3月29日 『七ツ森の国』蜥蜴岩村

 湖になってしまった場所は、そう簡単に牧草地に戻ってくれなかった。

 二日間足止めを喰らって、今日になってやっと出発だ。


 おかげで俺は、25日から27日までの記録を書くことができたのだが。


 熱心にメモをしていたら、先生が嬉しそうに褒めてきた。まさか自分への愚痴を書き殴られているとも知らずに「関心なことだ」と目を細めて去っていった。


 乗合馬車の客は多少減ってしまった。

 昨日、急ぐ客が「ルートの変更をしろ」と文句を言い出し、「遠回りになる」と御者が拒否して揉めたせいだ。


 あの時は、正直ちょっと怖かった。日本で普通に暮らしていたら、サービス提供側と客が本気で罵り合う場面になんてそうそう出会わない。ネットでは見かけたけど。とにかく、お互い一歩も譲らず面と向かってガツガツ文句を言って、自分の意見を押し通そうとしていた。

 俺は遠巻きに様子を見ているしかできなかった。


 先生は、別に急いでもいないようで、それらを興味深く観察していた。


 そんなわけで、別の移動手段を探す人が出たのだ。

 こうなると一人当たりの運賃が上がる。行商夫婦は去っていく背中たちに交渉を持ちかけたが、徒労に終わったようだった。

 もっとも、二人はその間にも町で順調に商売をしていたのだから、本当にたくましい。


 そして今日は、まだ日の昇らない時間に叩き起こされ、馬車に詰め込まれた。


 二日も休めたバッファローは、風のように駆けた。

 太い車輪がガラガラと激しい音を立てて、乾燥した地面を滑っていく。

 石をくたびガタンと大きく揺れて乗客が跳ね、着地のたびに尻が痛んだ。


 なんせ俺は、女の体だ。


 この二日間ですっかり慣れた気になっていたが、狭いながらもぬくぬくと過ごした宿屋を出て状況が変わったら、勝手の違いを思い知った。


 力の入れ方が、全くわからない。


 しばらく揺れに振り回されてしまった。


 乗車前に男に戻してもらいたかった……。

 っていうか、逞しい男にしてもらいたい。こんな揺れではびくともしないような。シュワちゃんみたいな。スタローンでもいいし。


 泣き言を噛み締めて五時間も上下左右へ揺り倒され、昼前に次の停留所へと到着した。


 『停留所』と書いたのには理由がある。

 そこは目印の大きな木が一本生えているだけの、何もない場所だったのだ。


 先生に促されて降車すると、御者はすぐバッファローに鞭を入れてしまった。

「さよならー」と、行商夫婦の挨拶が遠のいていく。

 荷物を抱えるのに手一杯だったが、ここで夫婦とはお別れだったのかと、ちくりと胸が痛んだ気がした。


 満足に挨拶できなかったせいだろう。


 さて、辺りを見回せば、周りは草原で、空気中に水分が十分含まれている感じがした。気候がすっかり変わったのだ。


「もしかして、国境を越えましたか?」

「よく気がついたな。そのとおり。ここはもう『七ツ森の国』だ」

「国境には何もないのですか? 門とか……許可証とか」


 パスポートと言いそうになったけど、頃合の言葉を見つけることができた。


「『黄金の国』となってからは、国の間の行き来が自由になった。まあ昔から手薄な街道は出入り自由だったが」


 先生は大きく伸びをすると、今度は荷物を木の根元に下ろして、自身も座ってしまった。

 俺もつられて隣に座る。


「逆に街の中へは入りにくくなった。どこも塀や門を強固にして、兵士を立てている」


 説明を終えると、先生は地面を撫でて、何か囁いた。

 すると、草の一本が長く伸びて、先端が先生の手の中に収まった。先生はそれを水筒の中へ差し込む。


 はっきりと、水の流れる音が聞こえた。

 溢れるほどの水が、みるみるうちに溜まっていく。


 先生は手を俺の方へ向けてひらひらさせた。

 水筒を寄越せということか?


 素直に渡すと、それも満タンにしてくれた。

 これは……魔法、ということで、いいのだろうか。


「ありがとう」

と、先生が草を撫でると、それはスルスルと元に戻っていった。


「あ、ありがとうございました」

と、俺も一応地面にお礼した。


 すると先生は、なぜか驚いたような表情になった。

 もしかして阿呆だと思われたかと不安になったが、「お前はいい奴だな」と、いい反応でホッとした。


 あまりに意外な展開だったので、そのあと先生が続けて言った「彼らも喜んでいる」の「彼ら」が誰なのかは聞きそびれてしまった。


 そうして木陰で涼んでいると、大きな山羊が引く荷車がやってきた。

 樽や荷物を積んでいるから、買い物帰りかもしれない。


 通りがかる人自体が珍しかったのでぼんやり眺めていると、先生は手綱を持ったおじさんに手を振った。


「ピピン!」

「え! 驚いた。フィスじゃないか」


 荷車を止めたおじさんは駆け寄ってきて、先生と握手した。

 とても親しそうだ。


「いつかとは言ってたが、こんなに早く戻ってくるなんて」

「せっかく彼らに受け入れてもらえたからな、忘れられる前に戻らなければ」

「それもそうだ。さ、村まで送るよ」


 ピピンさんの言葉は、少し訛っている気がする。この地方の方言かもしれない。


「あれ、そちらのお嬢さんは?」


 こっちに視線を移したピピンさんにそう言われて、あらためて女になっていたことを思い出した。


 そうだった。俺は今、お嬢さんなんだ。

 て言うか、ぱっと見でわかるほど女子なのか!

 

「助手のサトーだ。まだまだひよっこだが」

「はー。孤独を愛するあんたが、ついに助手か。もしかして引退なんて考えてないだろうね」

「やめてくれ。私は引退なんてしないよ」


 先生は楽しそうに笑いながら荷台に腰掛ける。

 ちょっと待ってくれ。先生、すごく愛想がいいぞ。


 人当たりが良さそうな、知的な美人がそこにいる。


 俺の知ってるフィス先生じゃない……

 人っていろんな顔を持ってるな……


 そう思った。


 荷車に後ろ向きに座って足をぶらぶらと垂らしていると、子供に戻ったみたいな気分だった。

 後方へ流れていくのは美しい青々とした深い森。蝶や羽虫がひらひらと飛び回って、轍の周囲は低木やかわいい花に縁取られている。


 砂漠のすぐ隣なのに、信じられない潤いだ。


 しばらく進むと、さっと森が終わり、眩しい光に包まれた。

 反射で振り返った俺は、目の前にそびえる、まるでアルプス山脈のような雄大な山々に目を奪われた。


『すげえ……』

「『スゲェ』と言うのか。意味は?」

「あ……凄いってことです……」

「なるほど」


 先生はそんなどうでもいいことまで書き留めている。

 メモ魔がすぎる。


 送り届けてもらったのは、ピピンさんの住む『蜥蜴岩とかげいわ村』というところだった。ちなみに今日の宿で、今もそこでこれを書いている。


 村の後方の山肌に、蜥蜴の形をした岩があることからこの名前がついたそうだ。

 羊(っぽい動物)の放牧で生計を立てていて、羊毛製品や肉を売っているという。


 『七ツ森の国』は、そのほとんどが森林で、この『大雲山おおくもやま』が唯一の山だとか。


 ここに暮らすのは、その昔、平地から追いやられた一団の末裔なのだそうだが、現在はむしろ珍しい羊毛のおかげで他の地域より潤っているらしい。

 長い時間で見ると、何がいいのかわからないものだ。


 俺は日が暮れるまで、来客にテンションの上がった子供達に村中を引きずり回された。どの実が美味しいとか、どの木が登りやすいとか、川で魚釣りまで披露してもらった。


 夕食はもちろん豪華な羊料理が並んだ。シチューやステーキ、大きなチーズも。


 肉にはクセがあるが、香草がてんこ盛りで、食卓はそれどころではないほど素敵な香りに包まれていた。


 俺はふと思い当たって、小声で先生に聞いた。


「先生、彼らはあなたの素性をご存知なんですか?」

「『知識の塔』の学者であることは知っている。それ以上は話していない」


 その回答に、了解した。余計なことを口走らないように気をつけよう。

 それから、塔については今度聞こう……。


 俺たちは来賓用の小さな家に案内された。

 部屋ではなく、家だ。部屋くらいの小ささだけれど、プライバシーが保護されるのはありがたい。


 俺は干し草のベッドに腰掛けた。

 日はとっくに暮れている。

 疲れているはずなのに、様々な疑問が頭にあって眠くならない。


「どうして王の命令だと言わないんです?」

と、俺はフィスさんに素朴な疑問をぶつけていた。昼間の子供たちみたいに。


「偉い人が来るとかしこまるだろう。私は素の状態を知りたいんだ。逆に王を恨んでいる者なら私の身が危険だ」

「そんな人もいるんですね……」


「お前の国が、急に誰かのものだと言われたらどうだ?」


 逆に聞かれて考えてみたが、答えはすぐに出た。


「嫌です……たぶん」


 正直、俺は自分の国を「自分のものだ」なんて風に考えたことがなかった。だから嫌かどうかなんてわからない。

 たぶん、頭が挿げ変わっても、法が変わっても、どうせ俺は従うだけだろう。


 だけどこのとき、俺の口からは即座に「嫌」が出た。会話を円滑に進めるために出た方便かもしれないが、心の奥から湧き上がってきた言葉かもしれなかった。


 フィスさんは視線を落としてつぶやいた。

「ただの、いち学者の方が、なにかと都合がいいんだよ」

「確かに……そうですね」


「明日は歩くぞ。よく寝ておきなさい」

 森の切れ目、山裾の村の夜は、虫や鳥が鳴き止まない騒がしいものだった。

 

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