春
花代が白羽根の烏となって飛び立ってから、もう数ヶ月。降り積もった雪が解け、季節は春に移り変わっていた。雪解け水が川に流れ、いつも以上に透き通った川沿いには色とりどりの花が咲き乱れ、動物や虫だけでなく、人間も時折その冷たく透明な春の味を身に沁み込ませようとよりついてくる。その中の一人に烏――白亜はいた。
花代の行方がわからないまま一度は大樹の元へと戻ったが、大樹の勧めで自らの片翼に宿った力を自然や人々のために使うことに決めたのだ。そこからは一度は人里に降り、春になるまでの間多くの手伝いをし、資金を稼ぎ、人間の着る衣服や靴というものを買いそろえた。
ただ、神の言う通り、白亜は見事理を外れてしまったらしい。人間の言葉も達者に話せるだけでなく、白亜は木々や動物、虫、風、川などありとあらゆる生き物や自然の声を聴くことができるようになっていた。そして、それだけではない。自由に出し入れできる片翼、そして一切歳を取らない見た目。何も飲まず食わずでも平気な肉体。
理から外れた白亜は時の流れから疎外され、歳を取ることも、死を迎えることすらもできなくなっていた。
そのため、一か所にずっととどまることはできなかった。ただでさえ、白銀の長髪に、恐ろしく白い肌、紫色の目と奇抜な見た目をしており、よく目立つうえに見た目がほぼ変わらず飲み食いもしないとなると、人々は物の怪だと決めつけて石を投げてくる。昔自分をいじめた親兄弟と同じ目を白亜に向けるのだ。
そんな目も心無い言葉ももうたくさんだった。旅をしながらも、寝泊まりは山の中でするように心がけ、そして時折うわさを聞いて尋ねてくる者の願いを叶えることで、白亜は今の自分の存在を維持することができていた。
白亜の片翼の力はすさまじいものだった。時折、白亜でさえ恐れてしまうようなこともやってのけるのだ。依頼は様々で、小さなことから大きなことまで。それは例えば雨を降らせたり、病の幼子を治したり、ずっと心を閉ざした少女の心を解きほぐしたり……依頼は人間からのものがほとんどで、つくづく人という生き物は欲深い、と思っては花代の願いを叶えたことを思い出し、人によって態度を変えてしまう自分に苦虫を噛み潰したような顔を浮かべる。
そんな風に思うまでに、白亜の羽根にはよもやかなえられない願いなどないのではないか、と思えた。
だが、一つだけできなかったことがある。死者の蘇生だ。その願いだけはさすがに叶えることができなかった。人でも虫でも花でも、与えられた一つの命が尽きればそこで終わりなのだ。その時点で世界の理からは外れてしまう。その外れた命を取り戻すことは、できないのではなく、してはいけないのだろう。仮に生き返ったとしても、白亜と同じ理から外れる人生となるだろう。
多くの人の願いに触れ、多くの自然の声を聞きながら旅をする白亜の中には、人でも自然の生き物でもない不確かな自分の存在に深い寂しさと悲しみがいつも居付いていた。それが、理から外れた者の業なのだ、と白亜は黙って受け入れるしかなかった。全ては自ら望んだことなのだ。それでも、願いを叶えるという生き方を与えてくれたのは、偶然なのか、それとも神の情けなのか。その真意は白亜にはわからなかったが、唯一の生き方に縋りつくしか彼には生きる意味も、生きる術もなかった。
「アンタ、人じゃないね」
自分の生まれ育った山、手伝いをしてきた人里を遠く離れ、春の陽気に誘われるようにして繁華街へ訪れた白亜に声をかけたのは、目が冴えるような赤い着物に豪華な金色の蝶の刺繍が施された着物を着た女だった。黒髪を豪華な飾りで結い上げ、まるで己を誇示するかのような真っ赤な口紅と色っぽい目元、着崩した着物から見せつけるように艶めかしい肩を出した姿は道行く男性の目を惹きつけて止まない。
白亜は髪色と目の色を隠すために購入し、巻き付けてある布を一層きつく締めた。顔に落ちた影を見て、その女性は鼻で笑い飛ばす。
「そんな警戒しなくてもいいさ。何かしようってんじゃない。ただ、人でない奴が自由に歩けるなら、わっちも自由になれる日が来るかもしれない……なんて思っただけだよ」
「自由ではないのか」
「わっちは遊女。籠の中でおとなしく飼われる蝶みたいなもんだよ」
「アンタも気が向いたら遊びにおいで」とその遊女が薄い板のようなものを差し出す。それを黙って受け取った白亜に一瞬意味ありげな視線を送っては、その女性は再び歩き出した。
「
去りゆく背中を見つめながら、その薄板に刻まれた名前を指先でなぞる。それはまるで、監獄に閉じ込められる者への烙印のように思えた。
◇
「雅、勝手に知らぬ男と口をきくな。お前の商品価値が下がる」
雅の見張りでついてきた男がすぐに口を開く。
こうして久々に外の世界に降り立っても、自分は囚われたままなのだという現実へ丁寧にも引き戻してくれる有難い存在だ。外の世界で自由に生きる者たちに焦がれても、それは自分の身を焼き滅ぼす炎になるものだということを思い出させてくれる。
「わかってるさ。たまにはいいだろ、こうして半年に一度の外界なんだ。今日が終わればわっちはまた、檻の中……」
「貴様が望んだ世界だろう」
「……ああ、そうだね」
望まざるを得なかった、という言葉を静かに飲み込むと口元に歪んだ笑みを浮かべ、雅は遊郭へと戻っていった。
雅がこの遊郭に来たのはまだ四歳の時だ。人ならざるものが見えた雅は、貧乏な家庭において育てるには手に余る存在だったのだ。手伝いをしていても、突然ぼーっと遠くを見つめる、誰もいないのに話しかける、など奇妙な行動をよくとっていたらしい。すぐさまこの遊郭へと売り飛ばされた。今では家族の顔さえ思い出せないし、思い出す気もない。
この遊郭でも最初は気味悪がられることも多かったが、雅はこの世界で武器になるものをよくわかっていた。己を磨き、己に生きるための技をつけた。そのおかげか今ではこの遊郭では頂点に立てるほどの売り上げを稼いでいる。
頂点にのみ与えられる個室の大部屋には毎日彼女宛に送られる着物や装飾品がところ狭しと並べられている。その中には目が飛び出すほど高級な糸で織られた羽織や、遊郭の中でも雅にしか持てないといわれる宝石、口紅、おしろいなども混ざっているが、雅がその中でも一番大事にしているのは蝶だった。
決して珍しい品種でもなく、美しい黄金比のものでもない。どこにでもいる蝶が雅のお気に入りだった。そのあたりを飛び回っていた蝶が籠の中に閉じ込められ、餌を与えられる温い世界で生きる様がなんとも自分に重なるのだ。その短い命が尽きるまでを見守り、命が尽きれば新しい蝶を連れてくる。最後の最後まで懸命に生き、それでも自由になることができない蝶の惨めさも、美しさも、儚さも、どれをとっても彼女の心を満たす唯一のものだった。
「ただいま。お前ももうすぐこの世界から消えてしまう……そうだろう、なあ?」
蝶には名前を付けないのが雅のこだわりだった。彼女らは蝶なのだ。固有名詞などあっても悲しみを深めるだけだ。そう、この世界と同じ。だから自分の名前を捨てるのだ。そして新しく名前を付ける、捨てられてもいい名前を。
「アタシの名前を破り捨てる日はいつ来るんだろうねぇ」
雅の小さなつぶやきに蝶が応えるように翅を羽ばたかせた。
◇
「女一人買うのに、こんなに金がいるんだな」
白亜がもう一度雅に会ったのは、初めにすれ違った二日後の晩のことだった。会った、というよりは会いに行った、という表現のほうが正しいだろう。白亜は今まで願いを叶えてきた際に受け取ったお金――報酬はいつも断ってはいるが、ごくたまに押し付けて帰る依頼人もいた。大体が金持ちの人間ばかりだが……。――が一瞬にして消えてしまったことに、驚きを隠せずしきりに瞬きを繰り返しながら雅のいる大部屋へと入った。
開口一番の言葉に振り向いた雅は一瞬驚いたような顔をしたが、その表情はみなぎる自信の仮面の下へと隠されていった。
「わっちは特別だよ。この遊郭では一番値の張る女だからねぇ」
くつくつ、と小さく笑いながら雅は流した視線を白亜へ投げかける。白亜はその視線には気づかずに、通された異様に広く、豪華に飾られた部屋に感心の声を漏らしているばかりだった。
「まさか、アンタが本当に来るとは思ってなかったよ。目的はほかの客とは違うんだろう? 用件は何だい」
「蝶を、探しに来た」
改めて雅の前に座り、用意されたお猪口を手にすると当然のようにそこへお酒が注がれる。小さく波打つ酒を見つめたまま告げると、雅が声を失い酒を注ぐ手を止めた。
視線をあげると、複雑な表情が入り交じった顔で白亜を見ていた。驚きと怒り、そして困惑とわずかに滲む安堵の表情。その表情を白亜は無表情で見つめ返していた。
「わっちが、蝶を飼っているってなぜ知ってるんだい」
「聞いた……というより依頼を受けた。貴女が今抱き殺している蝶の友人から」
「そんな……の、ありえないだろう。アンタ蝶と話ができるとでも言うのかい」
「あぁ……人、じゃないからな。貴女が、見抜いた通り」
そこからは沈黙が続いた。お互い口を開かない。白亜が伝えるべきことは伝えた。
昨夜、雅が連れて行ってしまった蝶の友人から依頼があったのだ。友人を取り返してほしい、と。そして彼女――雅の願いを聞いてあげてくれ、と。白亜にとっては少し意外な話だった。自分の友人を連れ去ってしまった人間の願いを叶えてほしい、とは予想外な願いだったのだ。
――彼女は、蝶になりたがっているの……。貴方なら叶えられるでしょう。
依頼主の蝶が昨夜白亜につぶやくように伝えた言葉は、花代を思い出させ、心に刺さるように何度も脳内で繰り返された。
花代を烏に変えてから、生き物を別の形に変える願いは白亜自らの意志で禁じていた。それを望む者が現れなかったということもあるが。
「わっちは……あの子を籠から出してやることはできない。あの子は……」
ようやく口を開いた雅の声は震えていた。
「アタシそのものなんだよ……」
すがるような目で白亜を見つめる姿は自信にあふれた遊郭の頂点ではなく、孤独を恐れて震えるか弱い少女だった。
いつか、こういう日が来るのではないかとは心のどこかで思っていた。花代が望んだように、自らとは違う姿になりたいという気持ちを強く持つ者が現れるのではないかと。
白亜は俯いて視線を合わせようとしない雅の頬に優しく手を添えた。人間の姿になって知ることが出来た人間の温もり。それがじんわりと掌を通して伝わってくる。
「貴女は、蝶ではない……蝶も、貴女ではない。でも、俺は貴女を蝶にすることはできる」
「出来るはずがない……アタシはここに囚われたままだ。自ら望まずとも、ここ以外に逃げれば待つのは死だよ」
「春は……誕生の季節だ。冬の厳しさを生き抜いた命が羽ばたく。花は咲き乱れ、鳥たちは暖かな春風に歌を乗せる。貴女がその季節に外へ出ることを許され、俺に出会った。そして俺なら唯一その願いを叶えることが出来る。
その代償が如何なるものであっても構わない覚悟があるなら……運命を決めるのは、貴女だ……雅」
白亜は用意しておいた自らの純白の羽根を雅の手に握らせた。窓から吹く風に羽毛を揺らしながら、蝶の鱗粉の様に細やかな光を散らす。それはまるで春に溶けゆく雪のように一瞬で消えていった。
「俺は、明日この街を立つ。その力は俺が近くにいる時のみ力を発する。本当に望むなら、強く願うといい……」
白亜はその一言だけを言い残し、静かに部屋を出ていった。
****
「蝶に……この世界から自由になれる……アタシが十数年願ってきたことが叶うそうだよ、この羽根一枚で……」
全ての客を取り終わり、自室に戻った時もう既に日は昇っていた。眩しく差し込む光は、春とは思えないほど強く雅を照らす。
「……アタシは、雅の名を破り捨てよう……お前ももう、自由だよ」
彼女が籠の扉を開くと、蝶は慰めるように彼女の周りを一周飛び、そのまま光が照らす世界へと消えていった。
その姿を見送ったあと、雅は白亜の羽根にそっと口付けを落とした。
その口付けは彼女が雅として行った最後の口付けとなった。
◇
「聞いたか、雅が消えたそうだ」
「どうやって姿を消したのかすら分かっていないらしい。客からの土産も金目のものも全て置いたままらしいぞ」
昼の刻、街は消えた雅の話題で持ちきりだった。彼女が今朝個室に戻ったのは誰もが確認している。窓はもちろん逃げ出せないようしっかりと格子が嵌められており、部屋の前にも遊郭の入口にも逃げ出す遊女がいないか見張りが立っていたはずなのだ。
それなのに煙の様に雅は消えてしまった。
その噂を耳にしながら白亜はきゅ、と頭に巻いた布を押さえて街を出ていった。
それに付いてくるかのように春風に乗って、一匹の派手な蝶が白亜の前を通り過ぎていった。
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