第5話 真実と事実

「タイムトラベル」

 という問題以外において、

「過去は変えられないが、未来は変えられる」

 という言葉を聞いたことがある。

 これは、

「過去にいろいろあった人がいたとして、その人がいかに、未来に対して希望を持たせることができるか?」

 ということとして口にする人も多いことだろう。

 確かに、普通に考えて。

「過去は変えられないが、未来を変えることができる」

 というのはあたり和えのような気がする。

 しかし、この場合の、

「変えられる」

 という言葉を、

「代えられる」

 と考えた場合には、どういうことになるのだろうか?

「変える」

 という言葉の方は、

「過去から続いてきた持続的なことを、、その瞬間から、変化させることができる」

 というもので、

「代える」

 という言葉は、あくまでも、

「代替え」

 という意味合いから、

「まったく違うものに、全体を代えてしまう」

 ということで、

「別のものになってしまう」

 ということになる。

 つまり、前者は、

「自分本人が変わる」

 ということで、後者は、

「まったく違うものと代わる」

 ということで、英語でいうながら、

「チェンジ」

 ということになるのであろう。

 ということになれば、

「未来をかえる」

 ということを漢字にした場合は、

「変わる」

 になるのか、

「代わる」

 ということになるのかのどっちなのだろうか?

 そもそも、時系列というのは、

「最初から決まったレールの上を走っている」

 と考えるべきなのか、それとも、

「人間などが介入することで、未来は曖昧なものとして、現代からは、何とでもできるものとして考えられるのであろうか?」

 ということであった。

 考えてみれば、

「突発的な事故が、戦争を引き起こした」

 ということもあるだろう。

 前述の。

「核の抑止力」

 というのも、

「本来であれば、鉄壁に感じられる抑止力が、まるで、もろ刃の剣のように思えるのは、この突発的な事故などによるものではないか」

 といえるであろう。

 普通に考えると、

「未来は変えられる」

 ということになる。

 なぜなら、

「代えられる」

 ということになってしまうと、その場合に変わるのは、

「自分自身」

 が、変わってしまう。

 つまり、

「別の人間になってしまう」

 ということであり、

「変身」

 ということではなく、違う人の人生になってしまうということになるのであろう。

 普通なら、

「そんなことはありえない」

 といえるであろうが、これが、フィクション小説ということになれば、想像が許せば、いくらでも、描くことができるといってもいいだろう。

 ただ、それも、想像するといっても、理論で説明がつかないものは、その限りにないのかも知れない。

 というのも、

「自分自身が違う人間になってしまう」

 というのは、

「身体がそのままで、別の人間の心が憑依したといっていいのか、それとも、それまでの自分というものの歴史は残っているのだが、それが別の人間によって描かれた歴史として、過去の歴史を塗り替えることでできるようになった未来の変換なのか?」

 ということである。

 後者になると、

「過去は変えられない」

 という理論が、根本から変わってくるというもので、それを証明する何かがあるというのだろうか?

 途中から、

「自分のまわりの人たちが、悪の秘密結社のような連中に、とって変わられる」

 という精神疾患のようなものが、考えられるという話がある。

 それを、20世紀という時代に、提唱された、

「カプグラ症候群」

 というものだというのだ。

 これは、

「自分の近しい、家族や恋人などが、いつの間にか、悪の秘密結社によって、入れ替えられている」

 というもので、

 20世紀半ばくらいに提唱されたものだというのを聞いたことがあった。

 そういえば、初期のアニメブームの時、特撮番組として実写化で放送されたものに、

「家族が、宇宙生物と入れ替わっている」

 という物語が途中にあったというのを聞いたことがあった。

 今なら、

「有料放送」

 などでは、普通に見ることができるので、その当時は、子供番組だったので、あまり意識をしていなかったが、

「あの話は、とにかく、怖いというよりも気持ち悪かったという発想の方が強かった気がするな」

 ということを、おじさんが話していたのを思いだしたのだ。

 そもそも、その頃の特撮であったり、アニメを見たことに感化されて、万太郎は小説を書くようになったのだ。

 だから、

「SF小説」

 であったり、

「ホラー」

 さらに、

「ミステリー」

 などが多いのは、そのせいだといってもいいだろう。

 アニメの中にも、

「カプグラ症候群」

 という意識を狙ったようなものがあった。

「国家の要人に、敵のエージェントが忍び込んでいる」

 というものだ。

 それも、大統領や、国王ではなく、副大統領であったり、国王を補佐しているような、重鎮であったりする。

 これは、

「カプグラ症候群」

 という精神状態を意識してのことなのか?

 ということを考えてみたりするのであった。

 しかし、見方によっては、決定的なこととして、

「国家元首が、やっていることだ」

 という風にしか、国民には映らない。

 すると、クーデターが起こった時は、その矛先は、国家元首に向くのだ。

 そうなると、国内が混乱し、秘密結社は、くーでたーを起こした方に、武器や、兵の提供をしたりして、それによってできあがった体制で、主要な部門に着けることになる。

 しかも、

「できたばかりの政権」

 ということで、やつらを蹂躙するのは、

「まるで赤子の手をひねるようなものだ」

 ということになるだろう。

 そう考えれば、まともに戦争をして、自分たちの被害を増やすことを思えば、クーデター軍を裏から組織して、彼らにやらせる方が、楽であるし、結果的に、

「漁夫の利」

 というものを得ることができるということになるのだ。

 昔の、大航海時代と言われた時代に、

「まず、キリスト教の宣教師を送り込み。国内を宗教でかき回す手段に出て、そのどさくさに紛れて、軍を派遣することで、その国を容易に、植民地とする」

 というやり方があったが、まさに、それに近いやり方である。

「どの時代であっても、政府転覆を狙うのであれば、それなりに、同じような常套手段がある」

 というものである。

 昔から、戦争というと、

「宗教がらみ」

 というのが、結構多いと言われている。

 それが、この大航海時代の、

「キリスト教宣教師による。クーデター煽動に近いのかも知れない」

 といえるだろう。

 それを考えると、

「カプグラ症候群」

 という考え方も、実は昔から存在していて、それを証明することをしなかったことで、最近になって言われるようになっただけのことかも知れない。

 考えてみれば、

「昔の戦争」

 というのは、

「スパイ合戦」

 と言われるほど、

「諜報活動」

 というものが激しかった。

 今のロシアがソ連の時代には、それはすごいもので、

「共産主義」

 の常套手段と思われていたのだろう。

 大日本帝国においても、

「ゾルゲ事件」

 というのが、有名だったが、日本も、満州や中国の主要都市に、

「特務機関」

 ということで、諜報活動を専門に行うところがあった。

 陸軍大学などに、そういう学部もあったくらいで、いわゆる、今でいう。

「情報戦」

 ということであろう。

「過去というものを果たして、変えることはできないのだろうか?」

 というのは、

「それが、そのままタイムパラドックスに直結するから」

 ということであろう。

「過去を変えてしまうと、今が変わってしまう」

 ということになるからだが、では、

「過去を変える」

 のではなく、

「過去を代える」

 と考えればどうであろう。

「すべてが違った過去」

 ということであれば、未来が変わっても、それがそのまま真実となるのではないだろうか?

「オールオアナッシング」

 という言葉があるが、世の中、

「100か0か?」

 という発想もありなのではないか?

 と思うのだ。

 これは、つまり、

「すべてが事実でなければ、真実ではない」

 という、

「100かそれ以外」

 という発想か、あるいは、逆に、

「0かそれ以外」

 という、

「有か、無か?」

 という発想かの違いである。

 よくよく考えてみると、

「どちらも間違っていないように見えるが、決め手には欠ける」

 ということになるのであろう。

 そんな考え方であれば、きっと、その人生、どちらにしても、

「俺の人生って何だったのだろう?」

 と感じることだろう。

 これは、自分だけでなく、ほとんどの人が思うに違いない。

 何も信じられない状態になり、疑心暗鬼になったり、猜疑心が強くなり、

「まわりが信じられない」

 ということの境地となる。

 そうなると、それこそ、

「カプグラ症候群」

 というものの、境地に陥るのではないだろうか。

「自分が信用できないことで、まわりが信用できない」

「まわりが信用できないどころか、自分までが信用できない」

 という、同じような発想であるが、その度合いの違いは、

「天と地ほどにある」

 といってもいいかも知れない。

 それが、

「人生を、そして、自分のまわりの世界が代わる」

 ということであり、ひょっとして、そんな世界が存在するとしても、ほぼ誰にも気づいていないだろう。

 もちろん、本人は気づいているのかも知れないが、

「誰に話しても、信じてもらえるわけがない」

 そんなことは当たり前のことであり。

「俺がそんなことをいえば、気が狂ったと思って相手にされないか。強引に精神科での隔離ということになるかも知れない」

 と考えてしまう。

 それは、昔の施設での隔離のイメージであり、昭和初期くらいの発想である。

「サナトリウム」

 という、

「結核専用の施設」

 というものがあったというが、まさにそこのイメージだ。

 昭和初期というと、

「結核という病気は、不治の病だ」

 と言われていた。

「結核に罹ると、治ることはない。何しろ、特効薬がないのだから」

 ということであった。

 しかし、戦後には、ストレプトマイシンなどの特効薬をはじめとして、どんど開発されたことで、結核も、

「不治の病」

 ではなくなった。

 今では、

「手術をしなくても、投薬で治る」

 と言われていて、もちろん、末期となれば、また事情は違ってくるのだろうが、少なくとも、

「不治の病」

 ということではなくなった。

「どれだけ特効薬というのが、伝染病には有効か?」

 ということである。

 数年前から流行っていて、いまだにそれが解消されていない、

「世界的なパンデミック」

 と呼ばれる病気であるが、

「政府が、金を出したくないという理由だけで、伝染病のランクを一気に下げた」

 という時期があった。

 確かに、その頃は患者がかなり減っていたので、それ以降増えなければいいのだが、それから半年も経っていない状況において、

「患者が、けた違いに増えて、学級閉鎖が、ひどい状態になっている」

 と言われているのだが、これは一体どういうことなにか?

 それでも、政府は、それを公表しない。

 マスゴミも、公表しないということは、

「政府が隠蔽しようとしている」

 という、それこそ、

「政府の常套手段」

 ということであった。

「それこそ、国破れて山河在り」

 という状態で、

「外見上は、何も変わっていないのに、住んでいる人が一人もいない」

 という状況になりかねない。

 それが、日本政府の方針なのかと思うと、

「自分たちの運命を、こんな政府にゆだねているのか?」

 と思うと。

「いよいよ覚悟を決めなければいけないのか?」

 と思っている人も少なくないだろう。

 とにかく、サナトリウムというところは、伝染病で大切な、

「患者の隔離」

 というものを目的にしたところだった。

 しかし、

「不治の病」

 なのだから、

「隔離されながら、治ることのない状態において、死ぬのを待っているだけだ」

 ということになるにしては、

「実に粗末な建物」

 だった。

 政府は今も昔も、

「どうせ死んでいく人間のことなど、どうでもいい」

 と感じているに違いない。

「さすが、自分たちの保身だけに動いている政府だ」

 といってもいいだろう。

「精神科での隔離」

 といっても、昔とはかなり違うだろう。

 一度、テレビで見たのは、昭和50年代をテーマにしたドラマで、精神科の入院病老が写っていたが、病室の表には、鉄格子が貼られ、

「脱走不可能」

 ということになっていた。

「脱走すれば、何をするか分からない」

 ということなのだろうか、

 病室も心なしか、みすぼらしいもので、実に情けないものだった。

「ここに人間としての尊厳は、どこにあるのだろうか?」

 と、今であれば感じるのだろうが、きっと当時は、

「これが当たり前だ」

 ということで、頭の中を洗脳されていたのだろう。

 だから、同和問題であったり、差別的なものの撲滅で、学校でも、そんな授業があったのだろう。

 かたや、学校教育では、

「差別はいけない」

 といっておいて、現実はまだまだ、こんなものだった。

 昔の、サナトリウムにしても、精神科の病棟にしても、

「こんなものが、どういう発想になるのか?」

 真剣に考えた政治家などがいたのだろうか?

 さすがに今は、充実している。

 それは、同和教育を受けた子供が大人になって、

「さすがにまずい」

 と考えたからなのか、それとも、

「いやいや、そんな生易しいことではない」

 ということで、単純に、精神疾患のある人が、社会の構造の悪化によって、増えてきたからだといえるのではないだろうか?

 後者は、ほとんど間違いのない状態といってもいいだろう。

 だからこそ、

「コンプライアンス違反」

 ということでの、

「セクハラ」

「パワハラ」

 というのが社会問題となったのだ。

 それらが、会社などにおいて、大いに社会問題になった。

 それこそ、

「ブラック企業」

 と呼ばれるものだが、

「上司の力による暴力」

 その力が、腕力というものであったり、

「上司という立場」

 というものであったりするだろう。

 どちらにしても、

「部下には上司に逆らうことができない」

 というもので、まるで昔の軍隊のようではないか。

「一時期は、そんな軍隊のようなものから、脱却したはずだったのに、また起こっている」

 社会問題となったはずなのに、相変わらず、

「どこの会社にもくすぶっていて、大小の違いというだけではないだろうか」

 ということであった。

 たとえば、

「毎日のように、殴られる。蹴られる。ネクタイをちぎられる」

 などというあからさまな暴力であったり、さらには、

「低能だ。お前は人間のクズだ」

 などという、

「言葉の暴力」

 などを毎日のように浴びせられるとどうなるか?

 それは、その人への、

「人格否定」

 であり、

「全否定」

 ということになる。

「全否定」

 ということをされてしまうと、どこにも逃げ場がなくなってしまう。考えれば考えるほど、

「あいつがいうように、俺が、人間のクズなんだ」

 とばかりに、否定的にしか考えられないようになり、次第に精神が病んできて、それが肉体をむしばむようになると、

「社会問題だけでは済まなくなる」

 ということになるのだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る