第6話 未来は変えられる?
それらの問題を、
「コンプライアンス違反」
ということで、とりあえずの対策を取っているようだが、まったく変わっていないということは、
「結果として、何もやっていない」
ということであるという認識があるのだろうか。
今の時代は、
「少子高齢化」
「地球温暖化」
いや、
「地球沸騰か」
などという切実な問題があるのも分かるが、この、
「コンプライアンス違反による、精神疾患患者の増大」
という問題も、
「見逃すことのできない大問題だ」
といってもいいだろう。
それを考えると、
「人間のクズがどんどん増えてくる」
という悪しき発想に、政府は何とも思っていないとしか言えないではないか。
そんなことを思うと、
「過去であっても、未来であっても、理論的に代えるということは可能なのかも知れないが、実際にはできるはずのないことだ」
といってもいいだろう。
となると、
「代える」
ということは、不可能として、
「変える」
ということができるのか?
ということである。
こちらの変えるというのは、
「オールオアナッシング」
ということではなく、
「臨機応変に、変化、あるいは、変身できる」
という発想である。
つまり、
「代わるという言葉は、変わるという言葉の中に含まれる」
といってもいい。
ただ、
「代える」
ということが不可能だということが分かっただけに、
「変わる」
ということは、
「無限にではない」
ということの証明でもあるだろう。
そうなると、そこには、限界というものがあり、その限界が、
「どこかにある」
ということを証明しているということである。
「変わる」
ということは、全部が代わるわけではなく、
「一部が変わる」
ということであり、その一部が、
「変わる方なのか?」
それとも、
「不変の方なのか?
ということは、難しい問題であり、
「時と場合によって、変わる」
ともいえるだろう。
少なくとも、
「変わる」
ということは、その状態が不変ということではないということになるのであろう。
少なくとも、時系列において、
「過去が変わるということは、今が変わってしまい、当然のことながら、未来も違っている」
ということになるのであろう。
そのことを、物理学者や科学者は、
「すべてにおいての、前提」
ということで考えていることだろう。
逆にいえば、
「過去が変わっても、未来に影響しない」
という考えは、普通はないからである。
だから、その矛盾のことを、
「タイムパラドックス」
といい、
「過去は変えてはいけないものだ」
という発想が、当たり前のように言われているのであった。
それは、当たり前と言えば、当たり前のことであり、
「だから、タイムマシンを作ることはできない」
と言われるのだ。
しかし、それは、あくまでも、
「タイムスリップ」
をした場合のことである。
「過去の自分がどんなだったか、見に行きたい」
などと、単純に思って過去にいくと、それだけで、
「歴史を変えてしまった」
ということになるだろう。
しかし、過去を変えてしまったことに気づかずに、また現代。つまり、
「過去から見た未来」
に戻ってきた場合、まったく違った世界に入り込んでいるという可能性があるということになるのだ。
それが、
「パラレルワールド」
と呼ばれるもので、
「無限にある次の瞬間の可能性」
の中から、選択肢を変えてしまったことで、そこから先の未来が、まったく違った世界を開いてしまったことになり、
「現代」
という、元々いた場所に戻ったはずなのに、まったく違うところに戻ってきたというような、まるで浦島太郎のような状態になるのだ。
それを考えると、浦島太郎の話は、
「未来に戻ったのではなく、過去を変えてしまったことで、変わってしまった現代」
という発想に立ってみると、
「竜宮城は、過去の世界ではなかったのだろうか?」
という仮説を立てることもできる。
あの話は、奇怪な話ではあるが、実際には、
「矛盾の中の矛盾」
というものを見つけるという発想から、
「マイナスにマイナスを掛けるとプラスになる」
という一種の、逆説のようなものなのかも知れない。
そもそも、
「パラドックス」
という言葉に意味は、
「逆説」
ということになるのだ。
それを考えると、
「過去を変えると、未来が変わる」
というのは、正論でしかないといってもいいだろう。
しかし、
「事実」」
と、
「真実」
というものが違うということになると、その考えでいくと、
「結果が一つなら、原因も一つ」
ということはないということである。
しかも。原因と結果ということから考えると、
「原因が一つであれば、結果が一つとは限らない」
または、
「結果が一つであれば、原因が一つということもありえない」
と考えられ。
「結果と原因の両方が一つだ」
ということ以外は、
「それぞれに複数であってもいい」
ということになる。
では、それが、
「過去と未来」
という発想であればどうだろうか?
「過去と未来は、必ず一つずつだ」
と思われていたことが、
「パラレルワールド」
であったり、
「マルチバース理論」
などによって、絶対に一つではない。
といえるであろう。
では、これも、
「原因と結果」
のように、どっちも複数であってもいいということになるのであろうか?
考え方としては、その通りだと思う。
しかし、これが、
「真実と事実」
ということになると、そうはいかない。
なぜなら、
「真実はいくつあっても構わないが、事実というものは、必ず一つだ」
ということだ。
では、
「真実と事実」
という考えと、
「原因と結果」
ということを照らし合わせると、理屈が合わなくなる。
つまりは、
「真実と事実」
というものには、時系列というものが関係ないからだ。
同じ時間軸の同じ時間にあっても構わない。それが、真実と事実という考え方であろう。
それを考えると、
「過去と未来」
という考え方は、時系列があることで、過去が一つに確定すれば、未来も一つだといってもいいのではないだろうか?
だから、
「原因と結果」
も、同じで、
「過去であったり、原因というものが、一つに固まる前であれば、未来も不確定だが、固まってしまうと、一つにある。
つまり、
「原因が結果になってしまった場合、その未来が確定される」
ということで、
「決定した瞬間」
というものを、時系列でいえば、
「現在」
というのだろう。
だから、
「原因と結果」
との間には、決定した瞬間がない。
決定した瞬間を結果と呼ぶのだとすれば、その先に起こることは、未来となるので、もし、
「原因と結果」
と、
「過去と未来」
という考え方に、何か差があるのだとすれば、それは、
「過去と未来の間には、確定するという現在というものが存在している」
ということになるのだ。
そして、現在というのは、時間とともに、進んでいく。
「未来が現在となり、次の瞬間には過去になっているので、現在というのは、ある意味、風前の灯のようなものだ」
だから、
「原因と結果」
というものの間には、
「決定した」
という認識はないことで、
「原因と結果が、一つではないかも知れないが、それは、結果に結びつく、時系列でいうところの、現在という、確定する瞬間がないからであろう」
それがなくてもいいのは、それだけ人間というのが、
「高等動物だからなのかも知れない」
それを考えると、
「フレーム問題というものが、人間にはない」
という理屈が成り立つ。
ということになるのだ。
さらに、発想を膨らませると、そこに、
「真実と事実」
というK轅方が生まれてくる。
これは、どちらかといううと、
「立体と平面」
ということで考えると、分かることなのかも知れない。
「立体というのは、見る角度によって、いろいろな見え方になる」
と言え。
「平面は、一つにしか見えない」
といえるであろう。
あくまでも考え方という意味でだが、平面でも、
「サッチャー錯視」
のようなものであったり、見え方に錯覚を引き起こすものもあるが、基本的には、立体のように、リアルに違って見えることはない。
これは、
「二次元と三次元の違い」
とも考えられ、これに
「四次元」
というものが絡むと、そこには、
「時間」
という概念が入ってくるということであろう。
時間ということを考えると、そこにあるのは、
「未来というものの創造」
といってもいいだろう。
「次の瞬間には、無限の可能性が潜んでいる」
という未来という考え方であるが、
「未来というのは、本当に変えられるのだろうか?」
もし変わったとして、
「それを誰が証明してくれる」
ということになるのだろうか?
確かに、分かっているのは、過去と、現在だけである。
ただ、これも、
「すべてが分かっている」
というわけではない。
現在を含む、すべてを分かるわけはないとしても、
「自分を取り囲む環境」
というものだけでも分かっているといえるのだろうか?
皆把握しているのであれば、
「だます。だまされる」
などということもないわけだし、
「犯罪や、戦争」
などというのも、もっと減ってもいいだろう。
「この世から消えてなくなる」
ということはない。
これは、かなり強烈で一方的な発想であるが、
「世の中には、必要悪」
というものがある。
「強大な権力であったり、圧倒的な力に対しては。尋常な力ではかなわない。その力に立ち向かうために必要な力であれば、本来なら悪と言われるものでも、存在する必要がある」
という考え方だ。
これの究極が、
「自然の摂理」
というべきものでの、
「弱肉強食」
というものだ。
確かに、食べられる動物は、
「気の毒であり、かわいそうだ」
というきおとであるが、そうやって自然界が回っていくのだから、
「犠牲」
というのもやむを得ない。
という理屈である。
ただ、これが、人間界での出来事となると、
「弱肉強食は許されない」
という主義が、今の世界では常識になっている。
そこには、
「正義と悪」
という発想があり、
「正義というものは、悪を駆逐する」
という、勧善懲悪の考え方が、今の世の中を作っているといってもいいだろう。
そのために、
「平和を守る軍隊」
があり、
「治安を守る警察」
があるというわけである。
警察も、軍隊も、
「自国の平和と治安を守るため、犯罪者であったり、侵略者を駆逐する」
というのがその役目で、基本は、
「国民を守る」
ということにあるのだ。
民主主義であり、法治国家であれば、
「まず守らなければいけないのは、定められた法律」
というものである。
「刑法や民法などのような私法と呼ばれるものは、国民が守るべき法律」
であり、
「憲法というのは、法律を作る側。つまり、三権分立でいうところの立法である、国会議員や、行政の政府、司法の法曹界が守らなければいけないものである」
ということだ。
そして、民主主義の基本は、
「多数決であり、自由主義」
ということだ。
警察というところは、
「民事不介入」
というべきもので、国家権力である警察の力は、民事には影響しない。
あくまでも、刑法犯だけを扱うのが警察なのだから、民事に関しては、民間の弁護士であったり、探偵事務所などというところが、
「お金をもらって、商売として行っている」
というのが、その考えだといってもいいだろう。
そういう意味で民主主義国家ということになると、
「多数決」
であったり、
「自由主義」
における問題は、置き去りにされていくことになる。
「多数決が優先なら、少数意見は、どんなに正しいことであっても、無視されるということなのか?」
ということであり、
「自由主義で行うのであれば、弱肉強食によって、あからさまに人を攻撃していなかれば、合法として、許されるのか?」
という問題から、
「貧富の差」
というものが、いつまでも社会問題として消えることはなくなるのだ。
しかも、そこに、
「金儲けのためには手段を択ばず」
ということで、のし上がってきた人の裏で、どれほど、詐欺であったり、
「民法犯罪」
というものが起こっているといえるのだろうか?
つまりは、
「自由主義」
というものは、
「弱肉強食社会」
ということであり。
「弱いと食われ、強いと生き残る」
というものであり、それこそ、
「強者には、生殺与奪の権利というものまで与えられる」
といえるのではないだろうか?
もちろん、
「本当に殺人を犯す」
というのは、それ以前に、刑法犯というものであるが、しかし、
「相手を精神的に追い込んで、死に至らしめる」
ということは、ざらにあるというものではないだろうか?
「自らの手を汚して行う殺人が裁かれて、相手を精神的に追い詰めることで、相手に死を選ばせるということが、罪に問われないというのは、本当にそれでいいのだろうか?」
これは、
「勧善懲悪」
という考え方でなくとも、普通に考えれば、
「あり得ないことだ」
といってもいいだろう。
それを考えると、
「それこそ、金持ちというのには、生殺与奪の権利が備わっているのかも知れない」
といえるのではないだろうか?
そんな民主主義というものが、
「欠点だらけだ」
ということで、民主主義の限界という考えから生まれたのが、
「社会主義」
というものであった。
「皆、平等で、貧富の差のない世界」
という発想であった、
「理想の社会」
のように見えたが、実際に生まれた、
「社会主義」
そして、その発展型である考え方としても、
「共産主義」
というものが、今から100年ほど前に生まれたのだ。
この世界というのは、確かに、
「平等」
という発想から、
「国家による介入」
というものを深めた。
とにかく、品保の差をなくすために、経済界での競争というものをなくすために、企業は、すべて、
「国営」
で、競争というものもなくした。
給料は皆同じで、競争がないから、平等ということである。
さらに、そうなると、問題になってくるのが、
「多数決」
という問題だ。
多数決ができないのであれば、どうするか?
国家がこれだけ社会に介入しているのだから、出てくる答えは一つしかない。
それが、
「国家による独裁」
であった。
しかも、それは、
「独裁者というものを生む」
ということになるのだ。
かつての、
「ムッソリーニ」
であったり、
「ヒトラー」
が君臨した時代である。
ただ、この時の時代背景には、
「致し方ない」
というとことhがあった。
民俗戦争といってもいい第一次世界大戦に敗れ、多額の賠償金を強いられ、経済が大混乱となったドイツ、さらに、世界恐慌をもろに受けたイタリアなどが、
「救世主」
を求めるのは、無理もないことだ。
それが、
「ヒトラー」
であり、
「ムッソリーニ」
だったのだ。
しかし、第二次大戦で、それも崩壊する。
それでも、独裁として生き残ったのが、
「社会主義」
というものだった。
こちらは、あくまでも、
「民主主義の限界に挑戦した」
理想の国家であった。
ある意味でいけば、
「理想の人間を作ろうとして怪物を作ってしまった」
という、
「フランケンシュタイン」
に似たところがあるのではないだろうか?
そういう意味で、
「社会主義は、フランケンシュタイン症候群というものの、たとえに使えるのかも知れない」
といえるのではないだろうか?
そんな社会主義も、
「ソ連の崩壊」
によって、今では相当に数が少なくなった。
それは、結局、
「社会主義も、理想の世の中ではなかった」
ということであろう。
そういう意味での、
「ユートピア」
ともいえる国家は存在できるのだろうか?
とも考える。
そもそも、今まで脈々と受け継がれるように流れてきた、
「歴史」
というものの真実は。どこにあるのだろうか?
事実は確かに、過去が証明しているのだろうが、
「真実というのが、未来にあるのだとすれば、それがどこなのか? 誰が分かるというのだろう?」
そう、昔から、何かが起こって、例えば、クーデターが起こり、それが失敗した時など、その時の指揮官が、
「俺たちが悪かったのかどうかは、必ず歴史が答えを出してくれる」
というが、
「その答えは、いつの時代のどこにあるというのか?」
ということである。
もっといえば、
「人間は、自分の寿命すら知らない。自分がいつ死ぬのか?」
ということすら分からないのに、
「歴史の真実」
というものが、
「どこにあるのか?」
ということを、誰が分かるということになるのだろうか?
それを考えると、
「歴史が答えを出してくれる」
という言葉は、確かに格好いいが、
「それが、いかに、薄っぺらい紙のようなものであるか?」
ということである。
「実際に、歴史というものが、どのようなものであるか?」
ということを分かっている人がどこにいるというのだろうか?
そもそも、考えられることとして、
「原因と結果」
があるのが、歴史であろう。
そして、この原因と結果ということで、
「真実と事実」
と言い換えることができる。
その考えが、
「事実という結果は一つしかないが、原因というものが複数あって、一つではない可能性が高い」
ということから、本来言われている、
「過去は変えられないが、未来を変えることができる」
という言葉で、今の世の中の考え方であっても、
「過去は変えられないというのは間違いないが、未来も変えられない」
といえるのではないだろうか?
もちろん、現在というものが、
「結果」
であるとすればということで、ある意味、途中経過であっても、結果につながるものとして一つではないか。
そう考えると、
「原因となるものが、進行し始めれば、そこから先は、結果という答えに向かって、変えられるものではない」
といってもいいだろう。
もちろん、他にもいろいろ考えがあるだろうが、この感がえが一番、ふさわしいといえるのではないだろうか?
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