その白い烏は夢を見ていた。


 高い空を飛び回り、今まで得ることができなかった自由と、開放感を心から楽しんだ。自分が何者なのか、どういう経緯で今空を飛んでいるのか、一切を忘れていた。それよりも、ただただ翼を乗せる風の心地よさと、どこまでも続く空の果てしなさに心を奪われていくだけだった。


 世界は烏が思っているよりも広かった。疲れて飛べなくなるまで飛び続けても、その先がなくなることはなく、烏はもっと先を見たい、という気持ちを止められない。だから烏は自分の翼が動くうちはひたすらに雲を切り、空の青さを割くように飛び続けた。そこに明確な意図はなく、飛びたいという気持ちと世界を見たいという気持ちがその烏の翼を動かしていた。


 世界には多くのものがあった。上空からしか見えていないが、山や川、そして海。海は本当にすごかった。嗅いだことのない強い臭いが烏を刺激し、あまり長く海上を飛ぶことは叶わなかったが。


 あるのは自然だけではない。人間の作り出した華やかな街並みなど、自然にはあまりに不釣り合いで、それでいてまた違った儚さや美しさのある景色が広がっていた。


 この世界の季節は、そんな街や自然の色を変えていく。まるで、着物をどんどんと重ねていくように、山や川や街並みの色が変わっていく。


 春には世界は一面の桃色となった。優しい香りが烏を包み込み、眠りから覚めた動物たちがまだ眠たげに体を伸ばし、雪解けの冷たく気持ちの良い水が川を流れていく。


 夏には、その桃色が鮮やかな緑色に染まった。いつもより木々が空に迫ってくるように見え、そして太陽からの光も強く、烏を焼き焦がすようだった。烏はちょっとだが、夏が苦手に思えた。


 秋はその緑色が温かい色へと変わっていくのに烏はたいそう驚いた。徐々に山が着物を重ねていくように、緑色が赤や黄色、橙の色に変わっていく様は何とも言えない神秘だ。


 そして、冬。烏は空から降る冷たいものに驚きはしたが、冬になってからはこの季節が一番好きだと思うようになった。一面雪で真っ白に染まった世界は、音を吸い、動物たちも眠り、静かでまるで一つの絵画の様だと感じた。真っ白な自分の姿さえも溶けてしまいそうな世界に、うっとりとする。自分も世界の一部となったような、そんな不思議な一体感を得られる。


 冷たい風が容赦なく吹き付けるため、他の季節よりは長く飛ぶことはできないが、空気が澄んでいておいしい。烏は胸いっぱいに空気を吸っては吐き出して、冬の匂いを感じていた。


 だが、そうして過ごす中で烏はふと疑問を抱くことが多くなった。自分はいったい何者なのだろう、と。どうしてこの真っ白な身体を携えて、翼を広げこの世界を飛び回っているのか、まったくと言っていいほどわからなかった。


――花代……!


 不意に聞こえた声に、烏は地上へと目を向ける。辺りは朝靄に包まれていたが、まるで目印のように銀世界の中に、桜が満開に咲いていた。烏はその声と、桜に導かれるようにするするとその桜の樹へと降りて行った。





 白亜は朝靄の中、薄く差し込む太陽の光で目を覚ました。桜は相変わらず満開で、時折吹く風に花びらを舞い散らせていく。その桜からはもう、桜の意思を感じることができても、薄紅の意思を感じることはできない。生命力を他の生物へ移した以上、薄紅という存在はもうこの世界からは消えてしまったのだから。


「これでよかったんだ……」


 少々やかましいと感じたことは多々あったが、彼女は彼女なりに白亜に深い感謝と尊敬を抱いているのは知っていた。自分に尊敬など、向けられる資格はないと思ってはいたものの、思うのはアタシの自由だ、と言い返されたことを思い出し、白亜はくすり、と笑みをこぼす。


 最後まで自分をしっかりと貫いた女性だった。白亜がそんな彼女の力になれたことが、今では誇りにさえ思うほどに彼女は気高く、美しかったのだ。


 そんな人をまたもや失ってしまった。


「花代……」


 花のように愛らしく、儚い存在だったあの子とは、まったく逆の性格だったが、それはそれで白亜にとってもいい刺激となった気がする。


 そんな相棒ともいえる相手を失ったことで、白亜は立ち上がる気力もなくし、ただ舞い落ちる桜の花びらを見つめていた。


 白い雪と混ざり合い、美しさだけの銀世界は優しい色も含んだ柔らかな景色となっていく。このまま、この景色に自分も溶けてしまいたい、と願い、最後の羽根をちぎっては手に取った。


 風に揺れる羽根は青白い光を放っているが、その光は薄紅を贈った時と違い、無機質で何の反応も示すことが無い。自分の願いは果たされることはないのだと、見せつけられているようで、白亜は胸の奥底からこみ上げる思いを吐き出すように愛しい人の名前を吐き出す。


「花代……!」


 呼んだところで何も変わることはない。ただ一瞬の静寂の後、一羽の白い烏がゆっくりと白亜の前に止まった。


「……花、代?」


 そう呼びかけると、烏は一瞬首を傾げる。まっすぐに見つめるその烏からは、何の意思も、声も聞こえてこなかった。いつもならば聞こえるはずの声が全く聞こえない。


 それでも、かつての自分を彷彿とさせるその姿は、自分と同じ姿に己の身を変えて飛び去った、あの時の花代そのものだと、白亜にはわかった。


「花代、君なんだね……。ああ、もう俺の声は君には届いていないのかもしれない。それでも、君にまたこうして会えたことを心から嬉しく思うよ……。

 これが神様の巡り合わせというならば、今までの辛いすべての出来事も、これからやってくるであろうすべての辛い出来事も耐えられる」


 そっと指を伸ばし、羽毛へと触れる。雪の中を飛んできたのか、冷たく、ほんのりと濡れた体、そしてその奥から伝わる体温に、白亜の目からは涙がこぼれた。


「君とこのまま飛んでいきたい。でもダメなんだ……。この羽根は俺の願いは叶えてはくれないんだ……。だから一緒には行けない」


 泣きながらも、白亜はゆっくり笑顔を作った。烏はちょんちょん、と跳ねながら、白亜の膝へ乗るとじっと白亜の紫色の目を見つめる。


 そしてひと鳴き。カァ、と。かつての自分のようにそう鳴いたが、今の白亜にはなんといったのかは、わからなかった。


「名前を呼んでくれたのかな……。ああ、ごめんよ花代。せっかく会えたのに、一緒に行けないんだ……」


 さあ、もうお行き。と烏を腕へと乗せて空へ高く掲げた。烏はちょんちょん、とまた跳ねると振り返って白亜を見つめる。そして、その手に握られる羽根を咥えた。


 カッと強い光が辺り一帯を包む。その光は烏も、白亜も、包み込み、白亜はその光の中で意識を失った。


――白亜、やっと会えた……。


 柔らかく、花のように愛らしい声に導かれて……。





 冬のある日、小さな丘の上で咲く不思議な桜の樹から二羽の白い烏が飛び去ったのを村の人々は目撃した。

 寄り添うように飛び去る烏は、長い時を埋めるかのようにお互いを気遣って空の向こうへと消えていった。


 その二羽の烏は冬桜に住む神の化身として、村の人々から大切にされていくこととなった。

 今でも冬になれば烏は連れ立ってこの丘の桜へやってきて、村を見守っていると言われている。

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白羽根の烏 中村 @nakamura_kimama

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