第2話 「限りなく近い」というもの

 そんな万太郎の、

「奇妙な味」

 なる小説は、基本的には、

「オカルト系」

 の、都市伝説にまつわる話が多かった。

 しかし、中にはSF系の小説も結構あり、本人とすれば、

「本当は本格SFのようなものを書いてみたいんだけどな」

 というのだった。

 では、実際に、

「本格SF」

 というのは、どういうものなのだろうか?

 万太郎は試行錯誤を繰り返していたが、結局、

「時間であったり、宇宙という、オーソドックスな発想を用いることが小説の元祖といってもいい」

 というものであった。

 そんな小説の中でも、

「万太郎が得意とする」

 というか、

「数多く書いている」

 という、

「時間関係の小説」

 を本人は、

「前面に出したい」

 と思っているようだった。

 小説の根幹となるものは、以前であれば、

「タイムマシン」

 などを使って、過去や未来にいく作品を描いていた。

 それも、ストーリー中心だったことで、どうしても、

「分かりやすい作品にしないと」

 ということで、論理的なことの矛盾は、

「少々のことは目をつぶってもいいのではないだろうか?」

 と考えていた。

 それは確かに、難しいことを先に書いてしまうと、せっかく描きたい世界に、自らで限界を抱いてしまうということになりかねない。

 だから、最初から、型にはめるではなく、柔軟なところを描くことで、これから描く小説というものを、

「自分で自分を、理解させなければいけない」

 と考えていた。

 特に、時間というものは、いくつかの発想があり、それが、それぞれに似ているのだが、実際には、微妙に違っている。

 つまり、

「お互いに足りないところを補い」

 という発想で生まれたはずなのだが、そこをとらえることが難しいと考えてしまうことも多いといえるだろう。

 それが、

「タイムスリップ」

 であり、

「タイムリープ」

 であったり、

「タイムループ」

 というものだ。

 この三つの発想は、

「三つ巴」

 の関係ではなく。

「三すくみ」

 だといってもいいだろう。

 お互いに抑止しあうことで、一つの暴走を防ぐという、

「三すくみ」

 というものが、この三つにはあるのだろう。

「三つ巴」

 というのは、

「それぞれの力が均衡している」

 というのが考え方である。

「三すくみ」

 というのは、お互いをけん制しあうことで、身動きが取れない状態にさせることで、

「けん制しあう」

 ということになるのだ。

 だから、三すくみというのは、

「動いた方が負け」

 ということであり、

「三つ巴は、一対一では、なかなか勝負がつかないので、勝負がついてしまうと、満を持していた者が、最後には勝つ」

 ということで、状況としては、

「三すくみに似ている」

 といえるだろうが、あくまでも、三すくみが、

「全体のバランス」

 という考え方であり、

「三つ巴は、それぞれの相手との力関係が、均衡している」

 ということで、

「個別の関係」

 といえるだろう。

 もっといえば、

「三すくみは戦う相手は、最初から決まっているが、三つ巴は、相手がどちらであっても、関係ない」

 といえるだろう。

「三すくみは、初戦は必ず勝つが、勝った瞬間、生き残りの道を自らが壊した」

 ということになるのだ。

 しかし、

「三つ巴というのは、最後に終わってしまわないと分からない」

 もっといえば、

「分かった時には、自分は死んでいる可能性がある」

 ということだ。

 助かる可能性が少しでもあるとすれば、

「三つ巴」

 であり、

「三すくみ」

 という状態であれば、最後まで生き残ることはできないということになるのである。

 この三つの時間に対する考え方が、

「三つ巴なのか?」

 それとも、

「三すくみなのか?」

 ということをテーマに考えたのが、

「万太郎の小説」

 だったのだ。

 その三つというのが、

「タイムスリップ」

「タイムリープ」

「タイムループ」

 という考え方だったのだ。

 それぞれに、

「関係があるようで、関係がない」

 あるいは、

「関係がないようで、関係がある」

 といえるのではないだろうか?

 この三つの時間の関係というのは。

「それぞれに、微妙な関係があり。そこに長所と短所が含まれていて、どれか一つに的を絞ると、あとの二つの関係が、いつ巴なのか、三すくみなのか?」

 ということで、どちらともいえるという、不可思議な感覚になるのではないだろうか?

 ただ、この三つは、あくまでも、

「お互いの関係を、平衡に保とう」

 ということから考えられているように思える。

「そもそも、一番最初に考えられたのは、何であろうか?」

 ということである。

「タイムスリップ」

 というのは、

「タイムマシンや、ワームホールなどの、アイテムを使って、本人がそのまま、タイムトラベルをしてしまう」

 というものである。

「タイムリープ」

 というのは、

「今の記憶を持ったまま、今の自分が、過去の自分に乗り移る」

 という感覚である。

 だから、

「タイムリープには、制限がある」

 と言われている。

 というのは、あくまでも、自分に乗り移るのだから、

「自分がいない時代」

 では、

「タイムリープ」

 というのは、存在できないということになるのだ。

 そして、

「タイムループ」

 というのは、ある一点から、もう一度、その時間を繰り返すことをいう。

 その時、繰り返しているという意識があるという考え方が、一般的な考え方だといえるのではないだろうか。

 タイムスリップというのは、タイム何とかと呼ばれるものの中で、一番ポピュラーなものであり、たとえるとしても、一番わかりやすいものであろう。

 しかし、そこには、問題点もたくさんあり、

「これが解決しない限り、タイムトラベルは、不可能だ」

 と言われるだろう。

 というのが、

「タイムパラドックス」

 というものだ。

「同一時間の同一時限に、同じ人間が存在している」

 ということ、

 そして、

「過去に行って、過去を変えてしまうと、未来がまったく変わってしまう」

 ということである。

 つまり、過去を変えて未来が変わってしまうと、

「何も知らずに過去を楽しんでから、元の時代に戻ると、そこはすでに変わってしまっている世界だ」

 ということになる。

 つまり、

「未来に向けて、現在は、無限の可能性がある」

 ということで、未来には、現在からの、

「無限の可能性の中で成り立っている」

 ということになる。

 しかし、実際に起こった未来は、一つしかない。

「いや、一つしか見えていない」

 というだけで、実際には、たくさんの可能性に裏付けられた未来が広がっているのかも知れない。

 その世界しか見えないから、

「世の中はきれいにつながっている」

 ということになるのではないだろうか?

 要するに、

「一点しか見ていない」

 ということである。

 よく会社やじ、

「人生の先輩なる人から、

「一点だけを見ずに、まわりをもっと見なさい」

 と言われるが、果たしてそうなのだろうか?

 見えている部分がその人いとっては、すべてであり、どんなに周りを見ようとしても、同じものしか見えないのではないだろうか。

 これが、ある意味での、

「真理ではないか?」

 と考えるのであった。

 というのも、一つとして、未来への創造ということで、

「タイムマシン」

 と双璧のように考えられるもので、

「ロボット開発」

 というものがある。

 こちらも、

「パソコンやケイタイなどの機械は、どんどん開発されているのに、やっと、AIというものの赤ん坊くらいのレベルのものが開発されただけで、自分の意志や判断で動くというロボットは、なかなか開発されない」

 ということである。

 そこには多くな問題が二つあり、これは、半世紀飴、いや、実際には、もっと前から言われていたことではないだろうか?

 まず、その一つに、

「ロボット工学三原則」

 というものがある。

 これは、

「フランケンシュタイン症候群」

 というものに絡むおので、

「理想の人間を作ろうとして、怪物を作ってしまった」

 というのが、

「フランケンシュタイン」

 という話だった。

 この話は、人間の補佐をさせる形で、

「強靭な肉体を作ったことにより、人間に制御ができなくなった時、これ以上の恐ろしい存在はない」

 ということになる。

 だから、人間にとって、この恐怖は、開発者にとって、

「人類全体のトラウマ」

 のようになり、

「ロボット開発は、不可能だ」

 と考えるようにもなっていた。

 しかし、

「だったら、人工知能に、人間に逆らわないものを作る」

 という発想が出てくるのであった。

 それが、

「ロボット工学三原則」

 というもので、これが、

「工学博士」

 のように人によって、考案されたものではなく、

「SF小説作家」

 によって考案されたものだというところが注目点であった。

 それが、今から約半世紀以上前のことで、その三原則というものは、よくできていて、

「人間がいかに、ロボットから襲われずに、うまく共存できるか?」

 ということに特化していた・

 第一条として、

「ロボットは、人間を傷つけてはいけない。そして、人間が危機に陥りそうなのを見た時は、それを見逃してはならない」

 つまり、

「身を挺して、人間を守らなければならない」

 ということになるのだ。

 そして、第二条は、

「ロボットは、人間の命令に従わなければならない。ただし、第一条に抵触してはならない」

 ということである。

 つまり、

「人間のいうことに従わないロボットは、そもそも、存在意義の問題となるが、だからといって、誰かを殺せなどという命令は、人を傷つけることになるので、その命令を聞いてはいけない」

 ということだろう。

 もし、ロボットが実際に活用されるようになると、複雑な人間社会で、

「共存」

 という形になるのだから、当然、ロボットにも、人間社会での共存を人工知能でできるように、

「ロボットが守らなければいけない法律」

 というものを制定する必要があるだろう。

 まだ、そこまでは程遠く、最低でも、

「フランケンシュタイン症候群」

 というものを引き起こさない程度にまではしておかないといけない。

 それが最低限の問題であり、

「そこから始まる原始的な発想」

 といってもいいだろう。

 そして、第三条としては、

「ロボットは、自分の身は自分で守らなければならない」

 ということだ。

 これも、

「一条、二条に抵触してはいけない」

 ということだ。

 だから、

「人間が危機に陥ったのが分かっていなから、見て見ぬふりはできない」

 という一条の方が強いので、その時だけは、ロボットは、身を挺して人間を助けなければいけないという判断をするということなのだ。

 それが、

「ロボット工学三原則」

 というものだが、実際に考えてみると、この三原則は、あくまでも、

「原則」

 ということで、法律のように、カチッとしたものではない。

 何といっても、

「スローガン」

 というものがないから、

「一貫性がない」

 と言ってもいいだろう。

 何といっても、

「SF小説家」

 が、自分の小説のネタとして考えたことなので、

「何かの問題や矛盾というものがなければ、成り立たない」

 ということであろう。

 だから、小説家としての見方なので、

「フィクションとして、面白おかしく描く」

 ということになるのだ。

 そういう意味で、わざと、辻褄の合わないものにしたのかも知れない。

 そういう意味では、

「ロボット工学三原則というものが、今の時代にまでバイブルのように言われ続けているということにびっくりしているのは、当の小説家本人なのかも知れない」

 ということである。

 だから、彼の小説は、すべてにおいて、

「矛盾だらけで、そのために、事件が起こる」

 ということである。

 つまり、

「ロボット工学三原則」

 というものの、根幹にあるものは、

「その優先順位」

 なのだ。

 優先順位が狂ってしまうと、

「人間が危機に陥る」

 ということになってしまったり、

「ロボットの人工知能の限界を迎えたり、無限ループに陥ることで、結果として、ロボットは、まったく動けなくなってしまう」

 ということになるということであった。

 それが、

「ロボット工学三原則」

 というものの限界ともいえるが、逆に、

「改善すべき点が、明確になった」

 ということで、

「五里霧中の中で、喘いでいる」

 ということにはならないということであろう。

 また、ロボット開発というものには、この、

「ロボット工学三原則」

 というもの以外に、別の大きな問題があった。

 これは、

「ロボット工学三原則」

 よりも、問題としては大きく、人工知能という、そのものの限界を表しているということで、

「ロボット工学三原則」

 よりも前に解決しておくべきことなのかも知れない。

 その問題というのは、

「フレーム問題」

 というもので、

「ロボットが、人間の命令に忠実に従うだけの機能しかもっていない場合はそれでいいのだが、自分の意志や考えに基づいて行動するようになった時に問題になる」

 ということである。

 これは、前述の、

「タイムパラドックス」

 というものに、引っかかるという部分もあるのだが、

「次の瞬間には、無限の可能性が広がっている」

 というところに、この

「フレーム問題」

 というのが引っかかってくるのであった。

 次の瞬間に無限の可能性が広がっているのだから、ロボットは、無限の可能性を探ることだろう、

 実際に、

「いつが、発想の終わりなのか?」

 ということを、誰が理解できるというのだろうか?

 無限の可能性を考えた時、基本ロボットは動かない。回路の中に、

「危険があるかも知れない場合は、動いてはいけない」

 という、本能のようなものがあるのかも知れない。

 ただ、動かないということは、少なくとも、

「何かをするために行動する」

 ということで、目的が定かでないことに対して、行動できるわけなどないといってもいいだろう。

 それを考えると、

「ロボットというものは、基本、人間に一番近いものだ」

 ということであろう。

「人間というものが、世の中で最高の頭脳を持っている」

 と信じて疑わない以上。作る人工知能は、人間というものを手本にしているに違いない。

 だから、ロボットは、目の前に広がった、

「無限の可能性を理解し、その中で最善の方法を見つけなければ、行動しない」

 というのは当たり前というものである。

 それを考えると、

「ロボット開発」

 というものは、

「人間以上のものを作ることはできない」

 ということであり、裏を返せば、

「この世で最高なものは、人間以外何者でもない」

 ということになるのだ。

 だから、

「人間にできないことは、ロボットにもできないわけで、せめて、限りなく人間に近いロボットをいかに作れるか?」

 ということにしかならないのだ。

 だが、人間の欲というのは、果てしないもので、

「人間以上のロボットを作りたい」

 と考えるのは、開発者としては、当然のことではないだろうか。

 それくらいのことを考えないと、

「何もないところから、新たなものを開発するなど、できるはずがない」

 ということになるのだ。

 それを考えると、

「無限の可能性」

 という命題に、

「どこまで近づくことができるのか?」

 ということになるのであった。

 ロボット開発において、

「人工知能が、今のままでは、まったく機能しない」

 ということは、

「ロボット開発者」

 にはわかっていることだろう。

 そこで考えたのが、

「考えられる可能性を、フレーム。つまり、パターンごとに考えて、その無限というものを有限にできないか?」

 ということであった。

 だが、よくよく考えてみると、

「無限からは、何で割ったとしても、そこに求められる答えというのは、無限でしかないのだ」

 という

「数学の公式」

 が頭をもたげる。

 そうなると、普通であれば、

「ロボット開発は不可能だ」

 ということになるだろう。

 何しろ、ロボットは、無限ループにはまり込んで、答えが見つからないまま、身動きができなくなってしまうということになるのだろう。

 だが、ここで一つの考え方であるが、

「限りなく何かに近い」

 というのは、

「決して、その近いものに到達することはない」

 という考え方も成り立つのではないだろうか?

 というのも、

「合わせ鏡」

 あるいは、

「マトリョシカ人形」

 というものの考え方として、

「限りなくゼロに近い」

 と考えられるものがある。

 合わせ鏡」

 などは、

「前後左右のどちかに、自分を囲むように鏡を置くとすると、鏡には、まず自分が映し出されるが、その向こうには鏡があって、その鏡には、また自分が写っている」

 ということである。

「鏡の向こうに自分がいて、その向こうにまた鏡があって、そこい自分が写っている」

 という、いわゆる、

「無限ループ」

 を繰り返しているといわれるが、これが無限であるというゆえんは、

「限りなくゼロ」

 にはなるが、決して

「本当のゼロになる」

 ということはない。

 つまりは、

「整数は、何で割っても、ゼロになることはない」

 という、こちらも、

「数学の公式」

 というものが当てはまるわけである。

 かたや、

「無限に広がっているものは、無限でしかない」

 と言われる考え方で、こちらは、

「ゼロというものに近づくことはできるが、ゼロというものにはなりえない」

 という発想は、そのどちらの発想も、

「除算においてはありえない」

 ということだ。

 ただ、これは裏を返せば、

「除算にないのだから、積算にもありえない」

 ということで、

「引き算をすることで、簡単にゼロになることができる減算」

 とは、まったく考え方が違うといってもいいだろう。

 しかし、人間の本質などを考える場合は、

「積算、除算というものに圧倒的に支配される考え方だ」

 と言えるのではないだろうか。

 それを考えると、

「人間の知能は、積算除算を考えることで成り立つのではないだろうか?」

 と考えられるのであった。

 そのような、

「積算」

「除算」

 などということを考えていると、

「フレーム問題」

 というものに、別の考え方が生まれてきたのだ。

 というのは、

「フレーム問題」

 というのは、それぞれの可能性を、

「いくつかのパターンで考える」

 ということであり、ただ、それをしても、結局、

「無限を何で割っても無限しか残らない」

 という、

「除算の限界」

 というものにしか行き当らないということになるのであろう。

 そんなことを考えていると、

 前述の、

「合わせ鏡の発想」

 である、

「限りなくゼロに近い」

 という発想との組み合わせという考えが浮かんできたのである。

 限りなくゼロに近いものは、決してゼロではない」

 もっといえば、

「なくなるということはない」

 ということだ。

 世の中には、

「輪廻転生」

 という言葉であったり、

「自然の摂理」

 などという言葉がある。

 これらは、永遠に、つまりは、無限に続いていく生命の繋がりを意味していることであり、

「人間などの一人一人の命には限りがあるが、人類というくくりになると、限りがない」

 という発想であった。

「輪廻転生」

 というのは、宗教的な考え方であるが、

「人が死んだら、一定の基準を下に、来世で生まれ変わる」

 というものである。

 もっとも、

「罪を犯したりした人」

 というのは、

「人間に生まれ変わることはできない」

 ということになるのだが、普通に暮らしていた人は、人間に生まれ変わることで、来世でも、

「別の人生が開ける」

 ということである。

 また、

「自然の摂理」

 というのは、

「人間だけではなく、生物すべてが、弱肉強食という発想で、たとえば、人間が獣を食べる。獣は植物を食べる、その植物は、人間や生物が死んだ時の肥料から育つ」

 というような、少し前の発想であるが、そんな感覚だといってもいいだろう。

 これも、

「繰り返されること」

 であり、どちらかというと、

「三すくみ」

 に近い考えであるが、それが、いかに、どのような形を描くか?

 ということになるのであろう。

 そして、この考え方から導きさされるものとして、

「限りなくゼロに近い」

 というもののすぐ横には、

「無限というものが広がっている」

 という考え方があってもいいのではないか?


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