第4話 シオタニ氏の小噺

 今日もそのタクシーは客を乗せる。コバヤシはいつも通り小噺を聞き出して、それに見合った運賃を要求した。だが、今日のお客は一味違った…客と呼んでいいものやら?


 その乗客は、黒いジャンパーに深くかぶった野球帽にジーンズ。そして大きめのスポーツバッグを持っていた。どこか落ち着きがなく、何かをためらっているようにも見えた。


 ドライバーのコバヤシはいつも通り行き先を尋ねる。その男、シオタニは明らかに不審人物だ。だが、コバヤシは冷静沈着。相手が奇人であってもお構いなしだ。


 何故なら自分も奇人だからだ。少し悩んだ様子を見せるシオタニ。どうやら、どこに行くかは決めていないのかもしれない。シオタニは疲れ切った口調で。


「そうだな…とりあえず豊島区まで行ってくれ」

「かしこまりました」


 しばらく車を走らせると、コバヤシは運賃のシステムを説明した。だが、シオタニはあまり聞いていない。ふと、コバヤシは思った。そんなことはどうでもいいと思っていないか、と。


 時刻は深夜2時になっていた。シオタニは決意を固める。


「走ったままでいい、金を出せ」


 スポーツバッグから金づちを取り出し、コバヤシを脅す。だがコバヤシは動じない。そして、運転を続けながらシオタニを諭す。この男、人生に疲れている。


「何かお困りですか?お客様」

「口答えしなくていい、金を出せ」

「今なら聞かなかったことにします。しまってください」


 憮然とするコバヤシに、シオタニのボルテージが上がる。その割には口調に気迫がない。それもそのはず、最近まともな食事は

取っていなかった。馬鹿にされたと勘違いしたシオタニは、


「てめえ、俺が何もできないと思ってんじゃねえか!?」

「…そうして怯えているんですね」

「ああ!?」


 シオタニは力任せに、運転席のガードミラーを金づちで思い切り殴りつけた。しかし、このタクシーの装備は最新式。金づちで殴った程度では傷一つつかない。


「ち…ちきしょう!!ちきしょう!!ちきしょう!!ちきしょう!!」


 この男、シオタニは犯罪に手を染めたことは無い。コバヤシは見抜いていた。シオタニは何度も、何度も、何度も殴りつける。気付けばシオタニは涙目になっていた。


 この男、根っからの善人だ。それがどうしてここまで堕ちてしまったのか。シオタニの手から金づちがぽろっと落ちる。コバヤシは気になっていた。そして尋ねる。


「お客様。先ほどのルールは覚えていますか?」

「…あ?」

「貴方のお話を聞かせてください」


 シオタニは野球帽を取る。そして暗い窓の外を見つめる。そこに映った自分の顔は、それはひどい顔だった。人生に絶望した顔。社会を恨んだ顔。人生に疲れていた。


「アンタ…俺の話を聞いてくれるのか?」

「はい。それが仕事ですから」

「………………」


 シオタニはふうっと息を吐き出した。もうミラーを叩く力はない。頭をポリポリと掻き、座席にもたれかかった。少しだけだが、疲れが抜けた気がした。そして口を開く。


「俺はとある外資系の商社に勤めていた。そこそこの収入に、ささやかな家庭。あの時が一番、幸せな時期だった」


 シオタニは、目をつむり続ける。


「娘の成長を見ているのが幸せでならなかった。いつ、反抗期が来て溝ができるのか、不安でしょうがなかったがな」


 彼は普通の人生を送っていた。それが破綻した。コバヤシは容易にそれが想像ができた。そしてシオタニは人生の転落のきっかけを打ち明けた。彼の友人の話。


「ある日の夜、友人と飲んでいて別れたんだ。あの時あいつは変な様子はなかった。少なくとも、俺はそう思っていた」


 だが、その後思いもよらない事態に巻き込まれる。


「次の日の朝、驚いたよ。アイツ…川べりで遺体で見つかったんだ。数時間前まで陽気だったのにな」


 後日、シオタニの元に刑事が現れる。シオタニはなぜアイツが死んだのか、聞き出そうとした。しかし、


「刑事たちの言葉は、予想だにしなかった…見せられたのは逮捕状だったよ。俺は何もしてなかった。目を疑ったよ」


 シオタニは淡々と続ける。そこに感情はなかった。


「あの取り調べはひどかった。お前がやったんだろうと、机を蹴飛ばし、胸ぐらをつかまれ、殴られる寸前だった。俺の反抗的な態度が気に入らないってな。何もしてないのによ」


 シオタニは否認し続けた。その結果…。


「結果は不起訴だった。これで家に帰れる。そう思ってた」


 だが、そこから現実の転落を知るシオタニ。


「会社は俺を解雇し、妻も娘も俺から離れていった。俺の手元には何もなくなっていた。人生は分からんな、その結果、捨て犬のような俺になったというわけだ」


 コバヤシは、彼の無念を汲み取った。そして語る。


「…今回は不問にします。どうすれば人生を取り戻せるか、若造の僕にはわかりません。でも、時間が必ずあなたを助けてくれます。…実はこの話、僕は存じておりました」


「…は?」


 コバヤシの意外な言葉に意表を突かれたシオタニ。


「数か月前のことでした。珍しく昼の乗客でした。…ある親子を乗せたんです。その方から今の話と同じ話を伺ってました」


 シオタニは状況が分からない。


「…あなたの元奥様と娘さんでした」

「なん…だって!?」


「奥様と娘さんは後悔していましたよ。貴方と別れたのは間違いだった。そして、良ければ元の鞘に戻りたいそうです。もし彼を乗せることがあれば、連れてきて欲しい…と」


 シオタニは信じられなかった。コバヤシはとある団地の前で車を止める。そこは、豊島区ではなかった。


「ここは…」

「…今まで不可思議な話は聞いてきましたが、この縁は切るわけにはいきません」


 深夜の団地なのに二人の女性が、密かにコバヤシから連絡を受けて待っていた。シオタニは目を疑う。


「…行ってください。運賃は要りません」

「あ…ああ…ああああああ!!」


 シオタニは号泣していた。タクシーを降り、妻と娘の元に走っていった。コバヤシはそれを確認すると、車を走らせていた。バックミラーには抱き合って泣きじゃくる三人の姿が。


 だが、これ以上深入りするのは無粋だ。人生は本当にどう転ぶかわからない。彼らが立ち直るか、また転落するかは分からない。だが、再起の火種だけは入れてきた小噺タクシーだった。

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