第3話
「低位魔法でも、この帯を傷つけられるの……?」
たった今見た現象で把握する――魔法牢の強度は、作成者の魔力量が影響しているようだった。ラティミーナより魔力量の少ない人たちが作った牢だからこそ、ラティミーナのちょっとした魔法でも破損させられるのだろう。
ラティミーナが全力を出せば、いくら国内最高峰の王宮魔導士が束になって襲ってきたとしても、ひとり残らず返り討ちにできるはずだ。それほどまでに、ラティミーナとラティミーナ以外の人の魔力量には大差がある。
とはいえ先ほどのような、囲まれた状態で魔法を全方位に放っていたとしたら、反撃どころか広間を破壊してしまう可能性すらあった。
魔力の制御がままならなかった幼いころは、しょっちゅう自宅の壁に穴を開けていた。それでも両親は怒りはしなかったが――ラティミーナの両親は、一般的な伯爵家の血筋の人たちより魔力量がやや少ない。そのためラティミーナが魔力を抑え込まない状態で近づくと、すぐに具合が悪くなってしまうのだ。
ラティミーナは、生まれてこのかた一度として両親と触れ合ったことがなかった。
父と母の優しさは、抱きしめてもらえずとも感じてはいる。温かなまなざしで見つめ返してはくれるものの、その面持ちはいつだって切なげだった。娘に触れられないことを申し訳ないと思っているのかも知れない。
こういった生い立ちのせいで、ラティミーナには強い願望があった。
(誰からも抱きしめてもらえないまま、ここで朽ちていくのは嫌)
私を抱きしめてほしい――。
誰かの腕に包まれたならきっと、これまで感じてきた痛みも少しは癒えるはず――。何の抵抗もなくラティミーナに触れられるはずのディネアック王子は、これまで一度としてラティミーナを抱きしめてはくれなかった。
五歳で顔合わせしてから一年ほど経つまでの間は、手をつないで王城の庭園を散策したりもしていた。しかし嫌われゆくにつれ、触れてこないどころか距離も置かれはじめたのだった。
王子の婚約者である以上、将来の伴侶となる王子に触れてもらえないのであれば、もはや誰からも抱きしめてもらえるはずもない。
遠い昔にあきらめたはずの願望が、追い詰められた心に浮かび上がってくる。
それは、今の今まで抑え込んだまま、忘れていた思いだった。
心の底からの願いとともに、全身に魔力をみなぎらせる。
(この牢全体を一息で破壊してしまえば、修復する仕掛けも動かなくなるはず……!)
全身から湧き上がらせた魔力を手の中に集める。
腰まで届く長い髪が、ふわりと浮き上がりはじめる。
(まだ、もっと……、もっとたくさん魔力をためて、一気に放てばきっと破壊できる……!)
もし何も起こらなかったとしても、おぞましい空間で心を削られる中、じわじわと魔力を吸われていくよりかはましなはずだ。
今までに感じたことのない魔力の高まりを感じる。
自分でしていることなのに、意識がかすみそうになる。それほどまでに、ラティミーナの魔力は底が知れなかった。
全方位に火魔法を放つイメージを、頭に描きだす。
絶対に、ここから抜けだしてみせる――。深く息を吸い込み、今まさに火魔法を放とうとした、その瞬間。
予期せぬ異変が起きた。
ラティミーナの視線の先、何もない空間に、ひびが入る。
にゅっとそこから入り込んできたのは――あきらかに人の手だった。
(誰!? 魔法牢にあとから人が入ってこられるなんて、そんなこと起こりうるの……!?)
「どなたか存じませんが、どうかお引き取りくださいませ! そこにいては危険です!」
ラティミーナの言葉は届いていないのか、もう一方の手も隙間から現れて、ひびをこじあけようとする動きを見せる。
溜めに溜めた魔力は、もはやラティミーナ自身でも制御できないほどに増幅していた。
(だめ、止められない……!)
「お願い、よけて……!」
そう叫んだ瞬間。
ラティミーナを中心とした半球状に火魔法が炸裂した。
「はあっ、はあっ、……」
初めて全力で魔法を放ったラティミーナは、すさまじい解放感を覚えていた。
どっどっどっどっ……と激しい鼓動が全身をゆさぶる。その感覚も初めての体験だった。気づけばラティミーナの手足を拘束していた魔法の帯も、すっかり消え去っている。
(すっきりした……なんて思っている場合ではないわ)
魔法牢は、幾重にも外壁がドーム状に重ねられた構造だったらしい。ラティミーナが渾身の力を込めて放った基礎的な火魔法は、内側の数枚を破っただけのようだった。それらも徐々に修復されていっている。
「うう……」
破けた数枚の外壁の合間に、見知らぬ男が膝を突いている。貴族めいた装いのその人は、黒い衣服のあちこちが焦げていて、紫がかった黒髪もぼさぼさになっていた。
ラティミーナは、しゃがみこんでいる男性の元へと慌てて駆け寄った。
「どなたか存じませんが、魔法をぶつけてしまい、本当に申し訳ございません……! ご無事でしょうか……?」
まったく無事には見えない男性に、おそるおそる声をかける。よくよく見ると、魔法をぶつけて逆立ってしまっていたかのように見えた髪は、立派な角だった。
「角、が生えている……!? もしや貴方様は、魔族の方なのですか……!?」
男はラティミーナの問いかけに返事することなく、仮面を外すかのような手つきをして、広げた手を顔の前に滑らせた。その動きに合わせて魔法の光がキラキラと弾ける。
光の粒が消え去るころには、男の衣服は完全に修復されていた。すすけた汚れの付いていた肌も、乱れていた髪も、すっかり綺麗になっている。
男は、まったく別の種類の魔法をいっぺんに発動していた。
その魔法技術の高さにラティミーナが驚いて固まっていると、男が颯爽と立ち上がった。
魔法牢への侵入者は、恐ろしく背が高かった。それどころか、寒気を覚えるほどに整った顔立ちで、微笑を浮かべてラティミーナを見下ろしている。
北方に住む魔族らしい色白の肌。黄金色の瞳は、瞳孔が縦長だった。それは角と同様に、魔族の特徴と言われている。
紫がかった黒の艶髪。角は濃い紫色で、螺旋を描いて天を衝いている。
細身のフロックコートは黒地で、華やかな刺繍が施されている。その身なりから、高貴な身分であることがうかがい知れた。
(なんて美しい方なの……!)
初めて見る魔族に、ラティミーナは無意識のうちに見とれてしまっていた。
魔族は北方の巨大な渓谷の先にある、魔界と呼ばれる地域に住んでいる種族だ。今、目の前にいる人型の魔族以外にも、様々な種族がいるらしい。どの種族であっても寿命が数百年から千数百年と、人間よりずっと長く生きられるのだという。
渓谷を隔てた人間界とは、小競り合いを経て三百年前に不可侵条約が締結され、現在では事前の許可なくして互いに行き来はできない。
しかも条約締結以降、人間界側からも魔界側からも、入域許可が下りた事例はなかった。
尋ねたいことは山のようにあった。しかし考えがまとまらず、言葉が出てこない。
ラティミーナが呆然と男を見上げていると、美しい男は胸に手を当て、ゆっくりと御辞儀した。
再び顔を上げて、ラティミーナをまっすぐに見下ろして口元を微笑ませる。
「お初にお目にかかる。我が名はウィゾアルヴァールド。魔界の王だ」
「魔王様……でございますか!?」
衝撃の事実に、一瞬にして視界が暗くなる。
ラティミーナは今にも吐きだしそうなほどの強烈な恐ろしさに胃をねじあげられる中、脱力するに任せてその場で土下座した。
「申し訳ございません、魔王ウィゾアルヴァールド様! わたくしは、魔界の王であらせられる貴方様を害してしまいました! わたくしの所業は、決して許されることではございません……!」
先方が不可侵条約を破ったことなど、大罪の前では問われることはないだろう。
魔王を傷つけた罪により、この場で断罪されるか、魔界に移送されて処刑されるか、もしくは魔族総出で人間界に攻め入られるか――。
これから味わわされるかも知れない恐怖に、ラティミーナは今にも泣きだしそうになった。早鐘を打つ鼓動に息が乱れる。全身が、がたがたと震えだした。
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