第6話

「真鍋君。君がボクを撃ったのか?」

 昏睡から目覚めたAは僕に言った。僕は首を横に振る。彼の言ってる意味が僕には分からない。

「僕はただ、この部屋で君の作ったゲームのプログラム画面を見ていたんだ。そうしたら遠くからさざ波のように声が聞こえてきて、僕はそれに導かれるようにゲームの世界に入っていったんだと思う」

 僕は応える。「でも、それから後はよく覚えていないんだ」

 Aは僕と葦原、そして鏑木の顔をゆっくりと見回す。「ボクは戻ってきたくなかったよ。たとえゲーム世界の中でも、あちらにはこちらにはない安心感があったからね」

「そうでしょうね。A君はあの世界の創造主なんだから」

 葦原が何気に言う。

「違う。そう云うことじゃない。ボクはあの世界の現実を自分の都合で捻じ曲げたりはしない。あの世界は謂わば地獄なんだ。世界中で貧困と戦争が起こり始めていた。でも、ボクはそれでもあちらの世界に魅力を感じる」

「どうしてだい?」

 僕はどこかAに共感しながら問う。

「嘘がないからだよ」

 Aは即答する。「皆が生きるのに必死だった。世界を巻き込んでね。言い換えればそれほど追い詰められていたんだ」

 僕らは沈黙する。Aは続ける。

「ボクはこれまで生きてきて、この世界が向かう先は結局繁栄と云う名の工業化と利潤追求だと思い知った。他はそれを達成する為の方便に過ぎないとね。人々はもはや目に見えない幸福よりも、都会での何不自由ない生活の方を選ぶ。あるいは文明の利器に頼って田舎を都会のミニチュアに塗り替えようとする。老いも若きも寄ってたかってだ」

 Aは淋しく微笑む。「ボクからすればこの世界こそ仮想現実だよ。人間の愚かさの権化だ。しかし時の流れは戻せない。ならばもう一つの世界を作り、ボクらはそこで生きるしかない。現にボクの作った世界を体験した者は、その苛酷さを知りながらそこでしか味わえない魅力に我が身を忘れるんだ」

 狂ってる…。僕は人知れずそうAを評する。これがあのAなのか?いや、違う。少なくとも僕があの夜会ったAはこんな虚ろな目で世界の一面を論(あげつら)ってはいなかった。

「マチス・トライアングルが動き出しています」

 そこで初めて鏑木が発言する。「マチス・フリードマンは何処にいるんですか?」

 僕と葦原はその言葉に思わず反応する。「マチス・フリードマンがあっちの世界に?」

「はい」

 鏑木は応える。しかし説明はない。「Aさん」

「ボクにも分からないよ。ゲーム内でのアカウントはユーザー次第。尤もプロトタイプには時間制限を付けてたけどね」

「一つ聞いてもいいかな?」

 僕はAに問う。「あの紫のドロドロって何?」

「知る訳がないさ。事件当初、スタッフも皆腰を抜かしてたよ、『ユーザーが爆発したらしい』って『Xファイル』並みに大騒ぎしてね。でも本当に驚いたのは、ユーザーがゲームの中にライブ・インしたことが分かった時だった」

 Aは記憶を手繰る。ライブ・イン?僕はその聞き慣れない単語を反芻する。

「何故そんなことが?」

「さあ。ボクらはただゲーム世界を丹念に、そして究極なまでに作り込んでいったまでさ。そこには人間はもちろん、ありとあらゆる現実的要素を配置した。ユーザーが従来のバーチャルなんてものともしないくらいにね」

「どうして舞台が1930年になったの?」

 と葦原。

「きっかけが欲しかったんだよ。『1930』は経済が戦争を生み、戦争が人々の運命を根底から変えていくことを端的に表す暗号(コード)なんだ」

「それがあなたのロマンなんですか?」

 鏑木が言う。

「何?」

 Aは鏑木を初めて真っ直ぐに見る。

「人がどこでどう生きようとその人の勝手です。たとえそれがゲームの中でも。でもあなたは気がついていない。このゲームの本当の恐ろしさを」

「どう云うことだ?」

「このゲームは人の殻を溶かし魂を飲み込む。そして代わりに異形の者を吐き出すのです」

 鏑木は苦しそうな表情で言った。僕らはそれぞれにその意味を頭の中で探る。

「あ」

 つまり、それは…。

「虚実空間のブラックホールなんです、あれは」

「言ってる意味が分からないな」

 Aは怪訝そうに眉をひそめる。

「こちら側の人間がライブ・インするのと同時にあちら側の人間がこちらに召喚される」

 鏑木は重ねて応える。「そう表現すれば理解していただけますか?」

「え?」

 僕と葦原は反応する。

「確かにプロトタイプでは一時的なログインでしたのでその影響は限られたものでした。あちら側からの人間、アナザー・ピープルと呼称されている者たちの目撃報告もなかったと聞いています。しかしあなたはそのリミットを解除したものをマチス・フリードマン・シニアに提供した。そして彼はまもなく行方不明になったのです」

「知らない。ボクにはまずそんな事が起こり得ることだって想定できなかったんだ」

「ライブ・インの兆候が出た段階でもそれがどんな危険を孕んでいるか、検討・予測することは不可能ではなかったはずです」

「待て。どうしてあんたがそんなことまで知ってるんだ。あんたは一体?」

「自己紹介が遅くなりました。私は刑事です。『1930』の世界から来ました。名前は鏑木安兵衛」

 その思わぬ挨拶に、僕と葦原はしばし呼吸するのも忘れその場に立ち尽くす。


 もうお分かりの通り私は現実の人間ではありません。ある意味作られた人間と云ってもいいでしょう。しかしこちらの世界にやってきてから、私は日に日に「生きることの実感(クオリア)」を募らせています。

 想像されるに難くないと思いますが、初めてこちらの世界に現出した時私はそれこそ天地が引っくり返るような思いをしました。『1930』の時代的な要素もあるでしょうが(実際一度はタイムトラベルも疑いました)、何より「此処こそが本物であり、自分たちが生きてきた世界はあくまで夢幻(むげん)のものなのだ」と云う事実を、私は次々と突き付けられることになったからです。

 私はあちらの世界でも刑事でした。時代はもちろん1930年、昭和5年です。私は東京下町の生まれですから、ようやく大正地震(関東大震災)からの復興が進みつつある安堵感と、それに反して経済的に深刻さを増す状況をそこかしこで目にしていました。こう言うとまるで現実の1930年の話(もちろん私個人にとってはそうなのですが)に聞こえますが、実際はそれも作られた世相なのです。史実を基にしながらも人の手によって再構築された、謂わばよくできた模造品としての世相…。しかしそれが分かれば分かるほど私は混乱しました。一体何が原因でこのような不可思議が起きてしまったのか?そして何故、自分だけがここに呼ばれたのか?私には全く見当がつきませんでした。 

 そのことを確かめるべく私はひたすら歩き回りました。慣れ親しんだ(はずの)下町をはじめ神社仏閣を巡り、或いは国会図書館にも足をのばしました。その結果私が行き着いたのは自分が今生身の人間としてここに存在している、そのことだけ。私は自分だけが得体の知れない幻燈箱の中に取り残されているような、そんなやり切れない気持ちになりました。

 しかし分かったこともあります。それはこの世界の人々もやはり自分と世界の「在り様」を探しあぐねていると云うことです。人々はあるべき理想と目の前の現実との落差の大きさに、本来持っているはずの「実感」を鈍らせ、その結果にじり寄る厄災の前兆に鈍感になっている。そればかりか隣人に対して不寛容となり、そんな自分にさえ信頼を置けなくなっているのです。私はその姿を見て自分を問い続けることを止めることにしました。それは出口のない、不毛な所業と気がついたからです。

 不毛…、そうです。自分が何者であれ、何の理由でこちらの世界に来たのであれ、まず大事なことは今まさに自分は此処でこうして存在していると云うこと。そのことにようやく気づかされたのです。

 私は仕事を探しました。ハローワークに通い日雇いで当座をしのぎ、浮浪者たちと寝食を共にしました。時には巡回の警察官に寝床を追われたこともあります。そんな折、腹が空いて文字通り目が回った瞬間私はふと思ったのです。元々作られた存在であるはずの自分がここに現存している以上、自分を取り巻いていた環境にも同じことが起きていてもおかしくはないのではないか…。つまり自分は、こちらでも刑事なのではないかと。

 馬鹿げていると思われるかも知れませんが、私の予想は当たりました。警察庁に問い合わせてみると、私は新設された『特別広域捜査課』の主任刑事、鏑木安兵衛だったのです。そして担当している事件を知って驚きました。アメリカ連邦警察からの依頼案件、『1930』の開発者ミスター・シンジ・アリツカ、つまりAさんの捜索だったのです。

 私は直感しました。この事件と自分の身に起きたことは直結していると。そしてこの事件を解決することができれば自分は元の世界に戻れるのだと。私にとって捜査は、まさに一旦棚上げした自分のルーツを辿る作業に他なりませんでした。しかし事件の深部に入れば入るほど私はその恐ろしさに一人身ぶるいしました。起源(はじまり)となった『1930』と云うゲームの常軌を逸した精密さ。ライブ・イン現象の発生と共に虚実が綯い交ぜになる状況世界(それは倒錯そのものです)。そしてそれら一連の不可思議が一人の男の手によって生み出されたと云う事実にです。

 捜査は難航しました。それと云うのもAさんの身元も所在も結果的に解明できたにも関わらず、その佳境に入る度に捜査に邪魔が入るのです。どうやらマチス本部からの圧力に因るものでした。訳が分かりません。国を跨いで捜査を委ねておきながら、いざとなると横槍を入れてくる。そして本音と建前の入り混じった日本の警察行政がそれに拍車をかけている…。私は次第に限界を感じるようになりました。そんな時被疑者が忽然と姿をくらました。私はすぐに気づきました。これはただの失踪ではないと。そして彼がもう一度姿を現した時、事件はまた大きく動くと。根拠は全くありません。謂わば刑事の勘って奴です。

 通報があったのはそれから間もなくのことです。一般市民から被疑者に関する情報が寄せられるのはそれが初めてでした。そうして私は真鍋さん・葦原さんのお二人とお会いすることになったのです。


 僕は一連の話を聞き終え、それをどう自分の中で整理すればいいのか見当がつかない。どうやら葦原も同様らしい。目の前の鏑木がこの世界の者ではないと云うことが、そしてすでにこちらとあちらの世界が大きく捻じれ始めていることが僕らにはまだ空想そのものに思える。Aを見ると彼は何か呆けたように虚空を見たまま黙っている。瞬間僕はこの世で何が本当で、何が本当でないのか、常識の地の底が抜けたような気分になる。

「つまりヤスベエさんは、こっちの世界の誰かと入れ替わりであちらから飛び抜けてきたってことなのね」

「はい。単純に言いますと」

 鏑木は葦原に頷く。「この『1930』は、膨大な数の中からキャラクターを選び出しログインすることでゲームが進行していきます。そこにユーザーの任意設定は通常許されません。その分『戸籍』と呼ばれる人物設定は極めて精細に行われていますので、ユーザーはそのキャラクターの目線で世界を眺め、まるで別の人格になり替わったかのような独特の気分を味わうことができるのです」

「でも幾らなんでも『1930』世界の全キャラクターを設定するなんて無理でしょう。名前を一人ひとりに付けるのだけでも気の遠くなる作業だ」

 僕は言う。

「確かに容易(たやす)い作業ではないよ」

 Aが顔だけをこちらに向けて言った。「でも実際不可能ではない。ボクと開発スタッフがやったのは、まずゲーム世界の時代設定をとことんまで作り込むこと。次に主要人物を配置することだった。それを終えた後の処理は新規導入したプログラミング用のAIに任せたんだ。するとそれは初期設定された世界観の中で忠実かつ大胆にその他大勢のキャラクターを構築して、予想よりも短期間で現実と何ら遜色のない人間社会、つまり『1930・ニューヨーク』を形成させたんだよ。そしてそれは間もなく全世界に展開されていった」

「AIが…」

「そう。つまり『1930』と云う一見レトロ調のCGゲームは、僕ら人間の気の遠くなるようなアナログ作業と、最新鋭の人工知能とのタッグによる、これまでにない力作なんだ」

「もしかしてそのAIの作業中に想定外のプログラム・ミスが発生したのかも」

 葦原がポツリと言った。

「と云うよりも、むしろAIの故意によるものかも知れない」

 Aが呟く。「当てずっぽうだけどね。なにしろAIには開発している人間自身にも予測ができないほどの進化がある。彼らはある時点で何かをこの世に生み出すと云う行為の醍醐味を学んだのかも知れない。人間が子どもを生み、あるいはものを創造するように。不完全でもいい、実際に現存する何かを。それに必要なのがユーザーのライブ・インなのかも」

「つまりユーザーの生体エネルギーを糧にして、虚構のキャラクターをこの世で現存させるってこと?」

 葦原はそう言ってからハッとしたように鏑木を見た。

「…多分、その通りだと思います」

 そして鏑木はひとしきり気になる咳をした。「失礼…」

「A君。今現在『1930』にライブ・インしている人数は分かるのかい?」

 僕は尋ねる。

「もちろん。でもそれはごく限られた管理スタッフだけが知っている。そして今『1930』はマチスの監視下、完璧な封鎖状態にあるはずだ」

「ところがあなたはその封鎖されているはずの世界に別の手段で入り込むことができた。謂わば抜け穴を使って」

 鏑木が言う。

「知っていたのか…」

「ええ。考えてみれば単純な理屈です。あなたは自分自身をキャラクターとして新たに設定を追加したんです」

「何?よく分からないんだけど」

 葦原が眉をひそめる。

「例えれば、小説家が自分自身を物語に登場させ、意図的に虚実を交錯させる、あれです」

「ああ…」

 僕も納得する。「でも、どうしてわざわざそんなことまでして?」

「興味があったとか?自分が作った『1930』の世界に」

 葦原の問いにAは応えない。鏑木が続ける。

「Aさん。何にせよ、あなたは『1930』の世界にライブ・インした。そして代わりにもう一人のあなたが真鍋さんの前に現れた」

 そう云うことか…。僕の中で何かピンとくるものがある。

「確かにあの時のA君は不可解なことを喋っていた。それが僕にはとても気になって。じゃあ、あの時のA君(つまりもう一人のA君)は元の世界に戻ったってこと?」

「それがそうではないんです」

「え?」

「Aさんはそもそもこちら側に戻ってくるつもりはなかった。だからログインの時間制限も付けなかったんです。その結果謂わば身代わりとしてもう一人の自分をこちら側に送り込むことになった」

「ちょっと待って」

 葦原は呟く。「それじゃ…今の状態って?」

「この世界にAさんが二人いる、と云うことになります」

 鏑木は応える。

 そんなことってありなのか?僕は思う。多分それぞれも同じ困惑を覚えたことだろう。

「おそらくシステムには少なからず損害を与えると思われます」

 鏑木が言う。

「じゃあ、どうして僕にA君を連れ戻させたんですか?」

 一刻も早く自分が元の世界に戻りたかったから?僕は鏑木を見る。

「捜査の為だけと云えば嘘になります」

 鏑木は苦しそうに言う。「それはつまり、創造主であるAさんに『1930』の世界をリセットして欲しかったからです」

「?」

「私にとってあちらの世界は、それはそれでごく普通の生活の場でした。それがこちら側に来てからと云うもの、そして私たちが創造された存在であることが分かってからと云うもの、私は自分の中に或るわだかまりを禁じ得なくなったのです。それはつまり、何故わざわざあの時代の世界を再生させる必要があるのか、と云うことです。私たちにとってあちらの世界は物語の舞台ではなく、あくまで故郷なのです。そこにはこちらと変わらずひたむきに生きる人々の暮らしがあり、そして貧しさがあります。それに加えてあの世界がこれから向かう先には…」

「そうか。あんたはあの世界の未来をこちら側で知ってしまったんだな」

 Aが呟いた。

「もしかしてもう一人のA君も?」

「いや、彼はボク自身だ。ゲームの事もこちら側の世界についても頭では理解しているはず。ただ自身に関しての記憶は限定されている。彼のエゴ・アイデンティティーの困惑をなるべく軽減させるためにね」

 Aは応える。

「じゃ、彼は今、何処で何を?」

「多分この人と同じように、あちらとこちらの空気の違いに戸惑っているのだろうね。やはりバーチャルはバーチャル。現実ではないから」

 すると葦原が手を挙げる。

「ちょっと話を整理しましょうよ。結局何が最優先なの?」

「まずはマチス・フリードマンのようにあちら側に残っている人々を探し出し、こちらの世界に呼び戻すことです。そうしなければこのゲームに手を加えることは極めて危険です。それからもう一人のAさんを探し出し、やはりあちら側に帰っていただくか、さもなくば…」

「さもなくば?」

「プログラムから抹消させていただく」

「殺すってこと?」

「致し方ないと考えます」

 鏑木は応える。僕にはそんな彼が今までで一番遠くに感じる。

「待て。今はボクがそのプログラムだってことを忘れたのか?」

 Aが言った。

「あ、それって?」

「今の実体はあちら。ボクの方がそのプログラム、つまり虚体だよ。いや、この状況ではもうそれもあまり意味がないのかも。おそらく今のボクらは存在そのものがメルト寸前なんだと思う」

 Aは淋しい笑みを浮かべた。「それに今あちら側に残っている連中もそう易々とは帰りたがらんと思うよ」

「どう云うこと?」

「連中はあの世界を満喫してるんだよ。いや、もしくはこちらの世界に心底辟易している。たとえゲームの世界でも入ってしまったらそこが現実。やり様によっては無くなりかけた余生を長引かせることだってできるんだ」

「そうか…。分かりました」

 鏑木が言う。「マチス・フリードの思惑が」

 その時旅館の表でくぐもった物音がしたかと思うと、しばらくして次々と屈強そうな男たちが僕らの部屋に入ってくる。

「どうやら場所を変えなきゃいけないようだ」

 黒服にすっかり取り囲まれた中、Aだけが落ち着いた口調で呟いた。

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