第3話 ニイジマ夫人の小噺
再び中目黒。あのタクシーが再び呼び止められる。止めたのは30代の女性、セミロングの黒髪の美人だ。
「小噺…タクシー…?」
「はい」
拍子抜けした女性、ニイジマ。一通り料金の説明を受けた彼女は、やはり困った様子。そして話は、子供の頃のものから始まった。
「子供の頃、やんちゃ坊主のケンジ君って子がいまして、よく一緒に遊んでました。そういう私もおてんばで、楽しかったんです」
遠い思い出。子供の頃の記憶は意外とあいまいだったりするが、その分、強烈なものは色濃く残るものだ。
「でも、成長すると男の子より女の子と遊ぶようになりまして。ケンジ君とはあまりしゃべらなくなりました。…まあ、普通の流れですよね」
「わかりますよ。僕も経験がありますから」
ニイジマさんの話に共感を覚えたコバヤシ。
「そして、就職して数年後に彼と再会しました。彼はバンドマン崩れで、コンビニでアルバイトをしてまして、久しぶりだったので、話がはずみ、店長さんに怒られてしまいました」
ニイジマさんは淡々と、彼との思い出を語り続ける。
「それから再び交流が生まれ、同棲するようになり、月日は流れました。私は仕事が忙しかったのもあって、家事は全部彼がやってくれました」
「ほう」
仕事は男、家事は女という考えが古いという典型的な流れ。それもまた良しだった。
「彼は、初めは家事が苦手だったんですが、勉強に勉強を重ね、度を超えるくらいで、ついには家事代行サービスの会社に就職しました」
「良かったじゃないですか」
ニイジマさんに賛辞を贈るコバヤシ、
「ええ。その会社の成績も優秀で、私も嬉しかったです。音楽をやっていた彼もギラギラしていましたが、家事に生きがいを見つけた彼もまた、魅力的でした」
…過去形。
「そして遂には、彼からプロポーズされたんです。どこに貯めてたんだか、指輪とシャンパンなんか用意して、本当に嬉しかった…」
「…」
少し言葉に間が生まれる。
「実は数日後に披露宴の予定だったんです。身内だけの、こじんまりとしたものだったんですけど…」
口調が明らかに変わる。
「…でも…でも…」
涙声になっていた。
「先週、交通…事故で…その…」
「…なんで、こうなったんでしょうね…。ウチには…彼と撮った写真があるんですが、皆、笑顔で…」
コバヤシは彼女を乗せたときから、何となく察していた。
「太陽みたいな人だったんです…。私は彼がいたから頑張れた…のに…」
大泣きするニイジマさん。
「わたし…これから、何のために生きればいいか…わから…ない…!!」
この小噺タクシーは不思議なもので、そのお客の感情を引き出し、正直な話をさせる魔力があった。
サタケさんもニイジマさんも、思いのたけを吐き出している。
「…お客様、心中お察しします。私なんかでは大層なことは言えませんが、どうか彼のことを忘れないであげてください」
コバヤシは慰めの言葉を選びながら続ける、
「そうすれば、彼は生き続けます。何のために生きればいいかと仰いましたが、まだ彼との思い出のために、生きることは出来るんじゃないでしょうか」
「彼のために生きる、今はまだ、それができるでしょう。無理に離れようとする必要はどこにもありませんよ」
「ごめんなさい…ありがとう…ございます」
そして、目的地の世田谷に到着した。
「お代は結構ですよ」
「え…でも…」
コバヤシの答えに戸惑うニイジマさん。
「その代わり、彼の分も強く生きてくださいね」
彼氏のケンジさんと早く決別しなければと、誤解していたニイジマさんの心を、少しは溶かすことができただろうか。コバヤシはやるせない気持ちになっていた。
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