その年の初雪は、思いのほか早かった。

 白亜たちが山を下り、身を寄せられる村を探しているときにはもう、雪がはらり、はらりと降ってきたのだ。


 空気は日ごとに透き通っていき、寒さも増していく。風が冬の厳しさを思い知らせるように吹き付けて来る日もあった。

 眠りについた動物たちの気配は消え、動き回る人間以外は物静かな季節が始まった。


 薄紅は寒さには弱いようで、いつもならば飛び回っているものの、雪がちらつき始めると羽根が濡れるのを嫌ってか、一日中白亜の肩に止まっていることが多くなった。


 それでも、雪の美しさは自然をこよなく愛する彼女の心を掴んだようで、しんしんと降り積もる雪が音を吸い取っていく静寂の中、彼女はただ黙って空から舞い落ちる雪を見つめていた。


 ようやく、人里に下りてきた二人は、小さな丘のある村へと身を寄せることとなった。一冬だけの付き合いとはなるが、心優しい夫婦のもとで仕事を手伝う代わりに、泊めさせてもらうことになった。


 見た目も普通とは違う白亜はよく物の怪の類と間違われるのだが、老夫婦は白亜を見ても特に驚きもせず、また詮索してくることもなかった。


 ありのままを受け入れてくれる夫婦の優しさはそれにとどまらず、仕事を教える時や、はたまた料理の味にまで出ており、白亜は心が温かくなるのを感じていた。


 人間を嫌っている薄紅も、この夫婦にだけは警戒心を解き、いつもお爺さんが細々と語ってくれる民話や、お婆さんが優しい声で歌ってくれる民謡に耳を傾けながら、囲炉裏のそばでほし芋をまとめて紐で縛っている白亜の肩でうつらうつらしていた。


 決して豪華な食事などが出たわけでもなかったが、二人にとっては夫婦と過ごす時間も、空間もすべてが幸せであり、ぬくもりに満ちていたのだ。いつまでもこんな時間が過ごせたらいいのに、と思うほどに。


 冬もだんだんと厳しくなり、一面の雪が地面を覆いつくしてしまったある日の夕方、老夫婦が少し寂し気な顔で戻ってきた。


 囲炉裏で温まっていた白亜と薄紅は、その表情に何かよくないことでもあったのだろうか、と寄り添うように声をかける。


「おじい、おばあ、どうかしたのかい」

「丘の早桜の元気がないみたいでね……」

「ああ、以前話してくれた民話に出てきた、冬に咲く桜のことかい?」

「ああ、この村の守り神なんじゃがな……。何年もこの時期に見事な満開だったんだが……」

「今年は咲いていないのよ……何かあったのかしらねぇ……」


 寒空の中帰ってきた二人は手をこすり合わせながら、囲炉裏のそばへと腰かけた。寂しそうな表情に加え、不安げな表情も浮かんでいる。お婆さんが入れてくれたお茶をすすりながら、白亜はその二人の様子を伺っていた。


 人間という生き物は、何かを信仰することで生きる希望を見出す節がある。すべての事象を神の行ないだと思い、神へ祈りをささげる。


 神様がいることは動物の間でも知られてはいるが、神は気まぐれで到底抗えない強い力を持っている者を指すことが多く、動物たちは恐れることはあってもめったなことで近づくことも、祈ることもしない。むしろ、その気まぐれさにうんざりするときもあるため、信仰することなどありえない。


 だからいまいち白亜はこの老夫婦がそこまで桜を気にかけて、この季節の中わざわざ丘まで出かけて祈りをささげるのかが、よくわからなかった。その行動に何の意味があるのかも理解できてはいなかった。とは言ったものの、その行動の意味を理解するよりも、この老夫婦の元気のない姿というのが、白亜にとって心地いいものではないことは確かではあった。


 それよりも気にかかるのは、春に咲く桜がこの真冬に咲いてしまうという現象だ。桜が何らかの病にかかっている可能性もある。一度見ておく必要があるか、と考えていると、薄紅が珍しく意欲的な声を上げた。


――白亜……。桜の様子を見に行かないのかい。

――なぜだ……? 桜は春に咲くものだ。冬に目覚めさせる必要はないだろう。春に咲いてから、様子を見るのではだめなのか。

――でもいつもはこの時期に咲いていたんだ。この二人にとってはそれが当たり前で、信じる神の依り代なんだよ。

――神、か……。神など、そんな都合のいいものでもないけどな。まあ、行くくらいなら構わない。ただ、眠っている桜の木を起こすことはしないからな。

――それはあんたの好きにすればいいさ。アタシはその桜の木を見てみたいだけだから。


「僕が明日見てきましょう」

「本当かい? ぜひよろしくお願いするよ」

「ええ、お力になれるかはわかりませんが……」

「それでも、気にかけてくださることがうれしいのよ。ありがとう」


 翌朝、白亜は洗濯の手伝いを終わらせると、早々に丘にある桜の様子を見に行った。


 緩やかな丘には化粧をしたように真っ白な雪が積もっている。曇っている空からわずかに差し込む太陽の光が雪に反射して、丘全体が宝石をちりばめたようだった。その丘を上がった広い場所にぽつん、と大きな樹があった。それが例の桜らしい。あたりにはほかの木々も見当たらず、本当にその丘に一本だけしっかりと太い幹を据えている。


 もちろん冬であるため、葉はすべて枯れ、貧相になった枝を寒空に伸ばしているだけで、花を咲かせたりはしていない。


――ずいぶんと寂しそうだねェ……。

――ああ……。


 そっと樹に近づき、幹に触れる。気温のせいか、振り続ける雪のせいかはわからなかったが、心底冷え切った幹からはかすかながら命の気配を感じた。だが、かなり衰弱はしているようだ。


――誰……。

――起こしてしまったか……。起こすつもりはなかったんだが……。

――いいの。私はもう、おそらくは……。いつも、この時期に桜の花を満開にしていたの。でも今年はその力すら残っていないみたい。


 悲しむような桜の声が白亜に届いた。心の中へずっしりと来る声音に、白亜は悟った。もう、この樹の生命力は失われているも同然だ。こうして今会話していること自体が、奇跡のようなものかもしれない。


 白亜の様子から何かを感じ取ったのか、薄紅が桜の枝まで飛んでそっと触れた。


――なんだってまた、冬に咲くことを選んだんだい。

――この村のため。私は一度間違えて咲いてしまったことがあるの……それは暖かい冬の日だった。その私の姿を見て、村の人たちは私を大切にしてくれた。ずっとこの丘で一人ぼっちだった私を、大事にしてくれたの。

 だから私は応えたのよ。彼らを守るために、彼らとともに過ごすために……。

――病気ではなく、自らの意思だったのか。

――ええ。でももう限界。違う季節に咲き続けることは生命力をとても多く使うの、自然に生きている者ならよくわかると思うけども……。私ももう、今年咲くことはおろか、春を迎えることができるのかどうか……。


 その言葉を聞いた瞬間、白亜も薄紅も黙り込んでしまった。生命力が失われれば、あとはこの樹は枯れていくのみで、咲くことは永遠にない。それは実質的な死そのものだ。


 桜もそれは何とかしたいと思っていたようだったが、そもそも生き物の生命力、いわゆる寿命はある程度定められている。木々はその中でもかなりの生命力を持ってはいるが、無理に使い続ければもちろん枯渇する。永遠のものではないのだ。


 それがわかっていながら、この桜は人々のために生命力を削り続けた。そこに意味があるのか、ないのかは別として、それがこの樹の選んだ生き方だったのだろう。


――白亜、どうにかならないのかい。

――……さすがに、どうにも……。ただ……いや、何もない。


 頭に浮かんだ唯一の方法は、さすがに口に出すことはできなかった。この方法を使えるのは、この世界において白亜と薄紅と花代だけだ。とてもじゃないが、口にはできない方法だった。


――いったん戻ろう。ここにいてもしてやれることは何もない。


 どうにかしてやりたい気持ちはあったものの、ここにいたからといってこの樹を救えるわけではない。それに救えたとしても、またそれは理に反することである以上、容易にはできない。


 薄紅は反論があるようだったが、白亜に促されると、おとなしく従って村へと戻った。


 桜の元気が失われていると正直に伝えると、夫婦は涙をはらはらとこぼしながら、「そう……」と小さくつぶやいた。


「最後まで、見守ってくださった桜へお礼を言わなきゃならないねえ」


 そういって台所へ姿を消した夫婦を見送ると、白亜は黙って囲炉裏の近くへ腰かけて、不規則に揺れ続ける炎を見つめていた。


――白亜。

――ん?

――知ってるんだろう、あの桜を助ける方法を。


 珍しく食い気味な薄紅が、白亜の鼻先へ止まって、強い口調で問いかける。


――あるには、ある……。だが……。

――教えておくれ。

――……あの桜へ、別の生命力を加えることだ。だが、それは他の生き物の命を桜へ与えるということになる。それに、他の生き物を犠牲にしたところで、樹の生命力には到底及ばない。もって数年だろう。

――……ほかに、方法はないのかい。

――……。


 あるにはあるのだ、あの桜を永遠ともいえる時間咲かせ続けることができる方法が。


――なぜそこまでこだわるんだ。

――誰かのために力を使い、力尽きようとしてるんだ。それでもその誰かのために生きたいと願う。力をささげたいと、生きたいと願ってる。アタシにはできない生き方を、あの桜はやり続けてるんだ。助けてあげたい。あの桜も、この家の夫婦も、この村も……。

――……。ならば一つ、昔話をしてやろう。


 突然始まった白亜の語りに、薄紅は一瞬反論しようとしたが、静かで有無を言わさぬ目におとなしく白亜の肩へと降りた。


――昔一匹の烏がいた。他の烏と違い、真っ白な身体を持っていたその烏は親からも兄弟からも仲間からもいじめられ、追い出された。

 そんな烏の心を救ってくれたのは、病気がちな人間の少女だった。少女は烏をたいそう可愛がり、名前を与え、生きる意味を与えた。少女の語る夢や、歌声はいまだに烏の耳に残っている、昨日のことのように。


 ただ二人にはどうしても何ともならない壁があった。少女は人間で、烏は烏。言葉を交わすことはおろか、烏は少女の頬に触れることすらできなかったのだ。


 だから烏は願った。自分を人間にしてくれと、神に願ったんだ。そしてその願いには、代償がつくことを知りながら烏は人間になった。その瞬間、烏はこの世界の理から外れ、死ぬことのない永遠の命と、残された片翼の不思議な力を与えられた。


 烏は少女のもとへ駆け戻ったが、少女はすでに息絶えようとしていた。烏が少女の命が消えようとしていることを知り、深い悲しみに襲われたとき、烏に与えられた不思議な力は少女を白い烏へと変えた。

 少女だった烏は、人間になった烏を見つめると、そのまま何も言うことなく飛び去って行った。彼女もまた、この世界の理から外れ、永い時を生きることとなった。

 烏はそれから、一度も少女に再会していない。再会することも、おそらくはもうないだろう。

――……それがアンタなのかい、白亜。


 語り終えた白亜の目から、涙が一筋こぼれた。薄紅は言葉を失い、ただじっと白亜を見つめていた。


 命に手を加えるということが、どういう結果を生むのかは明白だった。そしてそれができるのは理から外れたものだけなのだ。でなければ、この世界が破綻してしまうのだから。


 黙って薄紅を見つめる白亜は、薄紅がこの語りの中で方法にたどり着き、受け入れることができたらその方法を実践してやろう、と心に決めていた。


 薄紅はじっと白亜を見つめ返す。そうして、しばらくの沈黙の後、薄紅は息をのむようにバタバタと羽根をはばたかせた。


――……そうか。そういうことなんだね、白亜。理を外れたものは永遠ともいえる長い時を生きる。それが、理を外れたものの業。つまり、アタシもその一人だ。

 アタシの生命力を使えば、あの桜はきっと……。


 白亜はたどり着いた答えに肯定も否定もすることなく、じっと薄紅を見つめていた。


 あの桜を救う方法は一つだけだった。失われようとしている生命力に新たな生命力をつぎ込んでやればいいのだ。それも、冬に咲く力を永遠に持ち続けられるほどの強い生命力を。


 それができるのは今理を外れ、この世を永遠にさまよっている白亜と、薄紅、そして花代だけ。白亜の羽根の力を使うには、薄紅の生命力をささげるしか方法はなかった。


――でも、それならアンタは……。


 また独りに戻ってしまう。言いかけた言葉を噤んだ薄紅は、白亜をじっと見つめていた。


――それでも、アタシはあの桜の力になりたい。アタシがあの世界を飛び出して、いろいろな場所をあんたと旅して、そしてたどり着いた。アタシが今こうしてここにいるのは、運命なんだ……。

 助けてやりたい。白亜、お願いだよ。


 白亜は心の中から吹き出しそうになる感情に蓋をして、そして大きく頷いた。


 その日の夜、全員が寝静まり村が眠りについた頃を見計らって、白亜と薄紅は桜の元へ向かった。桜も眠っているのか、それとももう話す気力もないのか、何も感じられない。


 灯り一つない闇の中、白亜の青白く輝く片翼が希望の光のように桜を照らしていた。そこから、残り二枚となっていた羽根のうち一枚を引き抜く。そして、桜の幹へ止まる薄紅へと向けた。


 青白い光は徐々に強くなり、薄紅を包んでいく。光はやがて、薄紅の生命力と交わり優しい桃色の光へと変わっていく。


 その光が桜の樹へ完全に取り込まれるまで、白亜は黙って見つめていた。膨大な光が、徐々に小さくなっていくと同時に、桜の樹には温かな生命力が満ちていのがわかった。


――白亜……最後までアタシのわがままを叶えてくれてありがとう。独りにしてしまうことをどうか、許しておくれ。

 叶うならば、あんたが少女と再会できるよう……願うよ。

 さようなら……。


 最後の光が桜へ吸収される前に、温かな人の手が白亜の頬を撫でた。それは出会った時のような細く、そして美しい手だった。


 全ての光が吸収されて、辺りは薄闇へと戻った。残り一枚となった羽根が心もとない灯りを放っている。


 心にはなんとも言えない気持ちだけが残っており、それをなんと言って表現することが正しいのか、今の白亜には分からなかった。


 わかったのは、花代を失った時とは違う喪失感であることだけで、自分の中に残る感情に戸惑う彼は、自分の頬を伝う涙にすら気づかなかった。


 どのくらいそうしていたのかわからない。白亜は薄闇の中、桜の木の下で空を見つめていた。


 これで良かったのだと自分に言い聞かせ、心を納得させようともがいていた。苦しみと悲しみが押し寄せ、どこにもぶつけられない感情は津波のように白亜の心を押し流し、感情が失われるような気すらした。


 その白亜の鼻先に、桃色の小さな花びらが落ちてきた。ひらひらと、雪のように舞い落ちる桜の花びらは生き続けた薄紅の心の結晶のようだった。


 その夜、白亜は満開の桜の木の下で静かに眠りについた。

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