白羽根の烏
中村
序
雪が静かに大地を白く染めているある午後、人里離れた山奥で傷ついた一羽の烏が歳を重ねた大樹の枝に止まった。
一目見た大樹も、周りの虫たちも誰も彼が烏であることは理解できていないだろう。ぼろぼろになった体を引きずるようにして大樹にもたれかかるその烏は、大樹や虫たちの知る烏とは違い、真っ白だったからだ。
一瞬、雪が彼の真っ黒な姿を白に染めているのかと案じた大樹がわずかに残った枯れ葉で優しくその体を撫でるも、色は変わらない。正真正銘、彼は白い烏だった。
その真っ白な烏は悲愴な面持ちでぼんやりと遠くを見つめていた。その目から涙はこぼれていなかったが、今にも泣きだしそうなその烏の姿に、哀れに思った大樹はそっと葉を揺らし降り積もる雪から彼を守ってやった。
――どうしたんだ?
――……僕の生まれた意味は何なんだろう、と思って……。
――その見た目かい?
――そう、この見た目のせいで僕は兄弟からも親からも見捨てられ、仲間にも気持ち悪いと虐げられた……。
――そうか……。今日はもうお休み。ここにお前さんを傷つける奴はいない。
大樹はそう一言語りかけた後、世界のすべてから守るように細い枝を編み、傷ついた烏を包み込んだ。羽根にこすれる枯れ葉のくすぐったさに身じろぎをしながらも、烏はそっと目を閉じた。
翌朝その烏の目を覚まさせたのは、小さな歌声だった。
辺りは一面、昨晩から降り続いた新雪がつもり、山の音は雪に吸収されている。その中で耳をかすめるかすかな歌声は、冷たく切り込む冷気に混ざってはっきりと烏の耳に届いた。その旋律は降ってはすぐに溶けて消えていく雪のように儚く、繊細で、そして心を打つ切なさがあった。まるで、傷ついて何もかもがどうでもよくなってしまった烏を呼び寄せるような歌だ。首をもたげた烏を見て、大樹は枝を天に伸ばしその歌声の主を探した。
――白烏よ、西の人里から声が聞こえてくるそうだ。
大樹の『白烏』という言葉に少しばかり怪訝な表情を浮かべるも、傷に触る冷たい夜に守ってくれた大樹に無礼を働くほど烏の心は廃れてはいない。
烏の心を汲み取って歌声の主を調べてくれた大樹に少し頭を下げると、もたれていた体を起こし、葉たちが示す西を見つめた。
白く染まった山の合間から細い煙がいくつも昇っている。
――行けるかい?
心配そうな大樹に力強く頷きを返すと、ぐっと翼に力を込めて飛び立った。仲間に突かれ、傷ついた羽根を蝕むように冷気がまとわりつくも、空から見ると人里は案外近く、滑るように烏は歌声の主の元へと向かう。
その少女は、人里の中でも割と大きな屋敷にいた。烏は人間という生き物を何度か見たことがあったが、その少女は群を抜いて細く、顔色も青白かった。薄桃色の着物を身にまとい、黒漆のようにつややかな黒髪をひとまとめにして、髪と同じ黒い瞳で空を見つめて歌っていた。
烏はその屋敷の塀に止まり、その歌声に聴き入った。
「あら、貴方……すごくきれいね」
ふと声がして視線を向けると、少女が笑いかけていた。慌てて逃げようと翼を広げた瞬間、「行かないで」とすがるような声をかけられ、おとなしく烏は翼を畳んで少女をまっすぐ見つめた。
「貴方、形は烏ね。でも、真っ白……とても綺麗だわ。ふふ、私いつもここから空を見てるから貴方たちのことはよく見てるつもりよ。触ってもいいかしら」
しなやかな指が伸びてくる。烏はその指を不思議と怖いと思わなかった。触れてほしいとすら思った。この少女は自分の姿を綺麗といったのだ。それは烏が何よりも欲しかった言葉でもあり、自分という存在を受け入れてもらえた瞬間でもあった。
少女の指先が羽根に触れたとき、烏はどうしようもなく思い焦がれるような気持ちに襲われた。わずかに感じる温もりに強張っていた体からは力が抜け、触れる指へ嘴をすり寄せる。その行動にも少女は嫌がることなく、くすくすと笑い声を漏らした。
「お嬢様?」
後ろで小さく声がかかる。その瞬間少女の指は烏から離れていった。
「ばあやが来るから戻らなきゃ。ねえ、貴方また来てくれる? 私とお話ししましょう」
いつも一人ぼっちなの、そういって眉を下げて笑った少女は、笑っているのに泣いているように感じられた。烏は返事をするように一鳴きすると、「もう行って」という言葉に従って、また寒空へと飛び立った。
大樹の元に帰るまでの間、烏はぽかぽかと心に広がる温もりに動揺したままだった。
その日から、烏は毎日少女の元へと通った。
少女――名は花代という――はまだ9つの歳にして、もう長くは生きられないと言われた重い病気を持っているそうだ。そのため、屋敷からできることは一切許されず、もちろん友人に会うことも許されず、この広い部屋と縁側という狭い世界から、毎日焦がれるように広がる空を見つめ、歌っている、何日も通う間に彼女はそう烏に語ってくれた。
いつも一方的に花代が話すだけだ。烏は聞くことに徹し、言葉を伝えることができない代わりに、一鳴きして返事をする。それだけでも、花代は満足しているようににこにこと懐っこい笑みを烏に向けていた。
最初に会った時と違い花代は実に表情豊かな娘だった。
語ってくれる話は様々なもので、花代の世話をしてくれるばあやの話から、よく読むお話の話、毬を蹴って遊ぶ時の歌を歌ったり、そして時に空想の話も広がっていく。その時の花代は楽しげな表情で、心なしかいつもよりは顔色も良い。
だが時折、あまり帰ってこない両親の話をしては俯き、影を落とす。そんなときでも必死に笑顔を見せ、涙は一切見せない花代は、ひどく烏の心を痛ませた。
その日も花代はあまりいい表情をしていなかった。聞くところによると、今日帰ってくるはずの両親が、帰ってこれなくなったそうだ。縁側に座り、膝に乗せた毬を手で転がしながら、花代はあきらめたような、何もかもを手放したような笑顔で烏を見た。
「貴方と私は同じね。一人ぼっち……でもいいわ、今は貴方がいるもの。そうね、お友達だもの。名前を付けてあげたいわ」
烏は縁側に座る花代の足元の石に止まりながら、じっと彼女を見つめていた。
名前、というのは烏の世界では特別なものとして扱われている。なぜならお互いの名前はもう一生を共にすると決めた相手からしかもらえない。求婚をした証としてお互いに名前を付け合うのだ。そういう相手が見つからなければ、一生ただの烏のまま。つまり、花代は知らないだろうが烏にとって名前をもらうというのは求婚と同じ意味合いを持つ。
烏は人間と烏で求婚などありえないとわかっていながらも、その白い身体が花代の持つ毬のように赤くなってしまうのではないか、と思うほど鼓動が早くなるのがわかった。
「貴方、男の子かしら」
返事をするように一鳴き。すると必ず花代は笑った。
「返事ができるなんて賢いわ。そうね、白亜はどうかしら。この間読んだ外国の絵本にでてきた名前なのよ」
また一鳴き。そうすると花代はまた笑いながら、「白亜」と呼びかける。初めてもらった名前に、烏は初めて自分の身体が白いことに感謝した。体が白くなければ、花代には出会うことができなかったのだ。
すると花代が小さくつぶやいた。誰に聞かせることもなく、ただ小さく一言。近くにいる烏に聞かせるつもりもないような、降り積もる雪のように静かに。
「白亜が人間ならいいのに……」
だが、その小さな一言はとても重たく烏にのしかかった。そこにはどうにもできない壁が立ちはだかっていた。こればかりは、烏にも花代にもどうしようもないことであり、そしてお互いが焼かれるような思いで求めあっていることでもあった。
◇
――人間になりたい?
その夜、笑われると身構えながらも烏は大樹にそうこぼした。すると大樹は笑うでもなく、馬鹿にするでもなく、考え込むように唸った。
――無理ってわかってる。でもあの子は、話し相手がほしいんだ。今の僕じゃ役不足……あの子の心を救ってあげることはできないよ……。助けてあげたいんだ、僕はどうなってもいいから。僕は、花代のために生まれてきたんだから。
――うむ……この山の、頂上に神に通じる洞窟があると聞いたことがある。そこに行けばもしかすると……だが、あくまで噂だ。本当なのかは誰も知らん。
大樹は雪の積もった枝を小さくゆすって落とすと、その先を頂上へと伸ばした。
――行っても無駄足かもしれないぞ。
――……それでも、可能性があるなら。
そう強く言い切った烏を、大樹は止めなかった。黙って頷くと、洞窟があると言われる噂の道を、枝と枯れ葉を使い地図を書いてくれたのだ。
その枯れ葉の地図を嘴に挟み、烏は飛び立った。全ては寂しがり屋で強がりのあの子のため。名前をつけてくれた少女のためだ。
頂上へ行くまでに三日、杉の木の道を越え、そこから見える大熊岩という大きな岩を飛び越え、そして美しい滝に沿って舞い上がる。
そこからさらに四日。頂上についても洞窟はそう簡単には見つからなかった。あちこちを飛び回り、凍てつくような寒さになり、翼がかじかみ動かなくなっても烏は飛び続けた。
そして五日目、満月が昇り辺りが優しい月明かりに浮かび上がった夜、烏はようやく洞窟を見つけた。
どれだけ探しても見つからなかった洞窟は、初めからそこにあったかのように口を開けていた。ここ数日間で何度も前を通った小さな祠の後ろに広がる入口はようやく烏を認めてくれた神からの招待状にも見て取れた。
中は薄暗く、だが奥へ行くにつれ明るくなっていく。その最奥には泉があった。青白く透き通るような光を放ちながら揺れる水面を烏がのぞきこんだ時、どこからか声が聞こえた。
禁断の望みを持つものよ。ここへ惹かれて来たのですね。
――そうです! どうか私の願いを叶えてください!
人間になりたい、という願いですね。
姿の見えない神はそう言い当てると、言い淀むように黙り込んだ。烏は黙って言葉を待った。
人間にするのは可能です。全く同じに出来ずとも近づけることは出来るでしょう。ただし、それは理に反すること。言うなればそなたの業となる行為です。背負う覚悟はありますか?
――あります。僕は……あの子のために……。お願いします!
声は黙り、烏は自分を見定めるような視線を感じ、緊張の面持ちで神の判断を待った。
いいでしょう。そなたの願いを叶えます。泉の水を飲みなさい。
烏が言われた通りに泉の水を啄むと、水は烏を支配するように体そのものに浸透していくのがわかった。それは味わったことのない感覚で、まるで自分という存在が消えてしまうかのような、無に還っていく感覚に近かった。
恐れることはありません。さぁ、目を閉じて……。
落ち着かせるような神の声に、烏はゆっくりと目を閉じた。ゆらゆらと身体は揺れ、感覚が麻痺していくかのようだった。次第に眠気が強くなり、起きていようと抵抗していた烏は、そのまま闇の中へゆっくりと落ちていった。
次に目を覚ました時、烏は体が普段通りの動きをしないことに気づいた。自らの体を見る。透き通るほど白い肌に五本の指。神の計らいなのか、体には白い着物を纏っていた。
「これが……人間……? 花代……!」
道もわからぬままに走り出した烏は不安定な足場や、木の根に囚われながら転がるように山を下った。どこからどう来たのか、空を飛ぶ術を無くした烏には分からなかったが、とにかく走り続けた。途中、虫やほかの鳥たちに道を聞きながら何も食べず、何も飲まず、夜道も気にせず足を進めた。
そうして人里に戻ってきた時には烏は身体中傷や痣でひどい姿をしていたが、そんなもの興奮で痛みを感じることすらなかった。
花代の家に来るなり、塀を上り庭へと降りる。そこには布団へ寝ている花代だけがいた。
そばへ駆け寄ると、花代は以前にも増してやつれ、視界すら定まっていないようだった。覗き込んだ烏を見る目ですら、視点が合わないようにぼんやりと笑いかけている。
「花代……?」
「だあれ……? 貴方……まあ、髪も肌も着物も真っ白……でも目は紫なのね。白亜のようだわ」
「僕だよ、白亜だよ」
「……まあ、白亜のお友達かしら……あの子来なくなってしまったのよ。どこかで泣いていないかしら、誰かにいじめられていないかしら。ああ、私も鳥になりたい。鳥になって、そうすれば……きっと、あの子を……」
ねえ、と笑いかける花代の命がもう消える寸前であることは人間になったばかりの烏でさえ分かった。花代の手をしっかりと握りしめるも、その手を握り返す力さえ花代には残っていなかったのだ。
「花代……ほら、これを。白亜の羽根だよ」
その手にしっかりと羽根を握らせる。烏が唯一烏として残されたのは飛ぶ事ができない片翼だけだったのだ。その翼から取った羽根は、洞窟の泉のように青白く輝いている。
「ああ、白亜……貴方が好きだったわ。私の大切な……」
言葉は最後まで続かなかった。羽根の光が増していき、花代を包み込んだのだ。その眩しさに目を一瞬閉じると、目の前には花代ではなく一羽の白い烏がいた。
その烏は暫く白亜を見つめたあと、一鳴きし茜色の空へと飛び立って行った。
「これが……神様の言っていた業……? あんまりだ……」
烏が生まれて初めて流した涙は、花代の温もりが残る布団に吸い込まれて消えていった。
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