第5話~来小禰のある峠~


 箱を両手で抱えるように運び、外に出る。夏を目前に気温は上がり始めていたが、まだギリギリ過ごしやすい陽気と呼べる頃合い。


 しかし、それは肉体労働を行う佐里香にも当てはまるのかといえば否であった。


「あついーもう無理。ココネだかコロネまでどれぐらいあるのかしら?」


 小屋から坂道に入り、数分もすれば佐里香は弱音を呟き始めた。


 箱は決して重くはなく、しかし佐里香の腕で軽々と持ち運べるものではなかった。だが、男性ならば片手で楽々と運べるかもしれない。体感、十キログラムぐらいに感じられる。


 形は長方形で長さは一メートルは無い。佐里香の腕よりも少し長いので、およそ八十センチぐらいだろう。


 佐里香は汗だくになりながら坂道を登る。歌草峠と呼ばれているらしいが、牧歌的なほのぼのとした自然というよりは、鬱蒼とした暗鬱な草木に満ち溢れている。いったいどこに歌の要素があるのだろうか。


 踏み固められた土の道を行くと、茂みの中にひっそりと建つ小さな祠を見つける。恐らく、あれが来小禰と呼ばれている物なのだろう。


 高さは佐里香の腰ぐらいで、幅はちょうど運んできた箱の長さと同じぐらい。道祖神やお地蔵様よりは一回り大みちの痛んだ木造の屋根があり、観音開きの戸が付けられた、ミニチュアサイズの社のようなものだ。


 来小禰の前には木材を組み立てて作られた、小さな台座があった。ここは後から作られた物なのか、社に使われている木材と違い新しい印象を受ける。佐里香はここが指示に中にあった台座なのだと考え、両手で抱えていた箱を置いた。


「……何やってんだろう、私」


 まったく意味の分からない仕事だ。これを行う事で一体何の役に立つというのだろうか。依頼人の目的も不明だし、この箱の中身も分からない。来小禰というミニチュア神社モドキも見た事のない物だし、何から何まで不明瞭で靄がかかっている。


 佐里香は周囲を見渡す。来小禰の奥は雑木林が広がるばかりで何もない。もちろん道を挟んで反対側の木々の中にも何もない。木漏れ日すら通さない密集した葉が落とす影で薄暗い山の不気味さに、嫌な気持ちがする。


 帰ろう。あまり来小禰の近くに居てはいけないと禁則事項にも書かれていたような気がする。


 荷物を下ろした佐里香の足取りは軽かった。行きはよいよい帰りは怖いと言うが、これはその逆である。何だか分からない箱からも解放され、肉体的にも精神的にも楽だ。


 ふと下る道で足を止め振り返る、歌草峠の坂は来小禰のあった地点よりも先まで続いている。


 この先には何があるのだろうか。若干の好奇心を抱いたが、すぐに思い返して坂を下る。別にそれを知る必要は無い。


 坂を下り切り、例の箱のあった小屋の施錠が間違いなく行われている事を確認して、佐里香は念のため根深知宗太郎の連絡先に電話をかける。


「はい、もしもし」


 数コールの後、いつもの女性が出る。


「お疲れ様です、城島です。箱の運搬が完了しましたが、他にやる事は大丈夫でしょうか?」


 暗に、もう帰ってよいかという確認である。何か仕事の不備を指摘されて給料を減らされては堪ったものでは無い。


「はい大丈夫です。明日以降も時間通りに歌草峠に来てください。それと、来小禰に問題なく箱を運べましたら、終了後の連絡は不要でそのままお帰り頂いて結構です」


 電話の女は言い終わるや否や、佐里香に断りも入れずに電話を切った。何とも嫌な感じの雇用主である。何より、根深知宗太郎という名前で依頼を募集していたというのに、毎回出て来るのはあの女性である。まさか電話の女性が根深知宗太郎本人であるとはとても思えない。


「まあ、私には関係のない話ね。考えない考えない」


 そう、細かい事などどうでも良いのだ。佐里香にとって重要な事は、アルバイトを遂行して報酬を貰う事。依頼主は何かを隠しているが、別に隠したければいくらでも隠せばよい。ちゃんと給料さえ貰えるのなら、佐里香にとって秘密の一つや二つ、どうだっていい。


 時計の針は十五時に差し掛かってた。実働時間はおよそ三十分。たったこれだけで、多額の日当が発生したのだ。


 帰宅の為に向かう最寄り駅への道のりの中、佐里香は携帯端末の他に何を買おうかと思案して、その足取りはより一層軽くなっていた。


 これが佐里香のアルバイト一日目の出来事でした。

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