第7話 決着

ダンッ…ダンッ…ダンッ…


 目の前に広がる光景にユリンの目の焦点が徐々に合ってくる。


「へ……」


 ドッペルが大きな何かを振り回し、何度も床に叩きつけていた。小柄な成人男性ほどのサイズのそれをドッペルユリンは軽々と振り回している。振り回すたび、辺りに血と壊れた金属片やガラス片が飛び散る。


 カラン


 「それ」から何かが飛んでユリンの目の前で軽い音を立てた。フレームがひどく歪んでしまっていて、樹脂製のレンズも片側が外れてしまっている。それがオリオのメガネであることをユリンは一瞬、理解できなかった。そして、それを理解した瞬間、ユリンの思考は真っ赤に塗りつぶされる。


「……オリオくんを! 放せ!!」


 弛緩していた脚に、腰に、腕に力が戻る。オリオを振り回しているドッペルにユリンは一足で肉薄した。飛び蹴りの膝がドッペルの顔面に直撃する。ユリンの聖水量は50%、ドッペルの聖水量は100%。聖水量に二乗する《聖水の加護》の出力差は4倍に及ぶ。必殺の一撃にはなりえない。それでも不意の奇襲にオリオを取り落とすドッペル。飛び越えるように宙で前転し、壁を蹴ってドッペルの正面に向き合うユリン。ドッペルはユリンを認識できていない。ユリンはオリオを抱えると石柱の影に隠れた。ドッペルの追撃はない。


(見えて……ない……?)


 ユリンはオリオがかけてくれたマントが、彼の秘蔵の魔法道具不可知の外套であることにようやく気付いた。あれだけの無様を晒しても彼は自分のことを気遣ってくれていたのか。と、ユリンは恥じいる。だが、今はそんな状況ではなかった。


(オリオ……くん……)


 ユリンは手早くオリオの状態を確認する。意識はない。呼吸音にはごろごろと血の音が混ざっていた。全身の打撲と骨折。ガラス片で切った左腕からの出血がひどい。ユリンは胸のさらしを解いて、包帯代わりに巻いた。白いさらしがすぐに赤黒く染まっていく。


(治療しなきゃ……このままじゃ……)


 だが、ユリンの右手の籠手は完全に聖なる力を失っていた。治癒の祈祷が発動しない。ユリンは唇を引き締めると、オリオの上を石柱にもたせ掛ける。


(離れちゃうと……気づかれちゃう……から……)


 《不可知の外套》の有効範囲は一人分しかない。抱えている状態でギリギリのはず。ユリンはオリオから離れないように、そのそばにしゃがみこんだ。自然と彼と正対し、腰の上に座る形になる。オリオに意識があったなら、真っ赤に紅潮して涙の浮かぶユリンの困り顔、わずかに色素の薄い円錐状の柔らかな乳房と下ろした髪に見え隠れするその頂点の桜色の乳頭、前屈姿勢により横につぶれるおへそ、つるんとした下腹の下でデルタを覆い隠す蒼銀の聖印、更にはその下のすぼまりまで、ユリンの全てが見えてしまっていただろう。


(オリオくん……待ってて……ボクがっ……すぐに治す……から……)


 ユリンは聖印に右手を当て、《聖水の儀》を始める。


(あっ……)


 チョロ……


 中断していた分、端緒が開かれるのは早かった。ユリンの中から解き放たれた聖水が聖印に吸収され、聖気としてその右手の籠手に蓄えられていく。


 チョロロロ……


(は……はずかしい……のに……)


 傷ついた意識のない男の子の前で恥ずかしいことをしている。その痴女めいた行為の背徳感がお尻から背筋を上がってきて、ユリンは意識が飛びそうになった。開いた口からこぼれたよだれがオリオの胸を濡らす。


(ちから……ぬけちゃうのも……きたぁ……)


 ガクン。腰が抜けてしまいそうになるのを、何とかこらえる。いつもの《聖水の護り》を失っていく脱力感がユリンを襲っていた。オリオの身体の上に倒れこんで眠ってしまいたい。そんな破滅的な要求がユリンの身体をしびれさせていく。


 聖水の放出は止まらない。ユリンの右腕で、蒼銀の籠手は輝きを取り戻しつつあった。


(……ちりょう……を……)


 恥ずかしさと脱力の快感に溺れながらも、ユリンは左手をオリオに伸ばし治癒の祈祷をオリオに施す。どんなに恥ずかしい思いをしてもオリオを助けたいというユリンの覚悟が極限状態のマルチタスクを実現していた。しかし、それは何があっても、ユリンは意識を飛ばすことができないという意味でもある。それゆえにユリンの意識は一人では到達しえなかった高みへと押し上げられていく。


 チョロロロ……


(オリオくん……お願い……目を覚まして……)


 治癒の祈祷をかけながら、オリオを助けたいユリンが願う。


(だめっ……目を覚ましたら……見られちゃう! はずかしいボクを見られちゃうよぅ……)


 ユリンの理性が悲鳴を上げる。が……。


(ちがうよね? はずかしいボクを「もっとみてほしい」でしょ?)


(え……あ……だめっ……ちがっ……うぅうううんっ……)


 理性のユリンを本当のユリンが絡めとった。本当のユリンが理性のユリンの全てを晒し、くすぐり、愛撫し、犯し、溶かしていく。ユリンの眼が焦点を失う。温かい涙が頬を伝う。舌が空気を求めてあえぐ。


(や……だ……はずかしい……のに……)


 オリオのまぶたが少し動いた。左手にオリオの体温を感じる。普段は意識しない胸の先が痛い。


(ううん……はずかしい……「のが」……)


 オリオがかすかに目を開ける。ユリンは身体の中、「聖水を溜めておくところの更に奥」に火がともるのを感じた。


(きもちいいよぅ……)


 プシャッ


 感極まったユリンがオリオの頭を胸にかき抱く。その瞬間、その火は一筋の奔流となり、聖印を通して、蒼銀の籠手に桜色の焔を宿らせた。その焔はユリンとオリオの身体を優しく包むとさらに大きく大きく広がり、ユリンたちが戦っていた部屋を、ドッペルを、ダンジョン全体を覆いつくしていく。


 【聖杯祈祷】《女神降臨》


 全てをさらけ出したユリンの忘我の境地が天地を繋ぎ、奇跡が現界した。女神の愛がダンジョンの全ての魔物を洗い流し、ユリンとオリオの傷を癒す。


「ユリン……さん……?」

「オリオ……くん……よかったぁ……」


 オリオの無事を確認すると、ユリンはふかふかのベッドに倒れこむように意識を手放した。そのまますやすやと寝息を立て始める。メガネをかけていないオリオの顔に幼い日の親友の面影が重なった気がした。


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