オルタナティブの呟き
桂英太郎
第1話
第一章
「多分ボクの中で、誰かが別の誰かを殺してしまったのかも知れないね」
Aは話の途中でふとそう呟いた。
「え?どう云うこと?」
僕は思わずそう問い返したが、Aはそれには応えず代わりに淋しげに微笑んで見せた。
「自分に悪気はなくてもさ、いや、そもそも記憶すらないんだ。だから悪びれることもできない。『え、何なに?』って感じで。最初は周りの空気が微妙になるくらいで、気にしなければそのうち時間が希釈の魔法をかけてくれる。でもそんなことが続くとさ(これが一番つらいことなんだけど)、周りの皆が自然とボクから距離を取り始めるんだ。無理はないよね。きっと正体不明の変な奴ってことなんだから」
Aの表情は依然穏やかなままだ。僕はよく事情が呑み込めないまま、それでも気の毒と云う気持ちは否めない。頭上ではまるで借り物のような月が、それでも美しく僕らを照らすべく輝いている。
「実際今日声を掛けてくれたのは、真鍋君だけだったよ」
そう言ってAは僕の方を一瞬見た。その目は心なしか濡れているようにも見えた。その時、僕らが座る公園のベンチの脇を、十一月の寒風がまるでネットコマーシャルのように有無を言わさず吹き抜けていく。そろそろ終電の時間か…。僕はコートの襟を立てる。
「仕事で何かあったの?」
外で思いがけなく会った知り合いに、なんとなく元気のない様子の訳を尋ねたのがこの奇妙な話の発端となった。
木曜の仕事帰り、僕は珍しく一人で飲みたい気分になって駅近くのバーで一刻を過ごしていた。店を出て足元が軽くふらついた。あまりないことだった。夜風に当たろうと公園のベンチに向かうと、すでに見覚えのある先客が座っていた。それが職場の同僚、Aだった。
「人間ってさ、元々自分の中にいろんな側面が潜んでいて、それぞれがお互いを支え合ったり時には牽制し合ったりして結果的にバランスを取ってると思うんだ。ボクの場合はね、あくまで例え話なんだけど、そのいろんな側面のうちの誰かが別の誰かを殺(あや)めてしまったのかも知れない。そしてそれはバランスにとって根本的な組み合わせの二人だったのかも知れないってね」
バランス?僕は頭の中でその言葉を転がしてみる。
「つまり、その加害者と被害者が…」
「そう。昨日まで本当に好き合っていた二人とかさ」
Aには悪いが、僕はその時点ですでに話に付いて行けていない。それは彼の説明が下手とか不親切と云うことではなく、多分お互いに話の地平が少しばかり、しかし決定的にズレているのだと思う。やむなく立ち往生。
「それは実際、どう云う状態なんだろうね?」
僕は疑問を丸投げするしかなくそうAに尋ねる。Aはそれに素直に反応し虚空を見つめる。
「例えば仕事で、上司に棚から黒のファイルを持ってくるように指示をされる。ボクは了解してファイルを持っていくと、上司は一瞬黙ってから『それじゃない』と言う。ボクは手元のファイルを見る。確かに黒ファイルだけど、上司が持ってきてもらいたかったのは黒は黒でもつや消しの黒ファイルなんだ」
「つや消し?」
僕はファイルの色につや消しがあるのかどうかも見当がつかない。
「頼まれた時確かめるべきだったんだ。ファイルの色とその種類についてね」
Aは力なく微笑する。「だからボクは『すみません』と謝ってからすぐにまたファイル棚の前に行く。そして上司の言うファイルを必死に探す。ボクはまだ仕事に不慣れで、できることと云ったらとにかく言われたことを従順かつ正確にやるしかないからね。それでもボクが困っていると、別の同僚がファイル棚からそれらしいファイルを手に取って上司の元に持っていく。事はそれで足れりだ。上司も特に何も言わない。彼は欲していたものがそれで手に入ったのだから。ボクはただファイル棚の前で、自分のデスクに戻るタイミングを見失って立ち竦むだけなんだ」
「そう…」
僕はAの話に頷きながら、むしろ彼の心身のバランスを危ぶまずにはいられない。
「でもさ、息の合わない上司とはそう云うことままあるんじゃない?A君だけの問題じゃないと思うけどな」
「いや、さっきのはあくまで例え話で」
Aは首を小さく振る。「ボクは自分が上手くつかめないんだ。そしてそのことに思い至って時々居ても立ってもいられなくなる」
その思い詰めた様子に僕は早々に説得(?)を断念する。
「今日はもう家に戻ってゆっくり休んでみたら?多分疲れが溜まってるんだよ」
まだ酔いの残る僕はAの肩に手をやる。「君のところは課長が人使い荒いって評判だもんな」
するとAは、やはり微笑しながら僕に礼を言う。
「有難う。でも家に戻っても眠れないし、かえって時間を持て余して途方に暮れるだけなんだ。今もどこで何をしたらいいか思いつかなくて、浮浪者みたいにこの辺をぶらついていたところさ」
僕はそんなAの顔を見つめながら、一方で別の思いに囚われる。Aとは同じ部所ではないが、仕事での周囲の評価はかなり高いと聞いている。それに加え人への物腰も公平で、恨みを買ったり反感を持たれるとは到底考えられない。しかしそんな彼が今、事実自分を保てないほど苦しんでいる。それも僕には理解できないほどのレベルで。
「自分が自分じゃないみたいなんだ」
Aは自分の右手を開いて見る。なんてことはない、ごく普通の右手。
「そうかい?あくまで君は君だと思うけどな」
僕は慎重に言葉を選ぶ。「でも何か、こんな風になるきっかけがあったんじゃないのかい?」
するとAは見ていた自分の右手から僕の方に視線をもってくる。
「きっかけ?」
「そうだよ。きっと君はそのせいで少しばかり心が風邪を引いてしまったんだ」
「風邪?」
「そうだよ。風邪だ」
僕は大きく頷く。「でも風邪は侮れない。用心しないと万病のもとだからね」
「万病のもと。そうか…」
Aはそう呟くとベンチからふっと立ち上がり、そのまま前へと歩き始めた。僕は少なからず慌てる。
「A君」
「有難う」
彼は振り向く。いつの間にかその表情は、ついさっきまで思い詰めていたとは思えないくらい晴れやかなものに変わっている。
「お陰で何だか気持ちの整理がついた。感謝するよ」
Aは再び礼を口にすると明るい灯のともる方へと歩いていき、やがてその背中は立ち並ぶビルの林間に消えていった。
「何なんだ?」
僕は呆気に取られながらそのベンチに残り、さっきまでのAの話を一通り振り返ってみる。自分が自分でない。自分を形づくる根本的な二つの側面の片方がもう片方を殺めてしまう。そしてそのことで己の内なるバランスが崩れようとする…。正直何のことだかピンとこない。と云うよりサッパリだ。やはりAは心を病んでいるのだろうか?もしそうだとしたらあのまま帰らせたのはまずかったのではないか?僕はあれこれと逡巡する。
それにしても…。僕はやはりAがそれほど社内で孤独な立場に追いやられているとはどうしても思えない。よし。明日会社で確かめてみよう。こう云うことは同期の女子社員に聞くのが一番手っとり早い。気がねが要らないし、男の僕なんかよりよほど人間関係の機微に精通している。僕はようやく自分の出方を見定めるとベンチを立ち上がり、まだ人通りの残る駅の方に向かって歩き始めた。
「A君?A君ってうちの部所の?」
同期でも声の大きさが際立っている葦原笑子は、ひと際また大きな声を上げる。するとそれに呼応するように第二開発渉外部のメンバーが一斉にこちらを向き、僕は思わずギョッとする。
「あんた、知らないの?」
声をひそめているつもりの葦原の声は、それでも部所内にまる聞こえらしく、むしろメンバーの方が素知らぬ振りをしている。
「何を?」
「A君、もう丸ひと月会社に来てないのよ」
「え?だって僕昨日会ったよ。駅裏の公園で」
「本当に彼だった?」
葦原は目を細くして僕を見る。
「本当にって…。彼の方から話しかけてきたんだよ、僕に」
僕は返す。どうなってるんだ、一体?
「一体どう云うこと?」
葦原は尚も僕に問い返すが、詮方なしとみるや一つ大きなため息をついてみせた。
結局僕らはその日の帰り、近くの飲み屋で待ち合わせ話をすることにした。どうやらAのことは仕事の範疇だけに留まらない、不穏な空気が漂っていたから。
「A君ってさ、確か途中入社だったよね。年齢的には僕らと同期だけど」
「そう。彼、ずっと外国暮らしが長かったみたいだから」
「会社ではどうだったの?最近人間関係で悩んでいるとか?」
僕は立て続けにライム酒を呷る葦原に訊く。
「ううん。元々彼自身クールな印象だったからねえ。言っとくけど職場内でのいじめとかは無かったわよ」
葦原の声はいつもに増してデカい。「それよりもさ、彼あんたにどんな話をしたの?」
僕は少し躊躇ったがこの際隠しても仕方がないと思い正直に話す。
「…ふ~ん。確かにそんな風だったら君じゃなくても放っておけないわよね」
彼女は既に据わりかけた目で僕を見る。僕は頷く。
「正直言うとさ、これまで彼とはほとんど話したことがなかったんだ。それで急に深刻な話をされてもこっちは相槌打つぐらいしかできないもんな」
「まあ、でもそれで良かったんじゃない?問題は会社の方よ。このまま辞めちゃう気なのかな、彼?」
「そこだよ、僕が気になっているのは。彼、仕事を休んでるなんて一言も言ってなかったからね」
「言いにくかったんじゃない?ああ云う人ってプライドが高いから」
「そうかなあ…」
僕は昨夜の彼の様子を思い出す。あの時の彼の目は、まるで真冬の誰もいない浜辺から見る海のように暗く冷たかった。
「部所ではどうしようって言ってるの?」
問われて、葦原はグラスの中身をマドラーでくるくるとかき混ぜる。
「今日ね、課長からの指示で担当がようやく家まで様子を見に行くことになったんだけど」
「そうなんだ」
僕はひと安心する。これでAのことは手から離れた。「で、いつになったの?」
「明日」
「そう。休みだし、早い方が良いよね」
「ねえ、真鍋君。明日暇?」
「え、何で?」
「その担当って云うのがね…」
葦原はそう言うと、僕のグラスにビールをなみなみと注ぐ。「私だから」
僕は今、自分が此処にいることを全くもって信じられない。おそらく隣りの葦原も同様だろう。目の前には不機嫌そうな中年前(おそらく)の男が、いかにも胡散臭そうに僕ら二人の顔を眺めながら、それでも姿勢良くスチール製の椅子に腰掛けている。僕には奇妙に明るい小部屋の空気感が何とも不自然に感じられる。
「で。あなたたちはあの部屋の住人に用があって、偶然現場に居合わせたと云うことですね?」
「そうです。会社の同僚でちょっと気になることがあったものですから」
「そしてあなたは、この方の彼女さんか何か?」
刑事である男は苦み走った調子で問う。
「え?」
当の葦原はそう言ったきりもごもご口を動かすだけだ。いつもの勢いはどうした?僕は隣りにいて不愉快この上ない。
「いえ。やはり同じ会社の人間です。彼女はその同僚がここひと月仕事に出て来ないんで、上司に言われて様子を見に行ったんですよ。むしろ僕の方が付き添いってことで」
「…なるほど」
相手は変わらずじっと僕らを見る。「ところがマンションの部屋はもぬけの殻…どころか、大変なことになっていた」
「そうなんです。最初は何度か呼び鈴を押したんですけど返事がなくて。ふとドア下を見たら…」
「あのけったいなドロドロがはみ出していた」
「ええ。まあ、そんなところです」
僕は相手の微妙な言い回しに一度深呼吸し、次に自分の靴裏を確認する。幸い臭いはなさそうだ。
「それから?」
「思わずドアノブをひねって腰を抜かしましたよ。まさか人の家の中であんな大量のドロドロが飛び散ってるなんて思いませんから」
「まあ、そうでしょうね」
そこで刑事は初めて僕らに同情したような顔になった。「あなた方をここにお呼びしたのは、そもそもあなた方の同僚があの部屋を偽名を使って契約していたと云うこと。そしてその彼がある事件に関わっていて、以前から我々警察も行方を追っていたからなんです」
鏑木と名乗った刑事はそう言って、尚も僕らに詰め寄る姿勢だ。
「A君が偽名?」
僕は葦原と顔を見合わせる。
「彼は他にもいくつかの偽名をその時々で使い分けていました」
鏑木刑事はあくまで淡々としている。「Aと云う名字は本名ですが、ファーストネームは出鱈目です。あなた方がマンションの管理人に連絡を取り、Aの名前が出てきたことで警視庁にも情報が届いた。そして参考人としてここにこうして来て頂いたわけです」
「あの~、ちょっといいですか?」
葦原が小さく手を上げる。
「はい、何ですか?」
「その、A君が関わっていた事件ってどんな事なんですか?」
「興味ありますか?」
「すごく」
葦原は身を乗り出す。
「お答えできません」
「え~」
いかにも軽薄なリアクション。
「おい、葦原」
僕は彼女を制する。ここは取調室だぞ、警察の…。
「だってさ、このまま会社に報告しても『何だ、そりゃ?』で終わりよ。結局叱られるのは私なんだから」
「そりゃ、そうだろう」
止せばいいのに、マンションのドア開けて勝手に中に入っちゃうんだから。
「刑事さん、どうしても?」
「どうしても、です」
「うそ~」
「うそ~、じゃありません。大体あなたたち、勝手に現場を歩き回ったでしょう?」
「そんな事言われたって」
僕は思わず抗議する。「同僚の家があの有様なんですよ。落ち着いてろって方が無理ですよ。大体何なんですか、あの紫のドロドロは?」
「それは今調査中です。少なくとも毒物ではなさそうですが」
「テロとか?」
「いえ、それもどうでしょう。ただ…」
「ただ?」
「気になるのは姿を消したAと、あの部屋の殺風景さ加減です」
「…確かに」
僕は思い返す。見たところ部屋の中にはほとんど物と云うものがなかった。かろうじて目に留まったのは、テーブルの上に電源が入ったままのノートパソコンが一台、それっきりだ。
「でもA君のことを警察が調べてるなんてちっとも知らなかった」
「ああ、それはそうでしょう」
鏑木は至って自然と云う顔をする。
「どう云うことですか?」
「彼は別に人を殺したり、何かを破壊したわけではありませんから」
その刑事の言葉に、僕はAのあの夜の言葉が甦ってきて一瞬どきりとする。
「じゃ、何で追われてるの、A君は?」
葦原は尚も食い下がる。
「……」
鏑木は小さくため息をつき、再び僕らの顔をそれぞれに見る。「これは私の独り事と思って聞いて下さい」
僕らは頷く。
刑事はゆっくりと話し出す。
「Aはアメリカ在住の頃に知り合いと或る会社を立ち上げたんです(例によってネット関係の)。彼はそれで画期的なビジネスモデルを築き上げ、二年足らずの間に莫大な利益をその会社にもたらしました。ところがその後彼は突然会社を辞め日本に戻ってきてしまった。そしてそれと時期を同じくしてAたちの作った会社が不祥事を起こし、アメリカ中を巻き込む大騒動になったんです」
「そんな事が?全く初耳だ」
「アメリカの会社ってのはバケモノです。下手したら程々の事件は金にもの言わせてチャラにしてしまう」
「?」
「つまりユーザーを取り込んで、不祥事そのものをビジネス上のサプライズパーティーにしてしまうんです」
「訳が分かりませんが」
僕は言う。
「同感です。日本人はそう云うところがまだ正常と云いますか、思い切りが悪いと云いますか…」
鏑木は苦笑いを浮かべる。「その騒動は結局会社と顧客がグルになって手打ちと云う形になりました」
「それがつまるところA君と何の関係があるの?」
と葦原。
「会社はその不祥事がAの仕掛けた、謂わば時限爆弾だと主張しているんです。会社を転覆させるための」
「転覆?どうして?自分が作った会社なのに」
葦原は続けざまに問う。
「よくは分かりませんが、どっちにしろ会社には弱みがあるってことでしょう。ですからAを何としてでも探し出したい。そしてあわよくば会社の為にもうひと稼ぎさせたい。そんなところでしょうね」
「そんなこと、A君が断ったらそれで終わりでしょう」
僕は言う。
「だからこその告発なんでしょう」
鏑木は生真面目に言う。
「それで、その時限爆弾って一体どんな騒動だったんですか?」僕は尋ねる。
「あなた方が目にしたあれです?」
「あれ?」
「紫の」
「ドロドロ?」
僕と葦原、そして鏑木刑事は、まるで書割のような取調室の中でお互いをしばし見つめ合った。
アメリカでの騒動のことを知れば知るほど、僕と葦原は「成程、これじゃ日本ではまともなニュースとしての扱いは受けないか」と思い至った。まさかネットゲームにハマったユーザーが一晩で、しかも数千人単位で失踪するなんて。おまけに彼らの部屋にはもれなく例の紫のドロドロがブチ撒かれていたと云う。
「これじゃオカルトだよね。ああ、あっちじゃスーパーナチュラルって云うんだっけ」
葦原は笑いながら言う。
「どっちでもいいけどさ、その消えた人達って全員帰ってきたのかな?」
「そうなんじゃない。さすがにその規模での失踪が未解決だったら、驚愕の刑事事件って事になるでしょう、アメリカでも」
「じゃあ、帰ってきて彼らは普通に生活しているわけ?」
「う~ん。特に書いてないけど、元々ネットゲームにイカれちゃってる人達なんでしょう?日常生活なんてとっくに破綻してたんじゃないかしら」
僕らは警察からの帰り、ネットカフェに立ち寄って一連の事件のことを調べてみた。葦原が英語に堪能で助かった。アメリカのニュースサイトに飛んでそれ関連のニュースを手当たり次第閲覧した。
「日本でもそう云うタイプっているとは思うけど、まだまだ数としては少数派だよね。むこうじゃそう云う人達がお互い手を組んで自分たちを守るから。立派なコミュニティーとか作ってさ」
「こっちじゃ引きこもりか性格破綻者扱いか。でも実際はその分ごく普通って人達の中に潜んでいるのかも知れないけどね」
「そこが日本人なのよ。むしろ他のアジア圏の方が近いんじゃない?アメリカの事情と」
「でもさ、ヒトが消えるなんてありうるか?」
僕は問う。「その失踪者たちのインタビュー記事とかは?」
「一切ないわね。やっぱりタブロイド記者たちが取材を掛けたらしいけど行った先々で断られてるわ。それにネットで暴露しかけた人が本当に何者かに殺されちゃったみたい」
「ええっ?じゃ、やっぱりれっきとした事件になってるじゃん」
「あんたさ、アメリカで殺人がどれくらいの頻度で起きてるか、知らないの?」
葦原に言われて僕は程なく納得する。
「殺人自体、珍しくもなんともないってことか…」
「そう云うこと」
やれやれ、とんだことになったな。成り行きで同僚の悩み事に乗ったのがそもそもの間違いだったか。僕はあの夜のAの顔を思い浮かべるが、そのうち記憶が曖昧模糊となって最後はあの紫のドロドロとなった。思わず頭を振る。
「どうしたの?気分でも悪いの?」
葦原が声を掛ける。
「もういいよ。これだけ調べてみたんだ。Aは何らかの事件に巻き込まれて姿を消した。報告の分はそれで充分じゃないか」
「あれ、もう飽きちゃった?」
「違うよ。元々僕らはAの様子を見にあのマンションに行ったんだ。それ以上のことをする謂れはないし、これ以上関わるのは正直云って危険だと思う」
「そうかしら。別に誰かが傷ついたり、殺されたりしたわけじゃないでしょ(例外はあったけど)。私はA君の居どころもだけど彼の素性そのものを知りたくなってきたわ」
「それは警察の仕事だ。僕らが安易にやるべきことじゃない」
僕は自分の語気が険しくなっているのを自覚する。すると葦原はそんな僕の目を見つめ、それから不意にニコッと微笑んでみせる。
「そうね、了解。今日はこれくらいにしておきましょう」
「今日はって…」
人の話を聞け。
「だから、あなたはもういいわよ。あとは私がやるから」
「一人でかい?」
「いえ、用心棒は必要よ。あなたはいささか頼りないしね」
「誰か当てでもあるのか?」
僕は憤然として問う。
「さっきの刑事さん。帰り際に名刺もらったでしょ」
葦原はぬけぬけと応える。「ねえ、あの人の下の名前、何だと思う?」
知らないよ…。
「知らないよ」
「ヤスベエ。鏑木(かぶらぎ)安兵衛(やすべえ)。どう、名刑事って感じしない?用心棒には打ってつけだと思うけど」
僕は彼女がかざした名刺の名前に思わず冷笑する。そしていつの間にか、その鏑木にAの本名を訊くのを二人共すっかり忘れている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます