熊本地震からの逃亡。(2)
まず今回は地震後、Twitterに投稿した当時のツイートの途中までを紹介する。(1)で書いた内容を補強したい。
え、地震からもう3週間たったのか…という感覚。きっと3か月、3年…時間が経てば経つほどこんな感覚に苛まれるのだろう、当たり前だけど。被災か…(厳密にいうと私はただの地震”経験者”だと思っているけど)。
めんどくさいけど書いとくか。2016年4月14日、午後、定期受診のため益城病院へ。その後、健軍で髪を切り、サンリブ健軍店でトイレを借りに行く。益城病院もサンリブも甚大な被害を受ける事になる。ちょっと地震が早かったら…なんて楽天家の私は考えない事にする。
その後、近くの居酒屋で塩さんま2尾を肴に呑む。20時頃、バスで帰宅。入浴。その後、2階で着替え自室のパソコンの電源を入れて1階へ飲み物を取りに降りる。階段を降りきった時、みぞおちを殴られたような感覚の突き上げを喰らい激しい横揺れ。階段の壁に両手をつき何とか堪える。
無意識に大きな声で「落ち着け、落ち着け!」と叫んだ。明らかに面食らった自分に言い聞かせる為に。揺れは使い終わりの歯磨き粉みたいにゆっくりと、ゆっくりと出し切っていった。揺れが収まり両親のいる部屋へ。しかしドアが開かない。中では母親がパニック状態に陥っていて何かを喚いている。
初めはドア枠が歪んで開かないと思って力任せに開けようとするが、どうやらタンスがドアの向こうに倒れているようで、その後両親は窓から庭へ出て玄関から入ってこれた。父親はなぜか笑っていたように思う。一家全員無事。それを確認して安心したのか母親のパニックも収まっていた。
停電は僅かな時間のみ、水は問題ない。ガスはプロパンだから特に問題はない。一家は落ち着きを取り戻したのか誰ともなく床に落ちているものから片付け始めたが暫くしてその膨大な量に唖然とする。宮城から熊本やって来て8年になる。他人事の様に掴み所のなかった東日本大震災が目の前に散乱していた。
次の行動は親戚への連絡。福岡の叔母へかけるが固定電話も携帯電話も通じない、がSMSが先に向こうから着く。とりあえずの無事を短くしたため親戚へ回すよう願う。福岡も揺れたようだ。父親は気分が高揚してるのか煙草を吸いながらテレビを直して横になって「震度6強だ」と笑いながら言っていた。
宮城に居た頃、倒れそうなものはすべて固定していた。が、熊本でここまでの地震が起こるとは思いもよらず引越業者が固定していったもの以外、何の対策も取っていなかった。頭には天災としては阿蘇山の噴火しかなかった。ただ断層があるのは知っていて地震保険には運よく加入していた。
家族それぞれテレビやラジオに耳を傾けながら片付けをしていた。そうしていると家の前の道路をほぼ途切れなく救急車・消防車がけたたましいサイレンを鳴らしながら益城方面へ駆け抜けていく。テレビから震源は益城という情報を得ていたので被害の重さは家の惨状から察するに相当酷いと思った。
その惨状は朝まで想像でしかなかった。その想像は思っていたよりも良い方にこの時は外れていた。15日になったので片付けは終わりにして皆、床に就き始めた。父親は「人生でこれ以上大きな地震はもう経験しないだろう」と言って。眠るのに恐怖心は感じなかった。父親の言う通りだ。もう地震は来ない。
2016年4月15日。明るくなって庭に散乱している瓦の数が尋常ではない事があの揺れを物語っていた。インフラはすべて無事なので朝食。あんな非日常的な揺れがあったのに普通の、日常の朝食。"猫島警部はとりあえず無事ですが…猫たち…"いわゆる前震の後、真っ先にtwitterに書いた言葉。
朝食の席で、今日は顔なじみ猫の安否を知りたいから父親に車を出してもらうように依頼した。父も母も馬鹿を見る目をしていた。が、私の猫馬鹿度は(もちろん)了承済み。それに好奇心からか野次馬根性で父親は市内を走って被害を確認したいのだろう。承諾した。
ここは熊本市だが益城町にごく近い。周りの家は所々、損壊していた。つつじの美しさとの対比が非日常を醸し出す。市内を中心地に向かって走っていく程、損壊の度合いは少なくなっていくようだった。
ただまだらの様に損壊の激しい家屋が点在していた。それも新しいのに壊れている家、古いのになんともない家が点在してたのに違和感を憶えた。親交のあるお寺さんに寄る。話を聞くとお寺の飼い猫は軒下に隠れて出てこないそうだ。そのほかの場所も回るが会えなかった猫たちが多数。
まあ元々、昼間は出てこない猫が多いので仕方がないが、何か後ろ髪をひかれる思いでそれぞれの場を去った。父親がスーパーで買い物をしている間、車内にてタブレットで情報収集。ちなみにカメラを持って歩くのは不謹慎と思われたので持って来ず。
父親によると販売している商品数が少なかったそうで特に野菜はほとんど無いそう。夕飯はすき焼きだった。調理の手間が少なく洗い物も減らせる。高い焼酎も買ってきていた。今夜は半ばヤケ気味に呑む気満々だ。曰く「スキヤケ」だそうだ。
帰宅し、私もヤケ気味だったので呑んで、やはり疲れていたのか22時頃に就寝。夢も見ないほど熟睡した。ただ念のために家族それぞれ就寝時に「余震」が起こった時のために落下してケガをするようなものは移動していた。
2016年4月16日。そして「もう来ない」はずの本震がやってきた。正確には地震という巨大な目覚まし時計に叩き起こされ寝ぼけ半分だったのか、今では揺れの記憶は前震よりない。揺れが収まるまでじっとしていた。
前震で揺れが収まってやることを学んでいたはずだったが、何より停電したまま、そして今度は水が全くでない。それでも家族の無事を声で確認し、タブレットを出して情報を得る。また叔母に一家の無事を短く書いた。突然、電気がついたその時、壁が変な音を微かにだして少しだけひび割れた。
ちなみに我が家は築30年の2×4構造で、阪神大震災で一棟も倒れなかった積水ハウスだ。そのことが頭にあったので少し油断していたのかもしれない。だから壁のひび割れは私も含め家族全員、衝撃的で家屋倒壊を想起させるに十分だった。ブレーカーを落として前の小さな畑に出た。
近所の方々も続々と集まってくる。こんな深夜にジェットエンジンの音が響いた。それが偵察を行っている自衛隊のF-2だという事は後に知った。暗闇が地震の恐怖を増幅させる。近所の方々と話していると少し寒くなってきたので車で夜を明かすことにした。少しずつ明らかになる情報を伝えるワンセグ。
ここまでが(1)に記したまでのTwitterへの投稿だ。印象深いのは一番初めに
『地震からもう3週間たったのか…という感覚。きっと3か月、3年…時間が経てば経つほどこんな感覚に苛まれる』
とある事だ。今年が丁度3年目。だから今思い出させる限りの熊本地震、今だから当時とは違った視点の熊本地震を引き続き書いていきたい。
たしかにもう3年たったのか…ありきたりだがまるで昨日の事の様だ。
(3)へ続く。
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