うだるような暑さが過ぎ去っていき、吹く風に冷たさが混ざり始めた。その風が運んでくる秋の匂いと冬の気配に動物たちはせわしなく動き回る。時に歌い、時に踊り、時に遊びまわりながら、これから長きにわたる冬へ向けて、支度を進めていくのだ。


 そんな山の中を、白亜と薄紅は歩いていた。


 夏が始まってからは人里から離れるように山の中で過ごしていた。人里よりも山の中のほうが気温が低く、暑さから逃れることができたのだ。もとより白亜は人間ではないし、薄紅も人間の汚らしい部分をいやというほど見て人間にはうんざりしていた。こうして二人で自然に包まれながら過ごす時間が、何よりも心安らぐ時間になっていたのだ。


 そのため、そのまま人里に降りることもなく、ゆっくりと彩り豊かになっていく山道を二人は楽しんでいた。冬には動物たちの眠りを妨げないよう、人里に降りて過ごす予定にしていたが、秋の山は活気がいい。


 山の中は緑の青々しさから一変し、色とりどりの葉がアーチを作っている。そのアーチの隙間から見える青空が美しいコントラストを作り出し、夏の強い光から柔らかな光へと変わった太陽が降り注ぐ。


 踏みしめる地面には、地へと還ろうとしている葉が絨毯のように敷き詰まっており、山全体を夏の色から秋色へと染め直していた。


 こうなると、人間は山へキノコを採りに入ってくるが、白亜たちは山の中腹部にいるため、めったなことでは出会うことはない。その分、動物たちも気の知れた白亜たちへ挨拶をしつつも、自由に跳ね回っているのだ。


――大したもんだねぇ、みんな冬に向けてどうするべきなのかおっかさんから教えてもらってるそうだよ、白亜。

――そうだろうな、冬は厳しい季節だ。……冬、か……。


 冬、と聞くと自分が人間の姿となってからもうじき一年を迎えてしまうのだ、という事実に驚きを隠せない。ついこの間までは、真っ白な身体と真っ白な翼であの大空を飛び回っていたのだ。なんとはるか昔のことと思えるか。会いたい人には会えず、己の居場所であるはずの空へ帰ることもなく、ただこうしてあてのない流浪の旅を続けている。


 ちょっとばかりうるさい相棒は増えたものの、このままずっとこの世をさまよい続けるのか、それとも残された片翼の羽根を全て失う時この旅を終えることが出来るのか。どっちにせよ果てなく続くであろうこの時を途方もなく感じた。


――どうしたんだい、ぼーっとして。

――いや、何も。


 いったい今花代はどこにいるのだろうか。かつての自分と同じく、真っ白な羽根を携えてこの澄んだ空気の寒空を自由に飛び回っているのだろうか。


 彼女が飛び去ってから、白亜は毎日のように空を見上げるも、そこにあるのは悠々と流れる雲と、世界を包み込むような広い空だけで、白い烏の姿はただの一度も見たことはない。


 なんとなくわかる、このままもう会うことはない。

 これが白亜に与えられた背負うべき業なのだ。


 それでも……それでもあの時自分の力で花代を救えているのならば、自分が人間となったことには意味がある。

 救えていたのなら、だが……。


 自虐的な笑みを浮かべ、やや八つ当たり気味に落ち葉を蹴りあげる。ふわっと舞い上がった落ち葉が落ちていく花びらのように儚げに散っていく。その葉に戯れるように薄紅は楽しげにくるくると飛び回った。


 そんな薄紅を見つめていると、たどたどしい声が聞こえた。


――ちょうちょ!


 白亜が動物や植物と会話するときは、口を開かず、心で会話する。動物たちから発せられるのはその鳴き声だけで、人間となった白亜にはそれはもはや鳴き声としか聞き取れないのだ。その鳴き声とともに、心へ直接言葉が響いてくる。そして白亜も心で語り掛けると、会話が成立するのだ。試したことはないが、おそらく人間の言葉で話しかけても会話は成り立たないだろう。


 ちなみに、この効果は人間の言葉を発せられない生き物に限られる。だから人間と会話するときは、相手の心を読むことはできないし、自分の心を相手に伝えることもできない。おそらくだが、人間は他の生き物と違って、言葉で会話することを主としている。言葉の力を得たことで、心で会話することが無くなってしまったのだろう。


 だから、驚いた。


 「ちょうちょ」と聞こえたたどたどしい心の声とともに、唸るような人間の声がしたのだ。


 白亜が声のした方を見ると、穴倉から人間の子供が出てきた。だが、その姿は普通ではない。四つん這いで熊のように歩き回り、言葉もきちんと紡げていない。肌は土と汚れで黒くなっており、髪は伸び放題になっている。もちろん、衣服は身に着けていない。


――こら……あんまり勝手に出歩いちゃならんよ。蝶々も、食べちゃいかん。

――はあい、おかあさん!


 その声とともに穴倉からのそりと姿を見せたのは、大きな母熊だった。


 母熊と目が合った瞬間、穴倉から這い出たその人間の子供をわが子のように大きな手で抱き込んで隠してしまった。その目には強い警戒心と、恐怖、そして殺意が混ざり合っていた。


 一瞬で何が起きているのかを理解した白亜は、小さく息を吐くと敵意はない、と小さく手を上げて母熊を見つめる。


 この熊はおそらく、この子供を自分の子のように思い、育てているのだろう。どのような経緯でこの子供を拾い、育てているのかはわからないが、双方にとっていいことではないのはよくわかる。


 人間の子供がまともに育っていけるとは思えない上に、おそらく人間がこの光景を見ると母熊は射殺対象となってしまう。それをわかっていて、母熊も白亜を見て警戒しているのだろう。


 だが、しばらく見つめ合うと白亜がただの人間ではないと察したのだろう。母熊の目から警戒心が消えていき、子供を強く抱きしめていた手の力が緩んだ。


――ぷは! くるしかったあ……いきなりどうしたの?

――いいや、なんにもないよ。おっかさんはこの人とお話があるから、少し遊んでおいで。遠くに行っちゃいかんよ。

――はあい!


 子供がようやく母熊の腕から解放され、楽し気に走って落ち葉へと飛び込む。


 その様子を見ながら何か言いたげに口を開いた白亜に、母熊は小さく頭を振って何も言うな、と示した。薄紅もうすうす空気を感じ取ったのか、飛び回るのをやめ、白亜の肩に止まってその母熊をじっと見つめていた。


――あんた、人間じゃないのかい。

――俺は人間ではない、見た目は人間だが。こっちの蝶はもともと人間だ。あんたこそ、いったいどうして人間の子供を……。


 そう問いかけると、ちらりと母熊は子供を見た。ひらひらと落ちていく落ち葉にじゃれるように手を伸ばし、はしゃいでいる。その様子は子熊のそれそのもののようにも見える。周りの動物たちはその事情を知ってか、子供には特に警戒心を持たず、その肩へ飛び乗り、一緒に楽し気に遊んでいた。


――捨てられていたのさ。この山奥にね……。人間の勝手で、あの子は真冬の山に置き去りにされてたんだよ。それをあたしが拾った。あたしも子供を亡くしてね……冬を越えられなかったんだ。

――そうか……。俺からは何も言わない。俺も、自然の生き方に反した生を送っている身だ。

――助かるよ……。

――だが、気を付けた方がいい。俺もまだしばらくは山を下りはしない。しばらくの間、そばで見守っていてもいいだろうか。

――構わないけど……。


 そう返事をしたものの、母熊には不安が残るのか、言葉切れは悪かった。相当大切に育てているのだろう、母熊が子を見つめる目には深い愛情がこもっているのがよくわかる。


――あなたたちの生き方を邪魔したりはしない。ただ、見守りたいだけなんだ……。俺といて、あの子が自分を取り戻すこともないだろう……。だから安心してほしい。


 そこまで言うと、母熊は静かに、そして深く頷いた。そして肩に止まる薄紅へと目を向けた。


――あんたはいいのかい、蝶々さん。

――アタシは白亜についていくだけさ。白亜のいるところが今のアタシのいるところだよ。

――そうかい。じゃあ、ゆっくりしていきなさいな。


 少し気を許したのか、母熊は一瞬鼻を白亜に摺り寄せるとそのままリスたちと楽しげに遊ぶ子供のもとへゆっくりと向かった。


――あんたも気まぐれだねえ。見守っていても何もないだろうに……。

――俺には意味があるのさ。こういうことはすべてな。


 白亜は、人間と動物の共存はありえないと思っていた。花代に出会ったときも、自分は烏で、花代は人間。それ以外にはどうあってもなれないものだと思っていたのだ。動物と人間は共存はできない。人間は勝手で、そして凶悪な者もいる。意味もなく、動物はおろか、同じ人間でさえも平気で手にかける。それが人間という生き物だ。


 花代がそうとは思わないが、それでも彼女を取り巻く人間たちは白亜を邪魔だと思うだろう。特に花代は病気を患っていた。ただでさえ安静にしなければならないところに、烏なんぞ立ち寄っていいと思われるはずがない。


 そうなれば、白亜は花代には会えなくなる。今思うと花代のため、と言い訳をしておいて、ずいぶん自分本位で勝手なことを言っていただけだったのか、ということに気付く。


 あの山に住まう神はそれを見抜いて、白亜にこのような業を背負わせたのだろう。


 だがあの時ほかにどうすればよかったかなど、今でも答えはわからない。その答えを、あの親子を見ていれば知ることができるかもしれない、と思った、ただの気まぐれな行動だった。


 親子とともに過ごしてもう数週間くらいは経過していた。どんどんと気温は下がっていき、山頂からは少しながら雪の匂いも感じられる。


 親子は自分たちの冬ごもりのための巣穴をきれいに整え、そこへ木の実やらなんやらを目いっぱい集めていた。


 いつもは、適当な穴で暖を取るのだが、子供への影響も考え、なるべく人間の使うようなものは使わないようにしていたため、白亜も薄紅も初めて熊とともに眠った。少し硬いが温かな毛が全身を包み込んで、何ともいい寝心地だった。このぬくもりがあるならば、子供が冬を越せなくなることもないだろう、と思うほどの暖かさだった。少し、息苦しくはあったが。


 子供も白亜や薄紅になつき、一緒に遊びまわってくれる友達のように、特に薄紅をお気に入りにしていた。薄紅も、人の子であることを警戒していたものの、存在そのものに関しては熊に近いため、最近は特に嫌がるそぶりもなく、子供の遊び相手になっていた。


 そんな日ももう終わりが近づいている。いよいよ、冬籠りに向けて母熊たちは巣穴を整え始めたのだ。そろそろお別れだな、と考えながら、歩いていた白亜の視界の端に一瞬だが鈍く光るものが映った。この山で、この親子が一番出会ってはいけないものだ。


――危ない!!!


 そう白亜が叫び、母熊に体当たりしたのと、鉛玉が飛んでくるのはほぼ同時だった。山の中にターンと高い銃声が響き、驚いた鳥たちが一斉に飛び立って空を埋め尽くす。


――人間だ、こちらに銃を向けている! 山の奥へ走れ、急げ!


 白亜の言葉にその場にいた動物たちが一斉に山奥へと駆け出した。もちろん、母熊も、子供を抱えて走り出す。その腕からはおびただしいほどの血が流れ出ていた。


 再度、見えた銃口が逃げる母熊を狙っているとわかった瞬間、無意識だったが白亜は母熊を庇うように身を躍らせていた。銃声とともに右肩に重い衝撃が走り、地面へ縫い付けられるように倒れ込む。どくん、どくんと脈打つたびに血が傷口からあふれ出てくる。一瞬振り返った母熊に行くよう手を振ると、母熊はそのまま山の奥へと姿を消した。


――白亜!! 大丈夫かい、白亜!

――問題はない、肩を撃ち抜かれただけだ。それよりも、母熊が撃たれた。そちらの手当てをしなければ……。


 ふと、銃弾が飛んできたほうを見ると、もうそこに人間の姿は見えなかった。どうやら母熊を見失ったらしい。


――まさか、こんな山奥に人間が来るとは思ってなかった……。薄紅、行くぞ……。

――あ、ああ……わかったよ。


 動揺している薄紅を引き連れて、白亜も肩を押さえながら母熊たちの後を追って山奥へと戻っていった。


――あんた、大丈夫かい! あたしを庇って怪我したじゃないか!


 巣穴近くへ戻ると、心配そうに巣穴前で歩き回っていた母熊が白亜のもとへ駆け寄ってきた。

 白亜は落ち葉などで血の跡を隠すと、いまにもとびかかりそうな母熊を手で優しく制す。


――俺は問題ない。子供は、無事か?

――大丈夫だよ、傷一つない。

――ほかの動物たちも、大丈夫か。

――ああ、問題ない。あたしも、撃たれはしたがかすり傷だよ。

――嘘をつくな。かすり傷でそんな出血になるわけないだろう。撃たれた箇所はどこだ。


 鋭く白亜が指摘すると、母熊は降参したように黙って出血している腕を見せた。白亜はそっと触れて傷を確かめる。銃弾がまだ体に残ってしまっている。かなり今でも痛むはずだ。気丈にも、しゃんと立っている母熊に、母親の強さと勇気を感じた。


 白亜は自らの片翼を出すと、その翼から羽根を一枚ちぎった。この片翼の羽根もずいぶん少なくなってきた。まだ一年もたっていないというのに、なんと多くの願いをかなえてきたのだろうか。


 白亜は翼をしまうと、驚いて固まっている母熊の傷口へとそっと当てた。青白い光が次第に強くなっていき、そのまま母熊の傷口を包み込む。母熊は若干の痛みが伴うのか、小さくうめきながらその光を見つめていた。


 やがて、光が体内の鉛玉を吸い出しているかのように、ゆっくりと血にまみれた銃弾が出てきて地面へと落ちた。光はそのまま傷口を閉じていく。羽根が光を失ったときには、母熊の傷跡はすっかりと治っていた。


――あんた……すごいんだね。

――ああ……まあな。これでもう大丈夫だろう。血の跡も辿れないように処理してきている。おそらく、ここまで深く人間が入ってくる可能性はかなり低い。

――おかあさん!


 泣き出しそうな顔で子供が母熊へ抱き着いた。その小さな体を母熊が優しいながらしっかりと抱き寄せる。そこに種族の違いや壁など存在していなかった。ただ、一緒に寄り添って生き、お互いの無事を喜ぶ親子の姿でしかない。


 これでよかったのだ。花代とも、高望みをせず、ただそばにいてやるだけでよかったのだ。それも、また最上級の愛情だった。

 白亜は黙って、その親子を見つめていた。


 それから数日後、白亜と薄紅は、親子に別れを告げて山を下りていた。


 山の冷え込みが強くなってきており、多くの動物たちが冬ごもりの態勢についたこと、そして白亜の中であの親子を見守る理由がなくなったからだ。


 親子は少し寂しそうだったが、それでも行くといった白亜を止めはしなかった。止めることはできない、とおそらく母熊は悟ったのだろう。


 もう葉を枯らし、枝だけがさみし気に空を覆う山道を、白亜と薄紅はただ黙って歩いていた。

 また来年、あの親子が仲良く春を迎えることを願って。

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