際ここにきて一連の話に妙なリアリティーを感じるんだ。もしかしたら自分はすでにA君の異世界の中に取り込まれてしまったかもって」

「何それ。真鍋君、変なの」

 そう言うと葦原はニコッと笑った。そしてもう一度鏑木の方を向いた。「ヤスベエさん。そう云うことで真鍋君はどうやらOKみたいです。あとは煮るなり焼くなり好きにして下さい」

「は?」

 鏑木はもちろん僕も口を開けたまま目を丸くする。そしてしばしの間(ま)があって誰からともなく噴き出した。訳もなく可笑しい。まんまと葦原にハメられた気もするが、それでも何故か悪い気はしない。何より鏑木が子どものように笑っているのが可笑しかった。

「で、どうすればいいんですか?その異世界とやらに真鍋君が入っていく為には」

「はい。例えて云えば、真鍋さんには異時空間への井戸の呼び水になって頂きます」

「呼び水?」

「はい。これを見て下さい」

 鏑木は事前にセッティングしていたパソコン画面を僕らの方に向ける。

「これは…」

「『1930』のプログラミング・データです。このデータは今でもひとりでに進化し更新を重ねています。まるで生き物のように。今現在このゲームは当局によって封鎖されそれ以降誰もプレイしていませんが、それでも時折このゲーム世界そのものが誰かを誘(いざな)うかのようにある一定の周期でログインの隙間を作っているのです。私たちは今までそれをAの作ったトラップだと思ってきましたが実際彼自身がその穴を通して真鍋さんと接触を試みたとするならば、これはゲームが閉鎖系ではなくまだ開放系であることの何よりの証だと思います」

 僕と葦原は沈黙する。「…つまり?」

「Aはゲームを通じて私たちに向かい何かを訴えたいのかも知れない、と云うことです」

「訴えたい…」

 Aは、僕らに何を?

「今から真鍋さんにはこの部屋に一人になってもらい、このプログラミング・データの変化を観察してもらいます。正直云って先方がどのようにしてアプローチを掛けてくるのかは分かりません。アメリカでも何人もの捜査官が試してみましたが、結局そのパターンが何らかの規則性を持っているらしいと云うことしか分かりませんでした」

「観察するだけ、ですか?」

 僕は問う。

「とりあえず今はそうするしかありません。待つのです」

鏑木は応える。「さきほどの真鍋さんの話を聞いていて思いました。真鍋さんはすでにAの異世界を肌で感じ取っている。そしてAはそのどこかに居ながらこちらの様子を窺っているのだと」

「一か八かよね。それがA君の挑戦(たくらみ)なのか、それとも新世界展望への誘いなのか」

 葦原が割って入る。

「もしA君に会うことができたら僕はどうすればいいんですか?」

「伝えて下さい。『君の世界はこちらなのだ』と」

「A君、それで云うこと聞くかしら?」葦原が呟く。

「分かりません。ただ彼だって承知しているはずです。どんなに移ろっても故郷は一つ。彼には此の地がそうに違いないのです」

「分かりました。やってみます」

 僕は応えた。

 やがて二人は部屋から出ていく。僕は四方の襖を閉め、鏑木が言うようにじっとパソコン画面を食い入るように見つめる。そこにはただ文字数列が忙しなく、まるで浜辺の波がさざめくかのようにうねるだけだ。それを眺めていると本当に遠くから波の音が聞こえてくるような気持ちになる。僕は一体何を待っているのだろう?いや、それとも何が僕を待ち構えているのだろう?

「…」

 ふと背後で声がするので振り向くと、襖戸を開けて葦原がこちらの様子を窺っている。

「大丈夫?」

「ああ、別に何ともないよ。こりゃ長期戦かもな」

 僕は笑って返す。

「頑張ってね」

「うん。待つのは得意なんだ」

 そして僕は部屋の明かりを落とし、もう一度パソコンの方を向く。後ろで戸の閉まる音がする。その瞬間周りが真っ暗になって一瞬自分が何処にいるのか分からなくなる。同時に自分の中から重力がするすると抜けていく。気づくと画面が僕を真っ直ぐに見据えている。僕も同じように暗闇に黒く光り浮かび上がるものに視線を注ぐ。その時僕は確かに感じる。何かが僕を息を殺して窺っているのを。やがて僕にはそのものの息づかいまで感じ取ることができるようになる。そして次第にそのものと言葉を交わしてみたくなる。今やこの世界には僕とそのものだけだ。君は誰だ?そのものは問うだろう。そして僕も応える。僕は…。さっきまで小さかった光の点が、画面からだんだん僕の方に近づいてきて、やがてすっぽりと僕を包み込む。僕は揺らぐ意識の中で呟く。

 ボクハ…、ダレダ?

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