第2話
僕らの、と云うか葦原個人の唐突な要求に意外なほど簡単に応じた鏑木刑事だが、それでも眉間に深い皺の浮かぶ顔は依然昨日のままだ。
「本当によろしいんですか?」
僕の問いかけも自然と大人しげになる。…て云うか、あれ?これって…。結局付き合う羽目になっている自分。
「有難う、ヤスベエさん」
葦原はすでに馴れ馴れしさ全開だ。鏑木刑事は咳払いをする。
「いえ。参考人のお二人の協力が頂けると云うことでしたらこちらとしても有難いです。是非ご同行させて頂きたいと思いますが…」
「が?」
「あ、いえ。途中危険が伴わないとは限りません。その場合はご遠慮して頂くこともあると思いますので予めご了承を」
「それはもう」
僕が言いかけると、
「ええ~。でも決死の覚悟で」
葦原は訳の分からないことを口走る。
結局僕らはまた昨日と同じ取調室で頭を突き合わせている。
「アメリカでの騒動のこと、調べてみました」
僕は言う。
「ほう、早いですね。でも日本の記事はなかったでしょう?」
「全くと云っていいほど」
「そこなんです。ですからこちらとしても何かと難儀で」
鏑木は口をへの字に結ぶ。
「私英語ができますから、新聞くらいなら平気なんです」
「あ、そうなんですか」
鏑木は目を丸くして葦原を見る。どことなく愛嬌のある表情。こうして見ると案外この刑事は素朴な人柄なのかも知れない。そして僕はもう一度Aの顔を思い出そうとする。大丈夫。ちゃんとイメージできる。
「Aは福島県K市出身、お二人と同じ二十七歳。高校まで日本で大学はアメリカ。専攻は英文学」
「英文学?」
僕は聞き返す。「コンピューター関係じゃないんですか?」
「ええ。でも向こうじゃ珍しくないらしいですよ。バリバリの証券マンが学位は植物学を持ってたり」
鏑木は応える。
「まあ日本みたいに人間を理系文系で二分割する方が非常識かもね」
葦原は分かったような顔で言う。
「僕がずっと気になっていたのは、やはりあのドロドロの正体とA君が仲間と作ったゲームの中身です」
「ああ、なるほど」
鏑木は頷く。すかさず葦原も口をはさむ。「A君の会社は早い話オンラインゲームを作っていたわけでしょう?それがほぼアメリカ限定で騒動が起きたことの方が私には気になるけど」
「その説明は簡単です。当初のゲームの参加資格がアメリカの社会保障番号の保有だったからです。それにパスポート番号も」
「どう云うことですか?」
「プロトタイプと云うことでゲームユーザーを国内に限定する意図があったのでしょう。しかもある程度の富裕層をターゲットとして」
「つまり限られたアメリカ市民しか楽しめないゲーム…」
「そう云うことです」
「ところが国内で数千人規模での失踪者が出た。部屋の中をさながら紫のスライムまみれにして。当初はものすごい騒ぎになったんでしょう?」
「それがそうでもなかったんです」
「どうして?」
「失踪した人達のアカウントがその最中(さなか)でも稼働中であることが判明したからです」
僕と葦原は一瞬言葉を失う。人が消えたのにそのゲーム自体は動き続けていた?
「誰かがアカウントを奪って遠隔操作していたとか?」
「私はその手の遊びをやりませんのでよく分かりませんが、当局の調べではそれは考えにくいと云うことでした。それにこの製作会社ではそれまでも数回の期間限定配信を行っており実績は充分だったようです」
「でもそれほどのゲームが日本ではほとんど知られていないなんて変な話ですよね」
「海外ドラマと同じでしょう。競合相手も多いでしょうし、ユーザーにしてみれば噂は耳にしていても実際自分でプレイできなければ好奇心は急速に萎んでしまいます。特にゲームに凝る人達には熱しやすく冷めやすい人が多いと聞きますが」
そうだろうか?僕は思う。僕も人並みにゲームは好きな方だが、やはり自分の中で名作と云うか時折思い返してはリトライし続けているゲームはある。少なくとも流行りものだけを追っているわけではない。それにしてもあのAがそんなゲーム作りをやっていたとは意外だ。
「彼はどう云う仕事をしていたんでしょう?」
「主に企画とストーリー構成だったようです。玉石混交のゲーム業界で彼のアイデアはひと際異彩を放っていた」
「と云うと?」
「彼のゲームにはまずエンディングがありません。そしてキャラクターも生き物でないことが多い」
「例えば?」
「置時計とか、カーテンレールとか」
「あら、変わってる」
「それに戦闘がほとんど出てこない。いや、むしろ戦いをいかに回避するか、それに拘っているフシさえある」
「う~ん。どうなんでしょうね、面白いのかな、そのゲーム」
アクション系好みの僕は素直に疑問を唱える。
「確かに第一弾発表後のレビューはあまり芳しくなかったようです。実際地味でそれまでのゲーム的要素が極端に薄かった。ただ一つはっきりしていたことがあります。それはAの作ったゲームが、他にはない独自の世界観を確立していたと云うことです。Aは共同経営者である知人から誘われるまでどうやらゲーム全般に対して無知だったようです。専ら彼の興味は英文学とその他の世界文学、もしくは哲学に限られていました。彼の大学での渾名は『リタラ・モール』」
「文学もぐら?」
葦原が訳す。
「はい。その彼が突然ゲームの世界に飛び込んだ。学友たちは皆、『じきに目をやられて這う這うの態で帰ってくるさ』と噂したそうです」
「分からないことだらけですね」
「でもそんな彼だからこそ、アメリカのゲーム業界に新風を巻き起こすことができた」
「そうとも云える」
「彼にとっては、ゲームは文学の新たな地平に見えていたのかも知れません」
鏑木は言った。
「でもその彼が急に足を洗って日本に帰国し一介のサラリーマンになった。僕は彼からゲームはおろか文学の話すら聞いたことがありません」
僕は言う。
「私もよ」
「ある意味、彼は自分の文学性の全てをそこにつぎ込んでしまったのかも知れませんね」
鏑木は続ける。「私は少しだけ彼の作ったゲームをやってみました。全くの門外漢ですから何とも参考にはなりませんが、あれはゲームと云うよりヨーロッパの古い映画を見ているような、あるいはクラシック古楽を聴いているような静謐な気持ちにさせられました」
「何と云うタイトルのゲームですか?」
「確か『曠野のシンフォニア』、でしたか」
「題名聞くだけでもなんとなくその特異さは分かるわね。でもそれが実際売れるなんて」
「あるユーザーから聞いた話ですが、70年代に流行した東洋思想ブームにも似て、Aの手掛けたゲームには明らかに現代アメリカ人が置き去りにしてしまった何かが宿っていて、ハイクラスな人間ほどその独特の世界観の虜になるそうです。そして中には日常から完全にドロップアウトしてしまうほどの人も」
「じゃ、騒動の前兆はすでにあったわけね」
「その頃からゲームの配信には時間制限が掛けられるようになり、最終的には稼働時間が三日間と設定されたようです」
「三日間。ハマるには短いか」
「真鍋君もやったことがあるの?その手のゲーム」
「一応ね。正直フラフラになってひと息つく頃には『もういいか』って気になるよ」
「ところが彼のゲームは新作の度にユーザーの数を確実に獲得し始め、しまいには政治家の中にも愛好者を自称する者まで現れた。そしてその中から新たなビッグネームのスポンサーが出てきたんです」
「スポンサー?」
「マチス・トライアングルです」
「ああ…」
僕と葦原は同時に声を上げる。僕らのような貿易会社に勤めている人間なら知らない者はいない、アメリカの超巨大企業であり資本家一族。その長であるマチス・フリードマンは御歳九十九歳と云われ、その存命の如何すら伝説化している。
「あの、僕はずっと疑問だったんです。どうしてアメリカ帰りの一人の男を、鏑木さんのような日本の警察が密かに追っているのか」
すると鏑木はしばし黙る。「無理もありませんが、その辺の事情はまだお話することができません。いえ、これからも、かも知れませんが」
「まあ、ヤスベエさんもお仕事ですから仕方ありませんよね。その辺のところは」
葦原がまた馴れ馴れしく、それでいてしおらしい口を利く。
「…有難うございます」
「マチス・トライアングルか。これは明日から仕事してる場合じゃないわよね」
「何言ってるんだよ。あくまで僕らは参考人なんだからあんまり一人で盛り上がるなよ」
「でも楽しそうじゃない」
「僕にはオカルトとしか思えないよ。君だってあのドロドロを踏んづけて引っくり返りそうになった時は凄まじい悲鳴を上げてただろ」
僕がそう言うと葦原は苦笑いしながらチロッと舌を出す。
「ああ、そうそう。あれの成分が分かりましたよ」
紫のドロドロ。
「何だったんです?」
「ゼリー状の体液でした」
「体液?」
「何の?」
「おそらく、人間の」
…。僕と葦原はこれ以上ないくらい複雑な表情でお互いの顔を見やる。
ボクは暗黒の中を歩いている。いや、ひょっとすると空中に浮いて足を動かしているだけなのかも知れない。ただ先程から確かに前方から僅かな風を感じる。怖くはないが自分の立ち位置が分からないのがどうにも心もとない。
「おい、誰か」
声を出してみて、右前方に小さな光が点滅するのが分かった。行ってみよう。そう思った時、
「止せ」
耳元で鋭い声がする。「罠だ」
ボクは思わず振り向く。だがやはり何も見えない。
「人は光を見ると反射的にそっちの方に動こうとする。しかしそれは誤りだ。何故なら今の君は人ではない」
「じゃ、何だ?」
ボクは訊く。
「それは今から君が決める。君は何者だ?」
問われた刹那、ボクの意識の中でDVDのプラケースが思い浮かぶ。
「じゃあ、それだな」
見知らぬ声は言う。
しかしこう真っ暗じゃ、何であっても同じじゃないか。
「もっともな意見だが、万物は皆最初は闇から生まれるんだ。焦る必要はない。今はただ自分がプラケースであることを考えていなさい」
声は可笑しそうに応える。考えろって言われても…。
「一つだけ教えてやろう。さっきの光は何だと思う?」
分からない。
「一つの存在が消滅する時に発する光さ。生き物なら死の光と云ったところかな」
死の光?死ぬ時に光が差すのか?
「例えば星は滅びる際、超新星となって凄まじい光を周囲に放つ。それは昼間でも見える程の明るさだ」
知らなかった。それにしても、君はさっきからボクの考えを?
「そうだ。私には君の考えることが分かる。そう云う者だから。だが怖がることはない。君が心を閉ざせばその時は私にも君の声は届かない」
ああ、そうなんだ。しかし、ここは一体どこだ?
「どこだろうね。原理的にはどこでもあるし、またどこでもない。なぜなら暗黒だから」
訳が分からない。
「そうだろう。でもここで場所の特定なんて意味がない。場所なんてどこでもいいんだよ。どうしても決めたければ好きに決めればいい」
決めればいいって云ったって…。
「さあ、何処がいい?」
ボクは暗黒の中で思いを浮かべる。すると意識がひと繋がりとなった暗闇に一瞬にして荒涼たる砂漠が現れる。
「砂漠か。悪くはないな。世界の果てに相応しい。プラケースと灼熱の砂漠。この組み合わせこそがこの旅の醍醐味だ。さあどうする?準備は整った。目の前の新しい世界に飛び込んでみるかね」
心なしか相手の声の印象が変わった気がする。ボクは迷うが、また暗闇に戻ることを思えば多少の不自由は我慢できる。そう踏んで頷く。
「ボン・ボヤージュ」
突然くぐもった破裂音がし、大量の何かヌメッとしたものが自分の中からほとばしる。
ボクは…、はじけた?
翌日出社した僕は課長から至急部長のところに行くように指示され、ともかく普段は会釈ぐらいしか交わさない部長の席の前に立つ。
「部長、真鍋です。お呼びでしょうか?」
「ああ、ご苦労さん。君ね、配属が変わります」
「え?配属換えですか?」
「うん。僕もよく分からないんだけど、上がね、そうして欲しいって。どう?」
「あ、いえ…。でもどこに?」
「人事部」
午後いちで荷物をまとめて人事部へ行くと、ドア向こうから聞き慣れた声がした。
「あら、遅いわよ。真鍋君」
と葦原。
「どう云うことだよ」
「知らないわよ。私だって今朝になって聞いたんだから」
「理由は?」
「何にも」
「ここで何をしろって?」
「特には」
「冗談じゃないよ」
葦原の澄ました顔を見ているうちに俄かに怒りが込み上げてくる。「今抱えてる仕事だってあったんだぜ。それを部長命令で取り上げられていきなり人事部だなんて」
「それは私だって同じよ」
「やっぱりこれって…」
「我らがA君がらみに決まってるじゃない」
「つまり『行方不明のAを探せ』ってこと?今頃になって?」
「始まりはあんたが夜の公園でA君と接触を持った。あんたからすればなんてことない語らいのひと時だったろうけど、それを私と会社に伝え次に警察沙汰にもしてしまった。一言で云えば真鍋君はどえらい封印を解いてしまったってことよ」
僕はその葦原の言葉に思わずひるむ。
「なに大仰なこと言ってるんだよ。話をでかくしたのはお前だろ。少しは自重しろよ」
「ほら、人事部長に挨拶しなきゃ」
仕方なく僕は葦原に続いて人事部長の席に向かう。一日に二人の部長の前に立つなんて、すでに僕は自分の立ち位置を見失いかけてる気分だ。
「ああ、企画営業部の真鍋君だね。人事の綿谷です。突然で驚いたでしょう」
だいぶ白髪の混じった頭を、それでも丁寧に撫でつけた部長は穏やかに言った。
「はい。正直言いまして。あの、これは何かの懲罰待遇なのでしょうか?」
僕は半ば自棄で尋ねた。
「とんでもない。私が聞いている限り、これは急を要する人事だと云うことです。あなたと葦原女史には取り急ぎ或る人物の身元調査に掛かって頂きたい。誰のことか分かりますね?」
「はい」
僕は応える。「あの、一ついいですか?」
「何でしょう?」
穏やかそうな人事部長の目が一瞬冷たく光った。
「もしこのままA君が見つからなかったらどうなるんでしょう?」
僕の問いに部長は真っ直ぐにこちらを見据えたまま思考を巡らせている様子。そしておもむろに言った。
「この会社が潰れるまではないでしょうが、私のクビは間違いなく飛ぶでしょうね」
期限は2週間。全く日本企業らしい融通の利かない長さだ。部長から命じられたのはあくまでAの身元調査。警察の方へは改めて捜索願いを出す手筈が整っているらしい。そして会社としてはAの氏名が会社登録と違っていたことから履歴詐称まで疑っているとのことだった。
「これは絶対裏があるわよ、真鍋君」
葦原は非常階段の手すりにつかまりながら言った。
「裏も表もないよ。何なんだよ、この状況は?」
「まるで真鍋君みたいな人が現れるのを待ってたような急展開よね」
向かいのビルではいかにも勤勉なサラリーマンたちが、無防備に渾身業務に励んでいる。
「で、どこから手を付ける?遊んでる暇はないんだぜ」
僕は葦原の軽薄さをおおかた受け流しながら問う。
「とりあえずA君の故郷、福島かな」
葦原は応え、僕も頷く。
ああ、福島か…。その時遠くのビルの谷間を、カラスが颯爽と滑空していくのが見えた。
「こうして三人で福島県内を走ってるなんて、何だか不思議な気分ですね」
鏑木がレンタカーのハンドルを握りながら言う。僕は東京と質感の違う空気を吸いながら周りの景色に心を奪われている。
「ええ。でもすみません。レンタカーの手配から運転までお任せして」
僕はそう言いながら後部座席をチラ見する。若干一名はさっきからそこでスースー寝息を立てている。
「いいえ。警察もお役所ですから段取りを踏むのはお手の物です。あ、それと例のドロドロの件ですが、どうやら動物性油脂ではあるんですが、幸い人間のものではありませんでした」
「よかった。人が一瞬でサラダオイルになるなんて洒落にもなりませんもんね」
「真鍋さん、昔ナチスが捕虜収容所の遺体から石鹸を作ってたって話知ってます?」
「ああ、聞いたことあるような。でも本当なんですか?」
「嘘です」
鏑木は応える。「確かに収容所の実態は言語に絶するものだったようですが、ナチスが人間の身体から油脂を取り出し、それを石鹸の原料にしたと云う記録は残っていません。今で云えば都市伝説の域を出ませんね。噂ですよ」
「どうしてそんな噂が生まれたんでしょう?」
「噂と云うものは結局大半は人の欲求もしくは必要から生まれます」
「必要?」
「ええ、噂はそれを欲する者の為に生み出されるんです。そして本人たちはそのことに気づいてさえいなことが多い。これとよく似たプロセスで生み出されるものがもう一つあります」
「何ですか?」
「神、ですよ」
「ああ、なるほど。言われてみればそうですね」
「信仰のある人には申し訳ありませんが、神も人間の必要に迫られて生み出されたものだと私は思います」
「特に一神教なんてそうでしょうね」
僕は同意する。
「良かった。こう云うことを言うと時々本気で怒り出す人もいますからね。めったなことは言えません」
鏑木はそう言って助手席の僕に微笑みかける。
「刑事さんも大変ですね」
「ええ、まあ」
今日の彼は随分と親和だ。「真鍋さんの会社は貿易関係でしたね」
「はい。食品の輸入ものを扱っています。他は一部、飼料用のトウモロコシなんかも」
「そうですか。どうしてそう云ったお仕事を?」
「え?」
僕は驚く。「改めて訊かれると困りますね。採用面接の時以来だ」
「ははは。でもきっかけぐらいあるんでしょう?」
「う~ん。ほとんど成り行きですからねえ」
きっかけか。そう云えば何だったっけ…。僕は記憶の底をを浚うが思うような出来事には行き着かない。「と云うか、気がついたらすっかりサラリーマンが板についちゃってました」
「お互い仕事があるだけ幸せってことですね」
「その通りです」
どちらにしてももう随分昔のことだ。僕らは笑い合う。そんな時後部座席から声がする。
「な~に、二人だけで良い感じになっちゃって。ズルい。何の話?」
「グーグー寝てる、お前が悪いんだろう」
「いや、取り留めもない話ですよ。お二人がいつも気兼ねなく話されているのを見てつい羨ましくなりました」
「まあ、同期ですからね」
僕は応える。
「警察では同期でもそう親しくはなりませんよ。ましてや男女の仲なんてありえませんね」
「どうして?」
葦原が返す。
「周りの目もありますし、何よりお互い内部事情が分かり過ぎてますからね。それをプライベートにまで持ち込む度胸はありませんよ」
その鏑木の視線に僕は一瞬黙る。「待って下さいよ、鏑木さん。僕たち別にそんな仲じゃありませんから」
「そうですか?何だかいつもお二人一緒って感じでお似合いだと思いますが」
慌てる僕を余所に、鏑木は笑いながらハンドルを大きく切る。
「ここ、どの辺?」
葦原が眠たそうに尋ねる。
「磐梯山の近くです。そろそろですよ、Aの出身地は」
言われて僕は車窓から周りを見渡す。
「いいなあ。この辺絵に描いたような田舎の風景ですよね」
「Aの両親は二人とも中学の教師です。父親は社会科の、母親は音楽の教師で」
「一人っ子なんですか?」
「いえ、妹が二人。一人は東京ですでに結婚していて、もう一人は仙台で働いているそうです」
「典型的な中流家庭って感じね」
「小さい頃のAはどちらかと云うと身体を動かすのが好きな活発な少年だったようですが、中学に上がってから急に本好きになったようです」
「何かきっかけでもあったのかな」
僕は独り事ちる。
「はい。或る教師との出会いです」
「ああ、良い先生がいたんだ」
「Aは高校を卒業後アメリカの大学に進み、それ以来ほとんど帰郷していませんが、戻ってくる度にその教師とは会っていたようです」
「つまり今回もその人に会いに行くと云うことですね」
「いえ、それはありません」
鏑木は断言する。「実はその教師はすでに亡くなっています。二年前のことですが」
「二年前…」
「Aはその人の葬儀に出席する為に久々帰国し、そのままアメリカには戻りませんでした。ほら、あそこ」
車はゆっくりとスロープ状になっているカーブを上り、いささか古ぼけた学校前で停車する。
「Aの卒業した中学校です。今は廃校になっていますが、時折町の催し物などには使われているそうです」
僕と葦原はじっとその校舎を眺める。冬の快晴の空の下、誰もいない元校庭だけがひっそりと陽の光に浮かび上がっている。僕らは何故かそこから目が離せない。
「やっぱり自分の母校が無くなるって淋しいよなあ」
僕は言う。
「真鍋君、出身どこだっけ?」
「東京横浜だよ。風情も何もない、ただ人ばかり多くてさ」
「そう?私は長崎。やっぱり田舎だけど、まだどうにか中学は残ってるわ」
「Aの恩師はどうやら元学生運動の活動家で、少しは名の知れた前衛芸術家だったようです。地元の名家出身でしたが生涯独身だったようですね」
鏑木が言った。
「女の先生?」
葦原は問う。
「ええ。最後は病気で長く闘病されていたそうです」
「どんな先生と生徒だったんでしょう?」
「Aは中二まで陸上選手として県下でも有望株でした。ところが夏の大会で思わぬ怪我をしてそれ以上走ることができなくなってしまった」
「ああ」
僕と葦原は同時に呟く。
「元々Aは大人しい性格だったらしいのですが、さすがにこの時は少し荒れたようです。同級生もその変貌ぶりには驚いていた。そんな折彼は美術室に置いてあった石膏の彫塑をわざと壊した。その彼を女教師は自分の美術準備室に呼んで彼にある本を手渡したんです」
「本?」
「スタインベックの『赤い子馬』と云う短編小説です」
「知らないなあ」
僕は言う。
「作者の名前くらいね」
葦原が言った。
「題名は可愛いんですが、ストーリーの中身は過酷です。それが少年の目線から描かれます」
「鏑木さん、読まれたんですか?」
「ええ一応は。Aもどうやらその小説に思うところがあったらしく、それから徐々に海外文学や哲学にのめり込んでいきました」
「でもそれだけ影響を受けた先生が亡くなっているなら、A君がここに戻ってくる可能性は低いわけですよね」
「変なこと、言ってもいいですか?」
鏑木はやはりハンドルを握ったまま言う。僕らはその彼を見る。
「Aはすでにこの世にはいない気がするんです。とは云っても死んだとかではなく、どこかこの世界の裏側に潜んでいるような、そんな気がしてならないのです」
「裏側?」
「私がお二人をここまでお連れしたのは、Aの身元調査の為と云うよりお二人にその通路になって頂きたいからなんです」
「通路?通路って何です?」
「行きましょう」
鏑木は僕の質問には応えず、またゆっくりと車を発進させた。憧憬の校舎はみるみる小さくなって、やがて僕らの視界から見えなくなっていった。
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