第36話 当たり前の挨拶

 朝、シィリンが目を覚ませば、深い青緑色の瞳とぶつかった。冬の湖面を思わせる深みのある色合いだが、朝の光を受けて柔らかく溶けた。春の訪れを感じさせる金がまじることで、美しさが増す。

 

 真横でサヴェスが枕を頭にして寝ていた。まるで添い寝をされているような形だ。いつもは後ろに撫でつけられている前髪が下りて、額にかかっているのも初めて見た。昨日の夜は湯あみをした後でも、きっちりと後ろに流していたので寝起きでしか見られない姿なのかもしれない。


 シィリンは息を呑んで、呼吸をそのまま忘れたほどである。


「おはよう」


 腰に直接響くような低い声が、真近くからささやかれる。鼓膜を震わせ、脳に痺れるような感覚が走った。

 な、何が起きたのか!?


「お、おは……ごほっ」

「おい、大丈夫か?」


 サヴェスが慌てて、大きな手のひらで優しくシィリンの背中を撫でてくれた。

 驚かせた張本人に心配されるとは、なんとも本末転倒な話である。

 シィリンは憤って、さらに噎せた。


 そうして落ち着いた頃、なんとかサヴェスに問いかける。


「なぜ、一緒に寝ているんでしょう」

「ここが私の寝室だからだが。昨日連れてきたことを、まさか忘れたのか」


 呆れたように告げられて、そのとおりなので小さく呻くことしかできなかった。

 一緒に寝るとは言っていたが、仕事すると出ていったので配慮してくれたのかと勝手に思い込みでしまった。


「君は、もっと落ち着いた人だと思っていたが……年相応で、そそっかしいところもあるんだな」


 くすりと小さくサヴェスが笑み、上掛けを除けて体を起こした。


「年相応なら、いいのではありません?」


 シィリンもつられて体を起こしながら思わず口を尖らせる。サヴェスに比べれば、年下なのはかえようのない事実だ。

 だが、そそっかしいなどと初めて言われたような気もする。


「うん、悪くない。可愛いな」


 それ、どんな顔をして言ってるんですかね?


 どこか笑いを含んだ穏やかな声を聞いていれば、顔を見なくても想像はつく。

 けれど藍色の寝ぐせのない艶やかな髪と広い背中を見つめて、シィリンは勢いよく下を向いた。

 相手の顔など見られるわけがない。そうすることで、今の自分の顔を相手に見られることになるのだから!


「仕事に行ってくる。君はもう少し寝ているといい」


 シィリンの動揺など気にもしないで、彼は穏やかに続けると寝台をさっさと下りた。


「お気をつけて、いってらっしゃいませ」


 立ち去る気配がしたから、シィリンは慌てて口を開いた。

 結局、顔を上げることはできなかったので彼の反応はわからない。ただ、息を呑む気配だけは伝わってきて、訝しむ。

 妻が夫を送り出す時の、ごく当たり前の挨拶のはずだ。


「……ああ。今日は、仕事で遅くなるから先に寝ていてくれ」


 サヴェスの声が少し上擦って聞こえた。

 けれど、そのまま彼は寝室を出て行ったようだった。

 パタンと扉の閉まる音がして、部屋に静寂が戻ってから、シィリンは詰めていた息を盛大に吐き出したのだった。

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