しとどに降る雨が春の名残を一気に連れ去ってしまうと、その雨の恵みを受けて生き生きと青い葉を伸ばした夏の季節がやってきた。雨の湿度が残る中、暑さは体中から水分を抜き取るかのようにまとわりついてくる。それは今白亜が歩いている山の中も例外ではなかった。


 辺りを焼きはらうかのように照りつける太陽の光は、空を覆うほどに伸びた木々の葉がさえぎってくれてはいるため、人里よりは充分に涼しい環境ではある。だが、湿度は変わらず、息苦しいと感じるほどの緑の匂いが白亜の鼻をふさいでいた。


 ぽたり、とこめかみから顔を滑り落ちていく汗をぬぐうこともせず、黙って歩く白亜と違い、楽しげに鮮やかな赤い色をした蝶がひらりひらりと飛び回る。まるで踊っているようなそんな姿に、白亜はうんざりしたような顔で正面を向いていた視線を足元へと落とした。人里で購入した何代目かとなる靴は、先日まで降り続いた雨が染み込んだ地面を踏むたびに水分を吸っていく。その不快感に眉を寄せたとき、蝶が白亜の肩へ休憩するように止まった。


――良い匂いだねぇ、白亜。

――俺は……別に。まとわりつくこの暑さが……。

――遊郭にいた頃は……緑なんてもの無縁だったからね。周りは色鮮やかな花たちばかりさ。

――薄紅にはぴったりだな。


 そう言うと蝶はまた白亜の肩を離れ、ひらりひらりと羽根を羽ばたかせる。


 この蝶は、雅という人間だった。虫かごに閉じ込められる蝶のように、外の世界に焦がれ、それでもなお己の運命に逆らうことはしなかった哀れな遊女は、白亜の羽根の力でかつて身にまとっていた美しい着物のような鮮やかな赤い翅を携えた蝶に姿を変えた。


 蝶になった彼女はまず、世界を見たいから、と白亜について回ることを決め、その次に自分のかつての名前『雅』を捨てた。白亜としては雅という名はなかなか風情があっていい、と勧めたのだが雅――もとい薄紅は、その名は捨てるべき名前だから、とあっさり捨ててしまったのだ。


 烏の中では名前は愛する者にもらうとても特別なものだ。そんなに簡単には捨てることはできないのだが、どうやら人間の世界はそうではなかったらしい。


 簡単に捨てられた雅という存在は、あやふやに人々の記憶に残ったまま、姿は完全に失われてしまったのだ。


 ふらふら、ひらひら飛び回る薄紅とともに川の近くまで来た白亜は、ようやくその場に荷を置いて腰を下ろした。その様子に少し先を飛んでいた薄紅が不服そうな表情を浮かべて戻ってくる。触角が不機嫌にぴょこぴょこと揺れていた。


――何休憩してんだい。

――もうじき日が暮れる。今夜はここで寝るんだ、薄紅。水が近くにある場所のほうがいろいろと都合がいい。

――なら……冒険はまた明日ね。


 おとなしく白亜に従って飛び回っていた翅を休めるように肩に止まった薄紅を連れて、川の近くで見つけた小さな横穴に半ば無理やり体を入れる。入り口は狭かったものの、中は白亜が立ち上がってもまだ余裕があるくらい高さがある。先日の雨の影響でじめじめはしているが、太陽の光の届かない空間はひんやりとした空気に包まれており、なかなか快適だ。土壁に触れて硬さを確かめる。地に這った根がしっかりと空間を支えているらしく、白亜は一つ大きく頷いた。


 入り口からわずかに入る光の中で空間内を一通り確認すると、白亜はもう手馴れてしまった火おこしの作業を始めた。湿った空気と、燃やすものもすべて湿気ているためなかなか大変な作業ではあったが、山の木々や鳥たちに教えられて乾いた枝を集めて、何とか火をつける。明るくぼんやりと浮かび上がった今夜の寝床は白亜と薄紅には十分すぎるくらい快適な場所となった。


――アンタはこういう場所を見つけるのがうまいね。火をおこすのもほんとに手際がいい。ほんとにもともと烏だったのか疑いたくなるね。

――疑うのは勝手だが、俺は嘘をつかないぞ。

――疑ってはいないさ。ただ……アタシのこともそうだけど、この世界には不思議も奇跡も存在するんだねぇ……と思ったのさ。

――そうだな……。いいことばかりでもないが。


 陽が沈み、山を静寂が包むと聞こえてくるのは風が吹く音と、川のせせらぎ、そして時折動物が動き回る音だけとなった。少し冷える夜は土壁に背を預けたまま火に当たる。


 ぱちぱち、と軽快な音を立てて燃える火はひんやりと冷えた空間を適度に温めてくれる。その心地よさにうとうとと眠りかけた時、明らかに動物ではない足音が響いた。一定のテンポで草木を踏み分ける足音。このテンポは明らかに人間のものだ。こんな夜に歩き回る人間にまともな者はなかなかいない。白亜は面倒ごとに巻き込まれるのも嫌でなおさらに息をひそめ、明かりが漏れないよう、わずかな隙間をふさいだ。


――子供だねぇ……こんな夜更けに何をしに来たのやら。熊に食われちまうよ。

――子供……? 確かなのか、薄紅。

――耳を澄ませてごらんよ、大人はこんなに軽快な足音じゃないよ。


 薄紅に言われて耳を澄ませると確かに、土を踏む足音に重さが乗っていない。それに加えて大人ならもう少し足音に気を付けて歩けるだろうに、先ほどから葉がかすれる音、小枝がおれる音が妙に山に響いていた。


――子供だ……俺たちの場所に入ってきた、人間の子供だ……。


 ざわめく木々から怯えた動物たちの声が聞こえる。この状況はあまりにもよくはない。子供を敵とみなして襲った時点で、おそらくこの山には鉄砲を担いだ猟師が大量になだれ込んでくるだろう。双方何も得をしないのだ。


 そうなる前に間を取り持つのも、双方と会話のできる白亜の役目でもある。そう理解している白亜は少しため息をついた後、ゆっくりと立ち上がった。


――おやまぁ、珍しい。助けてやるのかい?

――このまま見過ごすのは、俺の主義に反する。


 アンタって奴は……と笑う薄紅を他所に、白亜はその穴の入り口からするりと抜け出ると、ざわつく山の動物たちへ語り掛けた。


――俺が様子を見てくる。みんなは何もせず、ここで待っていてくれ。


 動物たちが白亜の声を聞き、そのまま身を潜めていったことを確認すると、白亜はいまだ足音を立てる方向へ少しずつ近づいて行った。ゆっくりと近づき、暗がりを歩く人影を見つける。川の近くで何かを探すように、その人影は動き回っていた。


「おい、こんな所で何をしている」


 できるだけ声を抑えて話しかけたものの、やはり葉の揺れる音と、動物たちの息遣いだけが僅かに聞こえるこの山では人の声はよく響く。声をかけられた瞬間、ぎゃっと声を上げて人影がバランスを崩した。


「危ない……!」


 咄嗟に飛び出して掴んだ甚平の裾を引っ張りあげ、すんでのところで川へ落ちるのを防いだ。いくら夏といえど、山の川に落ちては助けられない。川は夏であったとしても冷たく、そして流れが早いのだ。落ちてしまってはこの暗さでは助けられなかっただろう。


 ふー、と冷や汗を拭い、改めて助けた人物へ目を向けると、そこにはぶるぶると震えて白亜の顔を必死に伺っているまだ幼い少年が座り込んでいた。明らかにこんな夜に山に一人で来るなどおかしい。少々乱れてはいるが着ているものは粗末なものでは無いところを見ると、生活苦で死を選びに来たわけでもなさそうだ。


「助けてくださり、ありがとうございます……。あの、俺がここに来たことをどうか誰にも言わないでください」

「……言いはしないが、一体こんな夜に何をしていたんだ。とりあえず、ここにいると山の動物達が眠れない。俺と一緒に来るんだ」


 ほとんど表情は見えないが、少年がこくんと頷いたのを見て白亜は優しく手を引いて、自分の寝床へと誘導した。


 中へ入ると少年がすこし息を呑むのが聞こえたが、白亜は気にせず薪を追加し火を起こす。こういう生活が続いたおかげで暗闇でも難なく火が起こせるようになったのは、なかなかいい上達ぶりだろう。


 ぱちん、と軽く音を立てて燃え上がる炎を挟み、白亜と少年は静かにその温もりに当たっていた。白亜の肩に当たり前のように薄紅が止まり、物言いたげな空気を出してくる。


 その空気を無視して、白亜は少年へと目を向けた。


 見た目は平凡な農民の子だ。甚平を羽織り、草履を履いた姿は今まで見てきた村の子供たちと遜色ない。それでいて酷く痩せてもなければふくよかでもない健康的な身体、髪はボサボサではあるが、炎をじっと見つめる黒い目にはなにか強い意志が感じられた。少年が驚かないよう、白亜はフードを深く被っていたが、そんな態度など気にもしていないようにただ一点を見つめている。


「俺は白亜という。事情があって旅をしながら山で野宿をしている身だ。それで、お前はあんな所で何をしていたんだ。山の動物たちはかなり気が立っていたぞ」


 白亜の声に顔を上げると、少年は一瞬白亜の姿に怪訝な表情を浮かべるも小さく頭を振ってからゆっくり頭を下げた。


「……助けてくださりありがとうございました。俺……勘吉っていいます。あの場所で探し物をしていたんです」

「探し物……?」


 こくんと少年、勘吉が頷いた。


「今年の春に姉さんが死んじゃって……その、母さんがあげた簪が見つかっていないそうです。川に落ちて死んじゃったと聞いたので、それを見つければ母さんは元気を出してくれるかと思って……」


 思い出したかのように眉をぎゅっと寄せて唇を噛む勘吉の姿に、白亜は大切な人を失ってしまった悲しみと、その生きていた証を少しでも手元に置いておきたいという気持ちが伝わり、脳裏に花代の姿が思い出された。


 恐らく、勘吉の母親は今でも娘を失った悲しみから立ち直れてはいないのだろう。その娘がつけていた簪を持ち帰ることで、母親の気持ちが戻るとも限らない。その簪があることで永遠に記憶に縛られてしまう可能性もあるのだ。


 それでも、前を向ける可能性が少しでもあるなら。と白亜は勘吉を真っ直ぐに見つめた。


「俺が一緒に探してやる。ただし、俺に会ったこともこれから見ることも誰にも言わずお前の胸の中に秘めておくんだ。約束できるか、勘吉」

「約束できます。本当にいいんですか……!」

「ああ。それじゃあ行こうか」


 白亜が立ち上がり、勘吉の手を再度握って横穴を出る。山がまたざわついたが、白亜がしっかりと手を握っているからか、やがてそのざわめきも遠のいていった。


――探してやるって……アンタあてはあるのかい?

――ああ……。今は幸い夏だ。夏には蛍がいるだろう。彼らに頼むつもりだ。

――アタシは蛍を見たことがたった一度だけあるが、あれは綺麗だねぇ。たった一匹、客がアタシに見せるために連れてきたから直ぐに死んじまったけど……可哀想なことをしたよ。

――蛍と川があれば一度であれば死者を呼ぶことは出来るかもしれない。羽根の力がどこまで及ぶかにもよるが……やれることはしてやりたいんだ。


 力強く言う白亜の言葉に薄紅は何も言わず小さく笑った。


「姉さんが死んだのはこの川の近くって聞いたんだ。それで俺、毎日夜に探しに来ていたんだよ」

「なるほどな。勘吉、少し離れているんだ」


 勘吉が少し不思議そうにしながら数歩後ろへと下がる。と同時に白亜のすることを察した薄紅も白亜の肩から離れ、勘吉の傍を飛び回った。


 白亜は川の流れと蛍たちの場所を確認すると、フードを取った。深く息を吸い、その息を吐き出していくと白亜の周りで木枯らしのような小さな風が起こる。その風が葉を揺らし、その揺れに同調するように白亜の背中が僅かに光る。それは暗闇に浮かび上がる青白い幽霊のようであり、また精霊のようでもあった。そして、その光が一瞬強くなったあと、白亜の背には雪のように白く煙のように揺らめく片翼があった。後ろで勘吉が息を呑み、言葉をなくしているのを感じながらその現れた片翼から、1枚だけ羽根を引き抜いた。


「驚かせたな。俺は物の怪のようなものだ……だがお前を取って喰ったりはしないから安心してくれ。この羽根を。強く願うんだ、姉の魂を呼び起こす勢いでな、お前の姉の簪の在処を教えて欲しいと……」


 勘吉の前に跪き、その小さな手に青白く輝く羽根を持たせる。勘吉は口をはくはくとさせて言葉をどう紡いでいいものか悩んでいたようだが、渡された羽根から感じるぬくもりに落ち着きを取り戻したように、川辺へと近づいた。


 そして、手に渡された羽根を握りしめ、ぎゅっと目を閉じる。勘吉の願いが始まるとそれに答えるように羽根が脈打った。とくん、とくんと光る輝きはまるで姉の命を現すようで、儚く、そして美しい。その光に合わせて、眠りについていた蛍たちが一匹、また一匹と淡い灯りを携えて飛び回り始めた。


――美しいねぇ……まるで魂のようだよ。

――なかなかいいことを言うな、薄紅。川は霊界と繋がっている。死者の魂は夏に川の流れと蛍の光を目印に毎年戻り、そして帰っていくんだ。だからきっと……。


 白亜が水晶のように透明度の高い薄紫の目を、艶やかな白いまつ毛で覆い再び開けた瞬間、今まで数匹しか飛んでいなかった蛍が一斉に誰かを呼び寄せるように川の上を舞い始めた。全員がその蛍の舞いを見つめていると、川の上にぼやけた人影が現れた。人、と言っていいのかすら判別が難しい靄のようなその姿に、白亜は目を細めた。

 

――勘吉……なんでこんな夜更けにここにいるの?


「……姉さん!」


 姿はしっかり取れない。だが、そこに浮かんでいるのは確かに勘吉の名を呼んだのだ。正確には直接語りかける、という方が近いのか……霊と話せるのは近い血族とその声を拾える特異なものだけだ。つまり、今この場で勘吉は、姉の姿は見れずとも声はしっかりと届いている。


――いけないよ、こんなところにいては。お前も落ちて死んでしまう。


「お、俺! 俺、姉さんの簪を探しに来たんだ!」


――簪……ああ、母様がくれたあの簪ね。私もどこにあるのか分からないの。でも、私が落ちたのはここよりもう少し右側……。


 声に合わせて勘吉が、ゆっくりと右側へと移動する。そこ、とか細い声と共に、身を屈め必死に何かを探す勘吉を白亜はただ黙って見守っていた。勘吉の手元を照らすように蛍が飛び回る。これも霊の声を聞き、道を示す蛍ならではの行動だ。そうして数分、勘吉がきらり、と光る何かを掴んだ。


「あった! 姉さん、あったよ!」


――そう、良かった……。勘吉、母様を支えてあげて。私の代わりに……その簪はお前に預けます。私はもう行かなくては。……そこのお方、あなたが私を勘吉の元へ導く力を下さったんですね。本当に、感謝します。


 ふわり、と人影がお辞儀をしたのがわかり、白亜もゆっくりとお辞儀を返した。


――お前をいつも見守っているよ、勘吉。父様と母様を頼んだよ。


「姉さん……! 俺一人じゃ無理だよ、姉さん……待って、姉さん!」


 簪を握りしめ、泣きながら薄れていく姉の姿に手を伸ばす勘吉を見つめると、白亜は何も言わず踵を返した。


――おや、もう行くのかい?

――勘吉にとって全てが夢であったと思える方が都合がいいだろ。勘吉が無事に帰れるよう案内は蛍に頼んである。もう行くぞ、薄紅。


 勘吉は簪を手に握りしめ、泣きながらもう掻き消えてしまった姉のいた空間を見つめていた。残酷だが、死と生は共存することは出来ない。死を迎えてしまえば、どんなに願ったとしてもその願いは死者には届かない。白亜のような死にも生にも捕らわれていない存在ですら、死者と共に過ごすことは出来ないのだ。


 勘吉を再度振り返り見つめると、白亜はフードを再び深く被りその場を離れた。



 翌朝、まだ朝露が葉を濡らし、日も上がりきらない時間、早々に山を下りた白亜と薄紅はまた次の町へと向けて歩き始めていた。踏みしめる大地は昨日よりは少しばかり乾いている。雨のよく降る時期も過ぎ去り、これからはもっと暑くなる。そうなる前にどこかの山へ入らなければ。夏は人間の村で過ごすには暑すぎるのだ。


――本当に、良かったのかい。

――ああ。これでいい。……?


 薄紅が前を飛び回りながら振り返る。その言葉に返事をしつつ、ふと呼ばれて空を見上げると一羽の鳥が白亜の肩に止まった。その小さな嘴に小さな麻袋をくわえ、白亜をじっと見つめている。


――これを、俺にか?


 袋を受け取り、中を覗くと少しばかりの米が入っていた。


――ありがとう、山の精霊様……と山の中で叫んでいたよ。大事にお食べ、私は届けたよ。山の精霊様。


 鳥はそう伝え、くすくすと笑ったあと、暑さの増した空気をかき混ぜるかのように力強く羽ばたいてあの山へと帰っていった。

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