熊本地震からの逃亡。(3)

畑に戻ると父と母の姿が無い。近所の方に聞くと車に乗ったようだ。14日のように消防車・救急車に加えヘリも飛んでいる。自分も車に乗り込んだ、軽の前部助手席。余震はまだまだ続いており小さな軽がゴトンゴトンと音を立てて揺れる。ワンセグをつける。どのチャンネルも報道特別番組だった。そこで初めてまた震度7の揺れを益城で観測した事を知った。「万が一」が来てしまった。


父は「とにかく明日からの為に寝ておけ」と言う。膝の悪い母は後部座席で目を瞑っていたが寝てるような気配ではなかった。明日からの為に、か。本当に明日はどうなっているんだろう?二度ある事は三度ある、また大きい地震が…不安で仕方なかった。さすがに三回目が来たら我が家は倒壊するだろう。


席を少し倒し目を瞑るが眠れない。身体は疲れ切っていたが気分が高ぶっているので全く眠れない。ただ体を横たえて目を瞑り、ワンセグの音声を聴いていた。午前3時から4時の間だろうか。時間の感覚がおかしくなっていた。母はやはり眠っていないようでエコノミークラス症候群を懸念してか細目に車外に出て屈伸をしていた。父も恐らく自分と同じ心境で眠っていない。


だんだんと夜が白んできた。外に出てまず我が家を見ると壁のあちこちに亀裂が入り、庭のいたるところに瓦が散らばっている。不意に尿意を催したので庭の端にある梅の木を目印にし、そこで用を足した。明るくなってきたこともあるし近所を歩く。やはりほとんどの家の瓦が飛んでいる。倒れたブロック塀、段差が出来た道路。すぐ裏手にある無人の古いアパートはあとかたもなく全壊していた。なにかあの地震の地鳴りが嘘のように辺りは静けさに包まれていた。何組かの家族とすれ違ったが皆一様に暗い顔をしていたように思う、あたりまえだが。その家族は皆、近所の避難先に指定されている小学校に向かっている様だった。


車に戻る。見てきた事を伝えると母が「私も小学校に行きたい」と言った。「後部座席でも狭い。エコノミークラス症候群が心配だ」とも。確かにそうだ。軽自動車、車内は狭い。自分ももっと狭い助手席にいるからその気持ちは痛いほどわかる。実際に足が痛い。このまま車の中に居続けるのも苦痛だった。だが、そこで閃いた。


「佐賀の叔父にお願いして自主避難しよう」


と。我が家から下道を通っても車で4時間弱で佐賀の父方の叔父の家に着く。何組かのすれ違った家族。想像すると小学校は人で溢れている。それならば…と提案した。しかし父は反対した。


「さすがに3人で押し掛けるのはちょっと迷惑が過ぎる」


それも理解できる。緊急事態だが、3人受け入れるぐらいの余力はあるぐらいはある大きさの叔父の家だ、仏間を借りて暫く避難させてもらう事もできなくはない。


だが、我々家族はそれぞれが持病を抱えていた。父は糖尿病、母は下肢静脈瘤、自分は鬱病…迷惑をかけるのは承知だが持病がある事で更に迷惑をかけてしまう懸念がある。


だから再度、考えて提案した。


「なら、分散しよう。父さんは佐賀の叔父さん、母さんは福岡に居る母方の叔母さん、自分は東京にいる親しい友人に一時的に避難しよう」


小学校が恐らく満杯になっている事、また東日本大震災で見た避難所の状態を考えていると持病持ちの人間が避難してしまうと他の方に迷惑をかけてしまう事は必至だった。


正直に言えば自分の事を考えて言ったのだ。どうしても鬱病の自分がとてつもない大きさの"集団生活"でやっていける自信が無かったのだ。


父親も母親もそれを判っての上だろう、暫く考え込んでいた。その後、この地震を受けて一番印象に残った言葉をひらく。


「自分たちだけ楽な方法をとりたくない」


ああ、そうか、思慮が浅かった。そういう考え方もある、というより自分の中にもあった。しかし、それを聴いた母は自主避難に乗り気だった。確かに狭い車内で暮らし、そこから更に狭いであろう、またいろいろ制約があるであろう避難所での生活は苦痛だと想像できた。だけど父の言った言葉も解る。本当に「自分たちだけ楽」な方法をとるのが許されるのか。


暫く考えていた。もし自分が提案した事を実現する為には何らかの根拠が必要だと考えた。『自分たちだけ楽』という言葉に違和感を感じたのも正直なところだ。暫く考えこう言った、詭弁かもしれないが。


「3人が避難すれば3人分の救援物資が誰かに届く。3人分の水、食料、避難所のスペース。我々が楽をすれば誰か3人が少し楽になる。そう考えてみるのはどうだろうか」


それを言うと父は少し黙っていた。父にも世間体というものがある。近所の人達にとって、この家族は「逃げた」と思われるかもしれないのだ。


だが、それがどうしたというのだろう。逃げる事が悪いのか、と思ったが口には出さなかった。父はハンドルに顔をうずめ考えていた。


午前6時から7時くらいの間だろうか。父は「仕方ない」という表情で「わかった、そうしよう」と言った。苦渋の決断だったのは想像に難くない。


父は車外に出て佐賀に連絡をとっている。幸い、父だけなら全然かまわないという返事だった(これが一家三人だとしたら…ちょっとわからない、が。受け入れてくれたと思う。冷たい方ではない。こちらが勝手に迷惑をかけるのが申し訳ないと思っただけだ)。電話口の叔父は「君も来なよ」といって頂いたがさすがに辞退した。自分には東京に頼るべき知人がいた。


早速、知人に連絡する。最初戸惑っていたが、事情を理解してくれた(本当はこの知人に400万円貸しているというからという"打算"もあった、情けない事に)、何ヶ月でも居ていいと言う。母の叔母も幸い承諾している。


方針は決まった。自分と母親は貴重品を車に乗せていった。とりあえず、熊本から羽田へ飛ぶために熊本空港へ車を走らせた。


しかし、見通しが甘かった。家から30分くらいで空港に着くのだが、空港に侵入したとたん係員が「バッテン」のマークを作った。何故なのか詳細を聞くと滑走路にヒビが入っていて全便欠航が当分続くらしい。ちょっと焦った、が「父が佐賀に向かう」という事が運をもたらしていた。佐賀空港からも羽田便が出ている事を思い出す。ならいっそ佐賀まで行き、途中の空港で降ろしてもらえは良い。母は途中の久留米から西鉄で福岡に向かえる筈だ。


その事を父に告げると「とにかく一端、自宅へ戻ろう」と言った。家の戸締りを再確認する為だ。こうして我々家族は熊本地震からの「逃亡」を始めたのだった。


(4へ続く)

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