木暮親子のアレコレ

その大きな胸と愛に抱かれて(前編)

 私、木暮愛がこの気持ちを自覚してしまったのは、一体いつの頃だっただろうか。正直あんまり覚えていない。

 ただ……私が物心ついた時にはすでに私の視線は彼女にだけ向いていた。誰よりも大好きなあの人に。自分の実の母親に、好意を抱いていた。

 幼い頃はそれでも良かった。幼児が持つ母親への好意は、たとえそれを他の誰かに見られても。とがめる人は誰も居ない。どれだけ母親にべったりだったとしても、それは端から見ればとても微笑ましく思われる事だろう。母親を求める事は子どもの当然の権利なのだから。


 けれど……時が過ぎ。少しずつ私も成長して行く内に。やがて私は気づいてしまう。自分が抱いた母親への感情——その異常性に。

 一般的に。思春期を迎えた子どもは……小学校高学年頃には母親に強く反発し。中学生の頃になると不信感を募らせ、高校生の頃には愛着や依存は弱まっていくそうだ。ところが私にはそれが来なかった。小学校を卒業しても、中学校を卒業しても。高校生になった今でも母親に対して反発や不信感を募らせる事が出来ず。愛着や依存心は日に日に増していくばかり。


『中学生にもなって、親と一緒にお風呂入るなんてあり得ないよねー』


 友人たちのそんな何気ない一言で。ようやく自分がどこか変だと気づく事が出来た。母親とのスキンシップ、一緒には居る入浴や一緒のベッドで寝る就寝……嫌悪感を抱くどころか嬉々として受け入れていたそんな自分に……気づく事が出来た。

 父親や母親、兄弟姉妹に対して家族愛の感情を持つ事。それ自体は決しておかしな事じゃない。けれど……私のそれは、明らかに異常だったのだ。愛着が深すぎる。母親に対しての独占欲が強すぎる。親愛や敬愛の念の枠には収まりきれない感情を、知らず知らずのうちに私は実の母親に向けてしまっていたのである。

 その事を自覚した途端、それはもう焦った。焦って意識すればするほどに、母親のことが気になってゆく。自分も女であるのに、相手は血を通わせた母親なのに。側に居るだけで心臓は早鐘を打つ。全身が熱くなる。いつでもどんな時でも母親の姿を追い、他の事に手がつけられなくなる……母親の事を、良くない目で見てしまっている……

 ほんの少しのきっかけがあれば、きっと私は自分のことを抑えられなくなる。そしたら私は……愛する母親の事を……


 このままじゃマズい。遅かれ早かれ取り返しのつかない事になる。そう確信した私は……高校進学を機に、全寮制の女子校へ通う事を決めた。全寮制の高校ならば3年は家に帰らずに済む。母さんの元を離れれば母さんに手を出さずに済むわけだし。母親の元を離れれば、茹だった頭も冷めるかもしれない。母親と距離を置けばこの自分の恋に、気持ちに整理がついて……健全な、母と娘の良好な関係をもう一度作り直せるかもしれない。そんな私の苦肉の策だった。


『どうしてよ!どうして愛ちゃんはわざわざそんな遠い高校を選ぶの!?全寮制だなんて、気軽に家に帰って来れないじゃないの!?』


 ……まあ、そのせいで母さんとは相当もめたけどね。突然全寮制の高校に通いたい、親元を離れたいと頼み込んだそんな私に母さんは猛反対。生まれて初めてだったなぁ、母さんとあんなに口喧嘩をしたのは。

 長い時間をかけ説得を続け、最終的に勝手に願書を取り寄せてその高校しか受験しないという禁断の奥の手まで使って……どうにか高校はその私の希望するところへいけるようにはなった。

 母さんは……ぶっちゃけ、今もその事を許してないと思う。最後までご立腹だったわけだし。……ごめんね。でも、仕方ないんだよ母さん。こうする事が、私にとっても……母さんにとってもベストな方法なんだ。遅めの反抗期だと思って諦めて欲しい。

 ……反抗しているのは、母さんと言うよりも……この自分の、母さんへの想いそのものに、なんだけどね。



 ◇ ◇ ◇



 母さんの側に居たくなくて。自分の気持ちに踏ん切りをつけるために選んだ全寮制の高校。自分で選んだハズなのに、その学校生活は……正直言って苦痛でしかなかった。

 一応。気の合う友達も出来たし、勉強とか行事とかもそれなりにこなせていた。けれど……母さんと会えない苦痛は想像以上に耐えがたいものだった。

 距離さえ置けば冷めると思った母さんへの気持ちは。寧ろ離れてしまった事でより一層強くなる。四六時中、頭の中は母さんの事でいっぱいになる。母さんの事しか考えられなくなる。


『どうして私は、母さんの元から離れたの?こんな事をしても、意味なんてないのに』


 自分で決めておきながら、大好きな母さんの反対を押し切って選んだくせに。そうやって自分自身に恨み節を唱え、涙で枕を濡らした夜もあった。

 それでも。実家には……母さんの元に帰る事だけはしなかった。夏休み、冬休み……その他長期休暇。帰る機会はいくらでもあったけど、私は何かしら理由をつけては家に帰らずにいた。

 だってこんな状態で母さんに会ってしまったら……もう私、耐えられないもの……

 母さんに会いたい。でも会えない……会っちゃいけない。そうやって鬱屈した日々を過ごし、1年が経ったある日——


「——母さんが……倒れた!?」


 ちょうど春休みに入った頃だった。そんな知らせが、私の元に届いたのは。


「(倒れたって……何!?母さんに何があったの!?事件?事故?病気?あんな、あんな喧嘩別れみたいな事をして…………もう会えなくなっちゃうの……!?嫌だよ、こんなの……母さん、かあさん……母さんッ!)」


 その知らせを聞いた時、私は目の前が真っ暗になった。居ても立ってもいられずに。ただただ夢中になってその身一つで。頑なに今まで帰らなかった実家へと急ぎ帰る事になった私。途中どんな交通手段を使ったのかとか全然記憶に残らないくらい、私は焦っていた。……どうしようもなく不安になって。これまでの事、すべてに後悔して反省して……


「愛菜母さん……ッ!」


 やっとの思いで実家に辿り着き、不安と恐怖を抱えながら。蹴破る勢いで玄関の扉を開けた先で——


「…………お帰りなさい愛ちゃん。そして……もう逃がしません」

「…………は?」


 そんな私を待っていたのは。玄関の前で仁王立ちになり。ちょっぴり額に青筋を寄らせながらも笑顔を向ける、とっても元気そうな母さんだった。

 私の顔を見るなり玄関の鍵を閉め。おまけに1年前に家を出る時にはなかった外付けの鍵を二重、三重にかけた母さん。な、なに?どういうことこれは……?母さん、倒れたんじゃなかったの……?あと、なんでそんな厳重に鍵をかけてるの……?

 混乱している私をよそに全ての鍵を締め終わると。私の手を引き、母さんはリビングまで無言で私を引き連れてソファに無理矢理座らせる。


「あ、あの……母さん。だ、大丈夫なの……?た、倒れたって聞いてすっ飛んで来たんだけど……」

「……ごめんねぇ、愛ちゃん。でも……こうでもしなきゃ貴女……帰ってこなかったでしょう?」

「……!」


 母さんのその一言で、ようやくこの状況を理解する私。ま、まさか母さん……!


「私を家に帰らせるために……嘘ついたの!?あんなに心臓に悪い嘘をついたの!?」


 信じられない。少なくとも、私が知る限り……母さんが私に対して嘘をついたことなんて一度も無かったと言うのに。どうしてそこまでしてまで……


「……悪かったと、思っているわ。出来れば……大好きな愛ちゃんに嘘をつくなんて……そんな愚行、一生したくなかったわ。……けどね」

「け、けど……?何さ母さん……?」

「愛ちゃんだって、私を騙して……勝手に全寮制の高校に通っているんだもの。……これは、お互い様よね?」

「ぅ……」


 それを言われると……私は何も言えなくなる。口ごもる私を前に、母さんは今まで見た事もない表情でブツブツと何かを呟き出す。


「……私……愛ちゃんを全寮制の高校になんか……行かせる気はなかったのに。最後までダメだって言ったのに。愛ちゃんは私の言う事聞かないで、勝手に願書取って勝手に受験して勝手に合格して……勝手に家を出て行って。嫌だったわ。どうしてわかってくれないのって、腹も立ったわ。……それでも、それでも愛娘が選んだ道なのだから……我慢して……我慢して。涙を呑んで通わせる事にしたのよ私……時々で良いから、お母さんのところに顔を出して……元気な姿を見せてくれるだろうって思ってたのよ……」

「か、母さん……?」

「…………それなのに、どうして愛ちゃんは……一度も家に帰ってこなかったのかしらねぇ……?」


 虚ろな表情で、静かに私に問いかける母さん。こ、こんな母さんの顔……初めて見た……あ、あの……今更聞くまでもないんだけど……これ、母さんめちゃくちゃ怒ってないかな……?


「い、忙しくて帰れなくて……そ、それにほら……メールや電話ならちゃんと定期的にしてたでしょ?」

「……ええそうね。定期的に……一ヶ月に一回あるかないかだったわね。メールや電話ですら、毎日はしてくれなかったわね」

「……ええっと」

「……それに。忙しいって言ってるけど……一日くらいは帰る時間はあったはずよね?先生から聞いたわよ。年末年始を寮で過ごしたのは……愛ちゃんだけだったって。他の生徒は実家へ戻ったのに。愛ちゃんだけがお休みを寮で過ごしたって」

「……」

「今回の休みも……愛ちゃん、帰るつもりなんてなかったんでしょう?」


 やばい、完全に見抜かれてる……そしてめちゃくちゃ怒ってる……し、仕方ないんだよ母さん。下手にメールや電話をしたら余計に寂しくなっちゃうし。一日でも帰ろうものなら、もう寮生活には戻れないって確信してたし。

 ……こんなこと、母さんには口が裂けても言えないけど。


「やっぱり反抗期?反抗期なのね?……今まで一度も反抗しない良い子に育った反動が、ここに来て一気に爆発しちゃったのね?……いいわ、だったらこっちにも考えがあるんだから」

「か、考えって……?」


 な、なんだ?母さんは何をしようとしているんだ……?


「愛ちゃんが……勝手に家を出ていってから。私一生懸命勉強したのよ。思春期の子どもとの接し方について書かれた書物を読みあさったり、セミナーに参加したりしてね」

「そ、そんな事してたの母さん……!?」


 それを聞いてちょっと不安になる。変な宗教とかにはまったり、高額な壺とか買わされたりとかしてないよね……?母さんって人が良いから、そういう系のカモになりやすそうだし心配だわ……


「そこで私は学んだの。年頃の子どもに必要なものってなんなのかを」

「……なんだか嫌な予感がするけど、一応聞く。それは何?」

 恐る恐る尋ねると、母さんは満面の笑みを浮かべてこう答えたのだ。

「——。愛ちゃん、私のおっぱい……吸ってみてくれないかしら」

「…………(ダッ!)」


 嫌な予感、的中。私は無言で駆け出した。目指すは玄関。脇目も振らず一心不乱に逃走を図る私だったんだけど……


「(ガチャガチャガチャガチャ!)……ッ!?あ、開かな……!?か、鍵がぁ!?」


 玄関に辿り着いた私を待っていたのは。玄関の扉に何重にもかけられた鍵の山。し、しまった……母さんはこれを見越して鍵を……!?


「ふ、ふふ……どこへ行こうというのかしら愛ちゃん……話はまだ終わっていないわよ」

「ま、待って母さん……!お願い、離してぇ……!?」


 そうこうしているうちに、ゆっくり歩いて余裕で追いかけてきた母さんに首根っこを掴まれて。そのまま問答無用でリビングへと連行されてしまう私なのであった。

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