第3話 変えられるのか?
「フレーム問題」
というものを解決する方法として、もう一つ考えられることとして、
「一点しか見えていないことを、肯定する」
という考え方である。
普通であれば、
「一点しか見ない」
ということは、いいことではない。
特に、一点だけを見るということは、
「視界を狭くする」
ということで、
「人間社会を生き抜くうえでは、タブー」
とまで言われることではないだろうか?
しかし、それはあくまでも、実生活ということであり、
「架空の世界の創造」
というものに対しては、
「あてはまらない考えではないか?」
といえるのではないだろうか?
つまりは、
「一点だけを見つめるということは、今まで見えてこなかった世界が見える」
という発想であり、
「その世界というのは、今の自分たちがいる世界とは、次元が違っている世界が広がっていて、全体を見ようとすると、見えなくなってしまうもの」
といってもいいだろう。
これを逆に考えると、
「裏の世界というものの存在を知られたくない」
と考える人たちが、わざと、
「一点を見つめないようにしないといけない」
ということを人間社会に吹き込んだのではないだろうか?
あたかも、当然のように言っておきながら、その発想は、あくまでも、
「自分たちの世界にも、発想によっては見えるはずの、別次元の世界」
というものが広がっていて、
「それをわざと知らせるようにしながら、ミスリードすることで、その存在を逆に否定するかのように考えさせる」
という、
「精神的に高度なテクニック」
というものを感じさせるのではないだろうか?
だから、
「逆も真なり」
という言葉には信憑性があり、その理屈は、当たり前のように言われるのではないだろうか?
そういう意味でも、
「一点だけを見る」
ということは、暗躍する連中にとっては、都合よく使えるもので、実際には、
「その一長一短の存在」
というものが、
「いかに、前と後ろの存在感」
というものが、紙一重として捉えられるかということに繋がってくるのではないだろうか。
それを思うと、
「長所と短所は紙一重」
という言葉であったり、
「長所は、短所の裏返しだ」
というような言葉に繋がってくるのではないだろうか?
それを思うと、
「人間は頭が良すぎて、最後の一点を飛び越えることができずに、同じところをループしている」
といえるのではないだろうか?
万太郎という小説家は、そういう話を書くのが好きだった。
特に、SFにおカルト色が混ざったような、
「都市伝説系」
の話を、
「ロボット工学」
であったり、
「時間軸や、次元」
というものを組み合わせる理論的な発想が好きだったのだ。
だから、SFということで、
「宇宙」
という発想を抱くこともあった。
それに、宇宙と、時間という発想から、
「アインシュタインの、相対性理論」
というものにも、造詣が深かった。
その発想からくるものとして、昔のおとぎ話にある、
「浦島太郎」
を考えるような小説も結構あった。
「玉手箱」
を開けたことで、おじいさんになってしまったというエピソードが、ある意味、伏線として使われていて、本当であれば、
「見るなのタブー」
という意味での、
「おとぎ話の常套手段」
といっていいような話を、伏線に使うのだから、この話は、それだけでもすごいものだといえるのではないだろうか。
さらに、あの浦島太郎という話は、実は、続編があったのだ。
普通であれば、
「玉手箱を開けてしまい、おじいさんになってしまった」
という、
「いかにも中途半端なところで終わってしまった」
ということなのだろうが、あの話はある意味、
「どんな終わり方をしても、中途半端でしか終われないのではないか?」
といえるのではないだろうか。
というのも、
「そもそもが、カメを助けたことで、いいことをしたのだから、ハッピーエンドでなければいけない」
というところにもってきて。
「開けてはいけないというものを開けた」
ということでの、
「見るなのタブー」
というものが問題になるのである。
どちらにしても、この二つを用いたということは、
「どんなラストにしたとしても、そこには矛盾は生じる」
ということであった。
しかし、実際には。この話は、ハッピーエンドだったのだ。
というのは、
「おじいさんになった太郎は今度は、ツルになって、太郎を愛してしまった乙姫が、カメになって、地上に現れ、二人は幸せに暮らした」
ということであるらしいが、これもおかしな話だ。
そもそも、乙姫というのは、
「竜宮城の姫」
ではないだろうか。
人間社会であれば、王族の姫なのだから、勝手に他のところにいくなどあり得ない。
しかも、このお話を作ったのは、
「人間なのだ」
その常識を打ち破って、それも、何ら説明もなく、
「乙姫が、愛する男のために、自分の立場を捨てて、地上にくる」
ということが、教育上まずいということで、削除されたのではないだろうか?
浦島太郎の話を、
「本当は続いているのに、途中で終わらせた」
というのは、
「明治政府だ」
と言われている。
それなりの理由はあるのだろうが、
「言われている理由というのが、本当にそうなのか?」
と考えてしまうのだった。
一つ、辻褄ということで考えると、仮設のようなものが考えられるのであった。
というのが、
「乙姫は、最後にカメになった」
ということであるが、では、浦島太郎が助けたカメというのは、その後一度も出てきてはいないが、そのカメはどうなったのか?
ということである。
ただ、もし出てきたとすれば、それは、
「浦島太郎」
を陸に連れていく時に、
「使った」
というのが、その時のカメだったということなのだろうか?
と考えると、これも、また陰謀説のような考え方だが、
「本当の元の場所」
とは違うところに連れていったのではないだろうか?
ということである。
あまりにも文明が違っているので、
「数百年後の未来」
という表現になったが、実際には、同じ時代の、
「例えば、もっと文明の発達したところだったのかも知れない」
といえるのではないだろうか?
そもそも、
「竜宮城」
というところが、今までに見たことのない、
「極楽のような世界」
だったのだとすれば、陸に上がった時、
「こちらも、文明の発達した世界だった」
といっても過言ではないといえるだろう。
だから、
「助けられたカメが、ひょっとすると、乙姫のことが好きであって、浦島太郎に嫉妬していた」
とも考えられるのではないだろうか?
だから、太郎を、
「まったく知らない世界に連れて行ってしまった」
という発想もできなくもない。
しかし、
「未来の世界を見た」
と考えたのは、
「玉手箱を開けると、おじいさんになってしまった」:
という話があるからだ。
その正当性を考えるのであれば、
「太郎がついた世界が、未来の世界だった」
ということで、
「タイムマシン」
あるいは、
「ワームホール」
という発想だったのではないか?
と考えられるのではないだろうか?
つまり、
「別の時代の、同じ場所に帰ってきた」
ということの裏付けでもあり、それが、
「タイムマシンの発想」
と結びつくということになるのだろう。
そういうことを考えていると、
「タイムマシンや、ワームホールというものが、時間を移動することはできるのであろうが、場所を移動することができるんか?」
ということである。
つまりは、
「数年前のこの場所」
ということでの移動はできるのだろうが、
「違う場所に移動できるか?」
ということである。
この考えは、実は、アインシュタインの、
「相対性理論」
というものを考えた時、逆説として考えられることではないだろうか。
というのが、相対性理論の中に、
「光速で移動すれば、その時に、普通の速度を動いている人と、時間の進み方が違う」
という発想である。
たとえば、中央線から左右に向かって、まるで、波型を描いているカーブがあった場合。その
「頂点から、頂点」
というところに、飛び越えた場合、その速度は、距離とともに、スピードが増しているという感覚になることで、
「ワープであったり、タイムトラベルというのは、一気に最短距離を進むことでできる歪んだ世界」
という考え方がある。
だから、
「スピードと時間」
という感覚は、
「切っても切り離せないもの」
であり、もし、同じ場所にしかいけないのであれば、
「一度遠くに行って、同じスピードで戻ってくる」
ということになるのであって。
「それが、普通のスピードを描いている波型のカーブになるのではないだろうか?」
と考えられるが、そうなると、実際の速度や、距離というものと、
「逆ではないか?」
と考えてしまうのであった。
「だから、相対性理論っていうんだよ」
とこういう話をするのが好きな友達がいて、それが中学時代だったので、それを真に受けてしまったのだが、今でも、本当にそうなのか、実は分からないでいた。
小説を書くうえで、その発想というものが、理屈にかなっているかのように思えるのであれば、少々の理不尽さは
「ご愛敬だ」
といってもいいのかも知れない。
ただ、タイムマシンでも、ワームホールでも、実際に、
「他の人の前から、一瞬で消えてしまい、近い未来であれば、その時間になると忽然と現れる」
というものである。
ただ、ここで問題なのは、
「中の人間には、時間の経過」
という意識はなく、感覚としては、
「その場所から飛び越えて、また、その場所に戻ってきた」
という感覚だというのだ。
その間、記憶が消されていることで、その間の意識がなく、
「飛び越えて戻ってきた」
というのは、
「そういう表現にしかならないからではないか?」
ということになるのではないだろうか?
それを考えると、
「昔に説明用に作られた、カーブと、その間を結ぶ線と点、今考えても、実にうまくできているよな」
と感じるのであった。
タイムマシンで移動した人間の感覚と、まわりから見ていた人間の感覚は、まったく違う。そして、普通に、
「相対性理論」
というものを考えると、
「タイムマシンの中の人間は、少なくとも、光速で、その間に移動したことになる」
というわけで、その移動感覚というものがないというのは、どういうわけなのであろうか?
それを思うと、
「タイムマシン」
であっても、
「ワームホール」
であっても、
「人間の身体の合うように作られている」
といことで、
「都合のいいもの」
という発想と、
「そのメカニズムを知られたくない」
ということから、
「中にいる人間の記憶を消し去る」
という力を持っているのかも知れない。
そして、もう一つ気になるところであるが、
「タイムトラベル」
というものを行った時、記憶がないだけで、少なくとも、身体には大きな負担がかかっているのではないだろうか?
ということを考えると。少なくとも、一度のタイムトラベルにおいて、
「その間の寿命が、一気に減っているのかも知れない」
と感じたとしようか。
それを考えて、タイムトラベラーになり、
「そのことを証明しよう」
として、未来に行き、
「自分がいつ死ぬ」
ということを確認したとしよう。
その時、例えば、50歳にて死亡」
ということが分かったとして、それを本当に信じておいいのだろうか?
というのが、その
「50歳」
という迎えた死の年齢が、
「本当の寿命」
だということが分かるのだろうか?
というのも、
「その時の死亡の原因が、本当に寿命なのかどうか?」
ということである。
「何かの病気なのかも知れないし、事故や、殺害されたのかも知れない」
とも考えられる。
それを考えた時。
「まず、寿命であることが、大前提」
と考えた。
とにかく、事故や殺人でない限り、病気でも、一種の、
「寿命だ」
といえるのではないだろうか?
ただ、もう一つ言えることとして、
「その時点にたどりつくために、何度も何度も、タイムトラベルを繰り返している」
ということである。
タイムトラベルを繰り返すということで、寿命が例えば、一回で、一か月ということにすると、
「12回で、1年、寿命が短縮」
ということになるだろう。
ただ、これを考える時、もう一つ問題となることがある。
というのが、
「タイムトラベルの長さによって、その短縮の度合いが、増減したりしないのだろうか?」
という考え方であった。
「一年さかのぼるのに、一か月の短縮だ」
ということであれば、
「二年さかのぼれば、二か月ということになる」
という単純計算になるのだろうが、もちろん、単純計算でいいのかどうか?
という問題もあるのだろうが、それ以上に、
「回数と長さによって、まったく寿命の短縮というのが顕著である」
ということになるのだとすれば、それこそ、
「タイムトラベルによる寿命の短縮」
という理論を証明することはできないだろう。
いや、この問題はそこではない。
もっといえば、自分が見つけた寿命というのは、
「本当の寿命なのだろうか?」
ということである。
というのは、見つけた寿命というのが、
「タイムトラベルを重ねた結果だ」
ということではないのだろうか?
ということになると、本当はもっと長かったのかも知れない。
それを自分が余計なことをして、寿命を減らしてしまったことで、出てきた答えを寿命としたのだとすれば、
「これほど、本末転倒なことはない」
といえるだろう、
言葉としてふさわしいこととして、
「因果応報」
ということになるのではないだろうか?
そもそも、
「寿命」
という考え方の定義というのは、どういうものなのだろうか?
一般的に言われていることとして、
「天寿というものがあり、神様から与えられた、全うすべき寿命があり、それ以上は何があっても、生きることができないもの」
という理屈になるのだろうか。
もっといえば、
「寿命というものが決まっていても、それ以上に、その人に偶発的に起こる、事故や災害、殺害などというものは、寿命に優先する」
ということで、この事故などの、一種の、
「運命」
と呼ばれるものも、天や神の、
「御心」
によって決まるものだとすれば、
「そもそもの寿命というのは、どういうことだといえるのだろうか?」
ということを考えてしまうのだった。
つまり、
「寿命を見てきた」
ということであるが、その寿命というのは、
「タイムトラベルを何度も経験した結果だ」
ということで、その結果見る寿命は、
「自分にとっての途中経過だ」
といえるであろう。
さらに、
「このタイムトラベルというのは、自分のとっての運命」
といえるのだろうか。
ある意味、本当の寿命に、神がかかわる運命ではなく、人間が作ったタイムマシンによるものだとすれば、それは、運命ではない。
ただ、
「ワームホール」
と言われるようなものは、神が作ったものであろうから、そのタイムトラベルは、
「運命」
といえるのではないだろうか?
いや、待てよ?
「タイムトラベル」
というものすべてが、寿命を短くするものだ」
という物理的なことを考えるのであれば、それがワームホールというものの仕業であったとしても、寿命が縮むことになるだろう。
それが、運命というものであるといってもいいのだろうか?
確かに事故というものも運命で、
「突然迎える死」
だということであれば、
「ワームホール」
というのも、
「神が与えた悪しき運命だ」
といえるのであろう。
しかし、逆に、この
「ワームホール」
というのは、神が作ったものではなく、人間が自然環境を破壊したり、自然に何かの力を加えることで、作り出した
「副産物」
のようなものであるということになると、それはそれで、
「因果応報」
ということになるだろう。
ただ、それは、
「個人の運命による因果応報ではなく、人間というものの因果なのではないだろうか?」
と考えられる。
そう考えると、やはり、
「ワームホール」
というのは、
「人間にとっての、悪夢でしかない」
といってもいいのではないだろうか?
そんな、
「タイムトラベル」
によって生じた、
「寿命の短縮」
それを
「因果応報だ」
というのであれば、
「神が作った人間」
が、勝手に寿命というのを、
「操作している」
といってもいいだろう。
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